転轍器

古き良き時代の鉄道情景

津久見の汽車風景

 臼杵から津久見へ向かうには豊後水道につき出た半島を越えねばならず、昔は半島の稜線に沿って十国峠を越えて津久見湾へ出る難所であった。鉄道は臼杵津久見間9.7km、駅間に徳浦信号場をはさみ8つのトンネルで山を越える。臼津峠は国道の峠名で鉄道にその名はない。

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 臼杵を出て8つ目のトンネル、津久見第一トンネルを抜けるとそこは津久見構内が広がっていた。15‰の勾配はDF50がうなりをあげて通った道だ。左の建屋の表札は「佐伯信号支区津久見詰所」と筆書きされていた。 日豊本線津久見 S47(1972)/12/29

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 振り返るときれいな曲線を描いた構内が広がっていた。左に駅本屋、島式ホーム1面2線の外側に上下副本線が敷かれている。3線の貨物ヤードは貨車で埋まっている。 津久見 S47(1972)/12/29

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 津久見第一トンネル臼杵側を撮る。この時電化用のポールが建ち始めていた。列車は西鹿児島門司港・広島行404D“青島”。 日豊本線徳浦(信)~津久見 S45(1970)/1/4

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 津久見第一トンネル側から海寄りを見た構図。津久見は「みかんとセメントの町」と呼ばれていた。南向き斜面では柑橘が栽培され、石灰石の水晶山は白く輝き、津久見湾のセメント工場は活況を呈していた。 1578レ 日豊本線徳浦(信)~津久見 S46(1971)/8

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 急行“フェニックス”が津久見川橋梁を渡る。 1108D 日豊本線津久見~日代 S44(1969)/8

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 DF50503〔大〕の牽く南延岡行は津久見川を渡り小高い山を避けるようにR300の右曲線で進む。 1531レ 日豊本線津久見~日代 S44(1969)/8

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 1年後再び同じ場所に行くと埋立が進んで海岸線は大きく後退していた。これまで海だった場所から元海岸線を行く列車を眺める。長い編成の別府発西鹿児島・鹿屋行507D“南風2号”が通過する。  日豊本線津久見~日代 S45(1970)/8/15

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 不思議な形をしたコンクリートの塊が整列する異様な光景に動転する。当時はテトラポットという名称さえ知らなかったと思う。列車は別府発宮崎行6505D“南風1号”で南行の急行2本が連続して通る。 日豊本線津久見~日代 S45(1970)/8/15

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 日代で2本の急行通過の後上り貨物列車が姿を現す。 1578レ 日豊本線津久見~日代 S45(1970)/8/15

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 海の見える場所を探しているうちに列車は容赦なくやって来る。かろうじて津久見湾と白い石灰岩の岩山が見える。 6593レ 日豊本線津久見~日代 S45(1970)/8/15

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 特急“にちりん”は津久見通過扱いであった。猛スピードで目の前を通過。手前に見える枕木柵は警戒色が施され、橋梁の手前で犬走りが終わる合図であろう。 2011D 日豊本線津久見~日代 S45(1970)/8/15

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 下り列車は津久見を発車するとすぐ第一津久見トンネルに入る。トンネルを出ると本線から小野田セメント専用線が分岐し、しばらく単線並列の形で進む。D5193〔延〕の牽く1578レが接近。 日豊本線徳浦(信)~津久見 S45(1970)/8/15

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 列車はこれより徳浦信号場にかけて15.2‰の上りにかかる。右の線路は小野田セメント専用線、後方は白い山肌の水晶山が写っている。この先に日豊本線と交差するトロッコ風の軌道が敷かれていた。この記憶を蘇らせてくれたのが鉄道ピクトリアルNo.396昭和56年11月号で、「知られざる鉱山鉄道大分鉱業㈱」の記事である。それによると徳浦港へ向かうのが大分鉱業運鉱線で単線電化の1067㎜軌間津久見港へ向かうのが日鉄鉱業運鉱線で複線非電化の762㎜軌間でこの2線が存在していた。走行している姿も目撃したが、当時は残念ながら興味の対象とはならない存在であった。

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鉄道ピクトリアルNo,396(S56/11) 知られざる鉱山鉄道大分鉱業㈱から

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 給水温め器に装飾帯を巻いたD51485〔延〕が入換を行っている。駅本屋側にある貨物上屋が見える。たしか駅前広場にも貨物側線がはみ出していた。 津久見  S45(1970)/8/15

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 構内東寄りは津久見川が寄り沿ってくる。路盤はきれいな石積みの築堤の上に敷かれている。

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 2時間遅れの“高千穂”が突然姿を現す。1輛めスハフ42の屋根はグレイに見える。2輛めスロ54のグリーン帯が美しい。 2031レ 津久見  S45(1970)/8/15

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 C5717〔大〕の牽く佐伯行1523レ 日豊本線津久見~日代 S46(1971)/8

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 南延岡発門司港行534レが交換待ちで徳浦信号場に停まる。対向列車はキハ80系特急“日向”で、薄暮に浮き立つきれいな車体を傾けて快調に飛ばして行った。徳浦信号場から見える住宅と工場群の明かりがとても美しく津久見湾の夕景として印象に残っている。この門司港行は長距離鈍行で南延岡15時45分発、大分19時38分着、終着門司港は0時02分着で8時間以上の行程であった。次の臼杵では急行“高千穂”に追い抜かれる。2001D 日豊本線徳浦(信) S46(1971)/8

日本セメント佐伯工場への引込線

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 海崎駅に立寄った昭和61年から30数年の月日が流れていた。セメント工場の引込線のことは気にはなっていたが時の流れに飲み込まれてしまっていた。そんな折国土地理院のWEBで海崎駅付近の空中写真を見つけ、駅から工場へ引き込まれた専用線の軌跡を確認することができた。

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 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス MKU656X-C4-11 昭和40(1965)年 臼杵

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 空中写真と現在の配線、当時の鉄道線路が忠実に描かれた佐伯市住宅地図をもとに駅と専用線の配線を書いてみた。駅構内は下り線山側に側線が敷かれ、セメント工場内は場内の一番奥まで引き込まれていた。

 佐伯市史によるとセメント工場は大正15年に操業開始。鉄道は豊州線が大正5年佐伯まで、大正12年に重岡~市棚が開通し日向路へ進み線名は日豊線と変わっていく。海崎は大正12年に開業している。

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 現在も引上線の跡は確認できる。 海崎佐伯寄り構内 R2(2020)/2
 海崎駅で花壇の手入れに余念のないボランティア駅長のお母さんに昭和40年頃の様子を聞くことができた。「当時は海崎駅から佐伯駅まで列車通学していました。大分から来る下り列車は超満員で駅員が乗客を無理やり押し込む光景が毎朝の風物詩でした」。私の頭によぎるのはその列車、C55、C57、それともDF50が牽いてきたのだろうか。

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 セメント工場へ向かう引上げ線側の橋台。
  ボランティア名誉駅長は「セメント工場への引込線で蒸気機関車が行き来していたのは見たことあります」と。さらに「駅は十数名の駅員さんがいて官舎もありました。駅前は賑やかで商店も建ち並んで活気がありました」と話は続いた。

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  工場側の橋台もついこの間まで鉄橋が架かっていたような雰囲気が漂う。頭を赤く塗られた標柱は境界を示すものだろうか。

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 本屋寄りの側線はそのまま残っている。
  「私の身内もセメント工場に勤めていました。工場のおかげで町は潤い、人の数も多かった。当時は学校のクラス数も多く、工場脇、岬の神社のお祭りは大勢の子供で溢れていました」。良きあの時代の光景を想像してみる。

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  駅前はバス停がぽつんのあるだけ。商店や建物が歯抜けのように無くなっていた。
  以前、国鉄機関士OBの方から「海崎と津久見専用線は直接本務機が入って行った。セメント積の貨車をつなぐととたんに重たくなった」話を聞いていた。日田彦山線を走っていた日本セメントのホキ3500等のホッパ車は日豊本線では縁がなく、セメント積の貨車は何だったのか、テム300しか思い浮かばない。
  鉄道輸送の記述がないか「80年の歩み1883ー1963日本セメント株式会社」(昭和38年刊)を探してみた。佐伯工場関連では「昭和27年4月、回転窯増設工事の完成で生産力が増強された。海上バラ輸送を行う為の出荷設備の拡張が行われた」とあり、製品輸送は鉄道よりも沿岸立地を生かした船舶が主であったことがわかる。

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 数年前に図書館で発見した貨物統計年表は駅別石炭到着実績の数値が記載されていた。まるで鉄道愛好者のためにと思えるような無蓋車と石炭車の区分、15トン積2軸貨車が到着した状況がよくわかる。各工場の燃料は石油に変わる前の時代と思われ、筑豊からの石炭が到着していたものと想像する。年度ごとに増加する津久見に対して海崎は一気に減少に転じているのは、陸路から海上輸送になったものであろう。(津久見のトム車数が空欄なのは分厚い本のコピーでとじ部が写っていなかったため不明)

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 昭和40年度のベスト20で海崎駅を見ると発送トン数にランクインするものの到着はなく、日本セメントの製品出荷で貨物収入を稼いでいることになる。発送トン数上位の宇島よりも貨物収入が多いのに驚く。ベスト20はほとんどが日豊本線、細島線で豊肥、久大本線はごくわずかである。昭和32年版全国専用線一覧表に記載された豊後森や日ノ影線槇峰、日ノ影は登場していない。

 佐伯市の図書館で日本セメントの鉄道輸送の何か手がかりがないか調べた際、逆にもう既に鉄道輸送は終了している、といった資料しか発掘できなかったのは残念であった。佐伯市小学校社会科部編「わたしたちの佐伯市昭和58年度版」(3・4年生社会科資料)から

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 海崎駅となりに立地する日本セメント工場へはもう鉄道線は描かれていない。線路が剥された時期はいつ頃であろうか。佐伯からの興国人絹への専用線はまだ健在であったが昭和59年秋頃には廃止されている。

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 セメントの原料は石灰石やねん土、けい石や鉱さいということがよくわかる。いずれも近隣から調達ができ鉄道に頼らなくても良かったこともうかがえる図である。福岡県の香春や船尾のような内陸立地は鉄道輸送が必須であったが、その点で海崎は海上輸送によるところが大であった。

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 製品出荷も一目瞭然、船舶とトラックである。我々が習った社会科は必ず鉄道が登場し、それがまた憧れの的となった。現在の社会科で産業にふれる時、鉄道が登場する場面は少なくなっているであろう。残念ながら時代の流れはそうなっている。

海崎黄昏時

 所用で佐伯に行った帰り道、日没時刻にもかかわらず佐伯からひとつめの海崎駅に立寄ってみた。何の変哲のない上下2線だけの普通の駅であるが、そこに立ち止まらせたのには訳があった。駅の近くの海岸沿いに要塞のような日本セメントの工場があり、かつて専用線が敷かれていた痕跡が見られれば、と思ったからである。駅から工場の方を眺めるも、はっきりとした線路跡は確認できず道路横断の位置を推測して立ち去ろうといていた。ふと信号機に目をやると下り側は青の進行現示で、暗くはなったがせっかく来たので下り列車を待つことにした。 日豊本線海崎 S61(1986)/4

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  下り側佐伯寄り構内を見る。下り側だけ1本の側線が本屋寄りに引かれていた。工場への専用線は角度的に下り線を進みスイッチバックする線形であろうと推測する。画面左に工場の煙突が見える。

 

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 上り側津久見寄りを見る。上下本線以外は側線1本だけて工場への貨車の出し入れはどのように行われたのか想像がつかない。

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 海崎は無人駅。この年代はどこの小駅も跨線橋が設置されていた。下り列車接近。辺りはすっかり暗くなっていた。

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 475系6連が入って来た。方向幕は「普通」が照らし出されている。列車番号板は「589M」と読めた。

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 6輛編成の窓の明かりで駅は一瞬賑やかに照らされる。列車が出ると構内はまた元の暗闇に戻っていた。

夜行からまつ

 北海道撮影旅行の夜はほぼ夜行列車で過ごし、すずらん4号、大雪5号、利尻等に乗車した。帯広、池北線を訪れた際は夜行の各駅停車“からまつ”に乗車した。寝台車を連結した各駅停車は寝台券を発行する際に愛称が必要とのことで、からまつの他南紀、山陰、ながさきの各列車があった。f:id:c57115:20200505164530j:plain

 せっかく下り、上り“からまつ”に乗車したのに写真は全く撮っていない。写真がないので記憶も曖昧で残っていない。乗車した証は時刻表のチェックと駅で買った入場券と駅弁の掛け紙であろうか。ただ覚えているのは駅間28㎞の狩勝峠を越えるので何としてもこの目で確認したいという思いがあった。残念ながら上下列車とも夢の中で、まさか駅間に信号場が4つもあるなど思いもしなかった。

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 帯広5:35着。帯広特製幕の内弁当は300円で調整時間6時のスタンプが押してある。下車し広尾線の貨物列車を、構内入換のキュウロクを撮った後の朝食と思われる。

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 その日は池北線で撮影の後、“からまつ”は始発の釧路から乗りたかったので池田から“狩勝2号”の人となる。時刻表で辿ると乗継の時間はあわただしく入場券と今宵の晩ごはんを買うので精いっぱい、とても写真など撮る余裕はなかったのではないか。それと旅は最終日で財布は空っぽ、フィルムさえ買うことはできなかったと想像する。池北線のネガが北海道旅行の締めくくりであった。

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 時刻表の駅弁案内ー釧路はかにめし300円、貝の釜めし300円と記載。手に入れたのは釧路港金蓮花が描かれた幕の内弁当300円であった。19時ちょうど釧路発車、客車のボックス席を占領できたかどうかわからないが北海道最後の夜を迎えた。

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 スハ45に乗ったのか、スハフ44に乗ったのか記録も写真もないので想像をふくらませるしかない。小樽行424列車は2:25富良野着。当然夢の中ではあるが、下りホームは釧路行423列車が先に着いているはずだ。釧路行2:33発、小樽行2:39発。

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  寝台車はオハネ12だろうか、スハネ16だろうか。2輛連結ならもしかして札サウのスハネ30が付いていたかもしれない。遠いあの時代に思いを馳せるー。

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 釧路から394.9㎞、各駅停車(一部通過駅あり)の“からまつ”は札幌5:36着。終着小樽めざして6:00発車。前にも後にも10日以上の撮影旅行はこの時だけ。夢のような北海道紀行が終わった。  函館本線札幌 S49(1974)/9/19

北海道鉄道記念館

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 手宮貨物駅の山側にひっそりと3線の扇形庫が建っていた。当時、歴史的価値のあるものとの認識はあまり持ち合せていなかったように思う。庫の中の古典機にも興味は湧かず儀礼的に撮ったネガだけが残っていた。 北海道鉄道記念館 S50(1975)/9/14

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 旧手宮機関庫の説明標によると、明治18年幌内鉄道の機関庫として建設され、明治39年国有化されたとのこと。国鉄の路線名は手宮線となりその後小樽築港機関区手宮支区となった模様。石炭輸送で栄えた手宮線の栄枯盛衰を垣間見たようだ。

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 準鉄道記念物第3号指定 大勝号機関車
  明治27(1894)年12月北海道炭砿鉄道手宮工場で起工し、翌28年9月15日に完成した日本人製作の現存する最古の機関車です。その完成した時期が日清戦争に勝利を博した折であったので“大勝号”と命名されました。明治39(1906)年10月に北海道炭砿鉄道は国有となり、この機関車も7150形、番号7150号と改めました。その後北海道炭砿汽船株式会社に譲渡され、さらに同社夕張製作所で使用されたが、戦後同社から国鉄に寄贈され国鉄苗穂工場で復元の上、昭和29年11月から39年3月まで北海道大学附属博物館に陳列、その後苗穂工場で再び修復の上現在に至ったものであります。 日本国有鉄道北海道総局 昭和39年10月14日 (説明板から)

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 準鉄道記念物第1号指定 しづか号機関車
  北海道における鉄道のはじまりの幌内鉄道時代(明治13(1880)年~明治22(1889)年)に義経(1号)、弁慶(2号)の機関車についで米国から6番目に輸入された機関車です。手宮~幌内間に使用されました。その後北海道炭砿鉄道(明治(1889)22年)から国有鉄道所属(明治39(1906)年)となり、さらに室蘭の日本製綱所(大正6(1917)年)に移籍しましたが、昭和27(1952)年同所から国有鉄道に寄贈され苗穂工場で復元の上現在に至ったものであります。 日本国有鉄道北海道総局 昭和39年10月14日 (説明板から)

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 準鉄道記念物第4号指定 キ601号回転雪かき車
  鉄道線路の積雪が1m以上になると、両側が雪の壁になって、ラッセル車では除雪が困難になります。そこでロータリー車の登場となるわけですが、この回転雪かき車はアメリカン・ロコモティブ会社で大正12(1923)年7月に2輛製造されたものの一つで、同年12月、日本で組み立てられ信越線をはじめ東北、裏日本の豪雪地帯で活躍しました。これは日本における最初の回転雪かき車として、除雪作業の機械に大きな足跡を残し、またこれをモデルにして国産化が行われ、国鉄苗穂工場で同形のものが製造されました。ここに陳列してあるのは雪かき車の部分で実際に活動するときはこれに炭水車をつけました。 日本国有鉄道北海道総局 昭和39年10月14日 (説明板から)