転轍器

古き良き時代の鉄道情景

賀来

 久大本線久留米~大分間は昭和9(1934)年11月15日に全通した。大分側の大分~小野屋間はそれよりも早い大正4(1915)年10月30日に、私鉄大湯鉄道として開通している。その後大正11(1922)年12月1日に国有化され、鉄道省大湯線となった経緯がある。

 国鉄時代末期に賀来駅を訪れていた。片面1線の交換不能の配線であるが、行止まりの貨物側線が画面手前大分寄りから分岐していた。その名残りの貨物ホーム跡がこの時まだ残っていた。貨物ホームの後ろに大きな農業倉庫が建っていたので農産物が出荷されていたものと思われる。 久大本線賀来 S61(1986)/5

 キハ58246〔分オイ〕先頭のキハ53が間に入った4輛編成。 621D 久大本線賀来 S61(1986)/5

 撮影時、50系の客車列車は大分口で3往復、久留米口で4往復が運転されていた。朝の豊後森発大分行客車列車は蒸機時代から続いている。 623レ 久大本線賀来 S61(1986)/5

 賀来駅は大分川に支流の賀来川が合流する辺りにあり、画面右側へ進むと賀来川を渡る。近くにあった豊後国分寺は古代大分の宗教の中心地だったとか。駅周辺はバイパス道路ができて店舗や住宅が建って都市化が進んでいる。逆に駅は無人化されて寂しくなっていくように映る。 久大本線賀来 S61(1986)/5

 大分平野の西の端に下りて来た下り列車は賀来を過ぎると平坦な区間となり、大分市の市街地へと向かう。 久大本線賀来~南大分 S61(1986)/5

玖珠盆地の東端

 久大本線の恵良から引治、豊後中村にかけては玖珠盆地を抜けて飯田高原北の端をさらなる上り勾配が続く。

 野焼きの跡を感じるきれいな築堤をD6057〔大〕が客車5輛を従えてR300の左曲線に姿を現す。勾配標が示す通り引治を出ると鳴子川の鉄橋まで25‰の上り勾配だ。 1635レ 久大本線引治~豊後中村 S44(1969)/4/1

 鳴子川橋梁を渡ると野上トンネルが待っている。鉄橋を渡る轟音は周りののどかな風景で聞こえるひばりのさえずりをかき消す。 1635レ 久大本線引治~豊後中村 S44(1969)/4/1

 引治駅は野上川が玖珠川本流に合流した位置にあり、駅を出るとカーブした玖珠川橋梁が待っている。D6067〔大〕が鹿鉄標記のヨ1輛を連れて鉄橋を渡る。 6696レ 久大本線恵良~引治 S44(1969)/4/1

 郡山装備2灯のD6058〔大〕が引治を発車して玖珠川橋梁に差しかかる。藁小積みときれいな築堤、はえたたきが写る古き良き鉄道情景に心が染みる。 638レ 久大本線恵良~引治 S44(1969)/4/1

 新車キハ45601〔分オイ〕が早くも運用に就いていた。気動車の方向幕に「久留米」と行先が表示されるのは当時画期的であった。キハ45600番台は簡易郵便荷物車として2輛(601・602)が大分運転所に新製配置された。 636D 久大本線引治 S44(1969)/4/1

 引治駅から見た玖珠川橋梁。上り列車はここから高度を下げて玖珠盆地へと下りて行く。 久大本線引治 S44(1969)/4/1

 写真は全て:小川秀三さん

水分峠 野上川の谷間

 久大本線の豊後中村~野矢間は分水嶺の水分峠に向かって25‰の上り勾配が続く。下り列車は日田盆地、玖珠盆地をぬける度に高度を稼ぎ上り勾配は豊後三芳を出た辺りから始まっている。標高607mのサミットまで豊後中村から急峻な上り坂となる。

 標高710mの城山頂上からは野上川に沿った線路を豊後中村の発車から野矢手前までの大パノラマが楽しめる。はるか下を行く機関車のドラフト音は山間にこだまして見えなくなるまで続く絶好の位置だ。この秋に迫るDL化を前に久大本線蒸機時代最後の記念にと、幾度か挑戦して断念した登頂を果たしたとお聞きした。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 昭和45(1970)年の山肌は樹木がまだ育っていないことがわかる。城山山頂には「昭和38年4月~5月植栽」の記念碑が建ち、「大分県九重町」が刻まれていた。眼下の列車の歩みは遅々とし、吹き上げる煙は客車に線路に沿って後に続く。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 豊後中村を出て野矢までの間に野上川を4度渡る鉄橋(第2~第5野上川)と、70mの鋳物師釣トンネルがある。列車は大パノラマの終わりとなる野矢手前の飛川橋梁を渡っている。汽車の前進とともに移り行く絶景に感動した。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 城山中腹から水分峠側を望む。線路は画面右側野矢方から左に流れ、国道210号線は峠から降りてきて線路と並行する。野上川の谷がこんなにも深いことがよくわかる。野矢を出た上り列車が坂を下って来る。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/26

 水分峠西側の下り坂を鳥栖行が掛け降りて来る。牽引機は遠目から見てもエアータンク上のランボードが反り返っているのでD6062〔大〕とわかる。線路築堤の下はその名前が玖珠川に変わる野上川が谷底深くで流れている。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/26

 25‰上りに挑むD6065〔大〕の力強い奮闘が伝わってくる。オハユニ6157〔分オイ〕が続き、郵便マークとなりのサボは青地白抜きの楷書体に見える。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/4/5

 豊後中村を発車、野上川を2度渡り終えて左曲線をしなやかに行くD6060〔大〕。6輛の客車は内側に編成を傾けて続く。 629レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/24

 遠くに霞む由布高原の山々を背景に上り勾配に喘ぐ列車を名残り惜しい気持ちで見送る。D6060〔大〕の639レはR300の左曲線から山影に機影が隠れるまでかなりの時間を要した。

 原野と峡谷が織りなす原風景を汽車が行く。罐はデフの形状からD6069〔大〕と思われる。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/3/31

 写真は全て:小川秀三さん

 津島軽便堂写真館

津島軽便堂写真館のホームページは各地の鉄道情景を魅力的に発信され、これまで閲覧させていただいていた。久大本線のページは豊後中村~野矢間の城山登頂の苦労と雄大な景色の眺望が披露されている。併せて同日撮影の宮原線C11も貴重な記録として心に残る。

文通の写真から 汽車憧憬

 D51499〔福〕+C1232〔舞〕 福知山 S45(1970)/8/20 撮影:MURAさん 所蔵:転轍手
 後藤工場変形デフを持ったD51499はあまりにも有名でその存在は知っていた。C12を従えているので舞鶴線へ歩を進めるのであろうか。福知山は鉄道の要衝で、福知山機関区は山陰本線福知山線舞鶴線宮津線播但線の基地であった。

 C58322〔敦一〕 C12215〔舞〕 西舞鶴 S45(1970)/8/20 撮影:MURAさん 所蔵:転轍手
 京都府の東舞鶴福井県敦賀を結ぶ小浜線敦賀第一機関区のC58が活躍していた。時刻表を開くと山陰と北陸を結ぶルートとして福知山から敦賀まで山陰本線舞鶴線小浜線が連続して掲載され、優等列車も多く設定されていた。西舞鶴宮津線の起点で機関区も置かれC58・9600・C12が配置されていた。

 C56108〔木〕 備後落合 S46(1971)/4/2 撮影:MURAさん 所蔵:転轍手
 木次線管理所のC56が行く出雲坂根の3段式スイッチバックは有名だった。芸備線と接する備後落合はC58やC56が佇む矩形庫がある趣きのある駅で印象深い。短い貨物列車にローカル線には不似合いなワキ1000が連結されている。

 C58190〔奈〕 奈良線黄檗~宇治 S46(1971)/7/17 撮影:乙訓長岡さん 所蔵:転轍手
 宇治川橋梁をC58190〔奈〕の牽く下り貨物列車が渡っている。黄檗(おうばく)は難読駅名のひとつ。宇治は銘茶や清酒の製品輸送やユニチカ(旧日本レイヨン)の専用線があって貨物輸送は旺盛であったようだ。撮影時、奈良運転所には10輛のC58がいて奈良線関西本線で運用されていた。

 C56111〔長〕 飯山線上今井~替佐 S46(1971)/8/6 撮影:乙訓長岡さん 所蔵:転轍手
 飯山線信越本線豊野と上越線越後川口を結ぶ107.5Km(距離は長野から)の路線で、途中長野運転所の支所がある飯山、長野県境の森宮野原、転車台がある十日町の中継点がある。C56111〔長〕のプレートは自慢の形式入でとても大きく見える。長野・金沢管理局管内でのC56配置は長野(転)・中込・上諏訪糸魚川・七尾の各機関区で、飯山線小海線大糸線七尾線で運用されていた。

 C12230〔中〕 明知線岩村~花白 S47(1972)/7/22 撮影:HAYAさん 所蔵:転轍手
 明知線中央本線恵那と明知を結ぶ25.2Kmのローカル線でC12が貨物列車を牽いていた。下り明知行が正位、上り恵那行が逆行運転であったようだ。

 C5820〔俣〕 二俣線波田 S44(1969)/3/27 撮影:HAYAさん 所蔵:転轍手
 静岡県西部の掛川から遠江森、遠江二俣、金指、三ケ日を経て県境の新所原へ至るのが二俣線である。東海道本線の迂回線として使われることは無く、みかんや原木輸送に8620を引継いだC58がその任に当っていた。昭和46年3月にはDE10に置換えられている。

 C11の牽く上井発関金行425レ 倉吉線上井~上灘 S47(1972)/1/4 撮影:YAMAさん 所蔵:転轍手
 上井とは?撮影後の昭和47年2月14日に山陰本線上井は倉吉に改称され、同時に倉吉線倉吉は打吹に改称されている。下り列車はC11逆向きで走る。

 C11の牽く関金発上井行426レ 倉吉線上井~上灘 S47(1972)/1/4 撮影:YAMAさん 所蔵:転轍手
 関金折返しの上り列車が天神川を渡る。

 D51720〔山〕 小郡 S46(1971) 撮影:NOMUさん 所蔵:転轍手
 益田行723レが小郡を後にする。山口線管理所の11輛の集煙装置付D51山口線で働いていた。昭和48年10月でDL化されると、D51720は長門へ移動し活躍の場は山陰本線となった。

 C57134〔佐〕 佐倉 S44(1969)頃 撮影:中原街道さん 所蔵:転轍手
 千葉発銚子行325レが佐倉を出る。手前が総武本線、奥が成田線で撮影時佐倉機関区にはC57・C58・8620が配置されて、総武本線成田線・房総東西線東金線で運用されていた。

キハ58系急行“由布”の終焉

 キハ58系急行“由布”は新しい衣装に衣替えし、一部国鉄色が入っていた編成は全車統一された。5輛編成の内キハ65が3輛組まれている。 由布院 H3(1991)/6

 国鉄時代の窓回り赤の塗分けから裾境のツートンに変わったのでおでこが広くなったように感じる。落ち着いたカラーリングにインパクトのあるヘッドマークが印象的。ナンバーはキハ585002と読める。

 キハ65+キハ58+キハ65+キハ65+キハ58の並びは上掲由布院の時と同じで、新急行色はまだ1輛だけの時を撮っていた。 西大分 H1(1989)/8

 新急行色が揃った4輛編成。先頭はキハ585003と読める。 日豊本線西大分~大分

 シーサイドライナー色塗替え途上の姿だろうか。平成4(1992)年7月改正で、キハ58系急行“由布”はキハ185系特急“ゆふ”に格上げされて終焉を迎えた。 西大分 H4(1992)