転轍器

古き良き時代の鉄道情景

宝泉寺

 九重連山の西側、大分県熊本県の境に標高1500mの涌蓋山がそびえている。地熱地帯のふもとに展開する温泉郷のひとつ、宝泉寺温泉は町田川の渓間に位置する。久大本線恵良から線路が伸びて来たのは昭和12年。太平洋戦争の金属供出で一時営業停止となるが昭和23年に復活した歴史がある。山間の湯治場は鉄道の開通で賑やかな温泉街へと変貌していった。

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 宝泉寺駅最初の開業は昭和12年6月で恵良~宝泉寺間開通の時であった。昭和18年9月、戦争激化で不要不急線の扱いを受け延伸工事は中断、線路は撤去され終戦後の昭和23年4月に再開され、29年3月に肥後小国まで延伸された。駅周辺は宝の温泉が湧く宝泉寺温泉のホテル・旅館街が広がっている。 宮原線宝泉寺 S59(1984)/3/28

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 廃止の声を聞いて立寄った昭和50年代末期の宝泉寺駅の様子。気動車がキハ53であったら昭和40年代の景色と言っても過言ではない懐かしい鉄道風景と思える。昭和40年代半ばまで貨物扱いがあって、その貨物側線跡の残る構内は上下2線の単純な配線になっていた。上下線どちらからも発車できるよう出発信号機は2基建っている。「S」の文字が見える発条転轍器はスプリングポイントに設けられる標識ということを鉄道施設の本で知る。 宮原線宝泉寺 S59(1984)/10/8

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 時間が止まっているような錯覚に陥る信号てこ小屋が健在であった。昭和30年代の子供時代に見た記憶が蘇ってくる。列車が来る時刻になると進路のてこが倒され、ホームから線路伝いに伸びたワイヤーがピーンと張って腕木が下がる、あの光景である。島式1面のホームに下り肥後小国方1番線、上り恵良方2番線の構内配線で、上下の場内と出発信号機が5基設置されている。
 恵良側:①下り場内/②上り2番出発/③上り1番出発(下り1番線より上り側に進出)
 肥後小国側:④下り出発/⑤上り場内
写真は下り1番線より上り恵良方面へ出ることは無いので③上り1番出発は「使用禁止」の札が架かり、肥後小国からの上り列車が到着する時刻になっているので⑤上り場内が倒されている。

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 ワイヤが引っ張られて地面を瞬時に走る様、カシャーンという腕木の動く独特な音が忘れられない。

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 列車運行は豊後森~肥後小国間4往復、豊後森~宝泉寺間が1往復半の設定である。宝泉寺折返し運用は信号てこ小屋の標記から上り1番出発は不可であるので下り2番に入線して折り返すものと推測する。 宝泉寺駅時刻表 S59(1984)/3/28

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 2基の出発信号機。左が上り2番出発、右が上り1番出発。

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 上り線に停車する豊後森行のキハ402041〔分オイ〕。貨物側線の跡がよくわかる。貨物輸送は昭和46年頃まで行われ豊後森機関区のC11が活躍していた。開業時はC12が客貨に使われその後昭和29年頃C11に交替、3輌のC11は昭和32年のキハ07投入で客貨分離が行われ1輌となって1~2往復の貨物に運用されていた。積荷は木材が主で製鉄所で使われる硫化鉄も積載されたと聞く。 宮原線宝泉寺 S59(1984)/10/8

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 列車内から見た宝泉寺構内。駅舎は斜面の下にありホームへは階段で上がる。左は信号てこ小屋が見える。 宮原線宝泉寺 S59(1954)/9/27

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 宝泉寺駅終点方の賑やかな風景。宮原線に寄り添って走る国道327号線はすれ違いも困難な国道とは名ばかりの悪路であった。が、それが宮原線の沿線風景にとけこんでローカル線の風情を盛りあげてくれた。分岐手前の道路案内標識は直進が「小国・麻生釣」、左折が「長者原・筋湯」と記され、高原と温泉郷の雰囲気が漂う。 宮原線宝泉寺 S59(1984)/10/8 

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 肥後小国行と豊後森行が顔を合わせる朝のホームは通勤、通学の生徒で活気づく。山影から陽がさし始めると田んぼにおりた霜が白く反射する。高原の朝はとても冷たい。 宮原線宝泉寺 S59(1984)/11/1

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 満員のお客さんを乗せて宝泉寺7時21分発車。次は町田7時26分。恵良7時35分。終点豊後森7時41分着。久大本線の接続は恵良で大分行は22分の待合せ、豊後森鳥栖行は30分の待合せで組まれていた。 222D 宮原線宝泉寺 S59(1984)/11/1

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 最終日59.11.30の日付印の入った宝泉寺駅発行の「さよなら宮原線記念入場券」。温泉街のイラストと駅舎写真の組合せであった。裏面の「宝泉寺のご案内」を転記する。『宝泉寺温泉は、九重連山に抱かれた素朴な自然と人情が色濃く残されている温泉郷です。町中を流れる川に沿って10数軒の旅館が建ちならび、色とりどりの鯉が清流に放流されています。山菜、猪料理、鯉こく料理などに舌つづみをうつのも楽しみであり、また、お湯の美しさも格別で、深い緑と紅葉に彩られた自然が満喫できます』。

さようなら別大電車

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 別大電車の最終日、昭和47年4月4日付の大分合同新聞朝刊見開き2ページの茶色く色あせた切り抜きを大切にしまっていた。明治40年代の単車と当時の車掌さん、現在の1100形連接車と新川車庫前での運転士、車掌さんたちの集合写真があしらわれていた。桜満開であったこの日、桜の花びらとともに別大電車は散ってしまった。

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 同じく4月24日付の新聞は新川車庫に集められた電車たちの写真に目がいきスクラップしていた。記事は軌道撤去工事による約20万個の軌道の敷石、約1600トンと見込まれるレール、32輌の電車の処分がどうなるか綴られていた。敷石は防災工事や神社の階段、家庭の庭の踏み石等に、電車は地域の保存展示と岡山県岡山電気軌道への売却の旨が報じられていた。
 「鉄道ファンNo.142(昭和48年2月号)」でわかったことは、岡山電気軌道はワンマン化が完了し車輌近代化を終えていたが絶対量不足で大分交通から500形505・507を購入しワンカンカー3500形として改造された、とのことであった。
 大分交通505→岡山電気3501
 大分交通507→岡山電気3502

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 春の廃止後初めて新川車庫をのぞいてみた。すでに線路は剥されて廃墟になっていたのに愕然とした。車輌で埋まり活況を呈していた風景を記録できなかったのは残念でならない。502は別府市へ、501と506は大分市へ寄贈された。502は亀川浜田公園、501は西大分公園、506は若草公園(後に佐野植物公園)に保存展示された。 新川車庫 S47(1972)/12/30

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 撮影時の昭和47年暮れは505と507の姿はなくすでに岡山電気に旅立った後であったと思われる。車体は岡山まで海路か陸路か、どのようにして運ばれたのであろうか。大分市の紙が張られた506はC5553が展示された若草公園で余生を送ることとなる。 新川車庫 S47(1972)/12/30

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 503は新川車庫跡地にレールと乗降ステップを付けられて展示の準備が整っていた。

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 縁あった蒸気機関車C58や8620、D60の最後を見てきたように別大電車の最後の姿を見届けた。見たくはない光景ではあるが私が撮った大分交通別大線最後の写真となった。さようなら別大電車。そして感動をありがとう。 S47(1972)/12/30

思い出の風景 大分交通別大線

 私が出会った路面電車の書籍は各地で撮影された写真はもちろんであるが、巻頭のプロローグで語られた言葉に読む人それぞれの思い出や忘れえぬ情景が浮かんでくるのではないかと魅了される。「わが心の路面電車」(小林茂著/プレスアイゼンバーン/平成1年6月刊)は『かつては、この国にも路面電車は各地に沢山走っていた。町ばかりではなく、野にも山にも海辺にもその姿が見られた。』と綴られ、「故郷の風景 路面電車」(神達雄著/トンボ出版/平成5年4月刊)は『人にはそれぞれ心に描く故郷の風景があり、東京生まれの人には、そこに都電が走り、私の心の風景には、別大電車がゆったりと走り続けています。眼を閉じて浮かぶ故郷には、それぞれの電車や汽車が走っています。』と別府市出身の著者が語っている。「鉄道ジャーナルNo.53」(鉄道ジャーナル社/昭和46年9月号)所収「日本の路面電車」からは『国際観光都市別府と大分を結ぶ都市間電車の別大線は、別府毎日マラソンのテレビ中継にときおり顔をのぞかせており、別府湾ぞいの専用軌道を走る姿は国鉄の列車からも見られる。』と、それぞれの記述を読むと私の思い出の風景がこみあげてくる。

 

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 パンタグラフ側の大分寄りマスクは丸いおでこから引き紐が出て表情が少しちがう。張り上げ屋根の上に見える一直線のラインは雨樋のようだ。正面窓の上、両サイドの突起は100形に付いていたのと同様で国旗差しかもしれない。迫る山側から見える別府の街並みは思い出の構図となった。 203 別院前~両郡橋 S47(1972)/4/4

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 200形は昭和24年日立製作所で別大線初の総括制御車で製作された。製造当初はポール集電方式で落成時の写真を見ると、トロリーポールがフロントから突き出たインターアーバンここにありの凛々しい姿であった。ヘッドライト下にジャンパ栓受が見える。 202 仏崎~田ノ浦 S47(1972)/4/4

 

 ■鶴崎延伸の話
 歴史に“もしも”はないが、「大分県史近代編」(大分県/昭和61年3月刊)に別大電車の鶴崎延伸の話を見つけたので、その“もしも”について思いを巡らせてみたい。別大電車は豊州電気鉄道によって明治33年5月に開業したが、その後の経営は明治39年1月豊後電気鉄道に継承され、大分~鶴崎間の電気鉄道延長の特許を出願している。国道使用の諮問に対して、設備、車輌、電力供給の不備を理由に国道使用は不認可の答申がなされている。

 もし鶴崎延伸がかなっていたら本線との分岐はこの昭和通り交差点であろう。南北方向の本線から東向きにデルタ線が敷かれ、運転系統は大分駅前から高城駅前・鶴崎駅前行が、また亀川駅前と鶴崎駅前の往復もあったであろう。線名は大鶴線であろうか。鶴崎までは4つの川があり大分川を越える舞鶴橋は両岸の勾配がきつい。高城駅から先は土佐電気鉄道伊野線のようなイメージの単線、専用軌道で乙津川を渡って鶴崎駅前に至る。鶴崎駅前ロータリーで折返し電車が待機する光景を想像する。「もしも」の物語は楽しく膨らむ。

 大分交通別大線の車輌は大分駅前、昭和通り交差点、別院前、白木、仏崎、田ノ浦、両郡橋で撮影していた。車輌32輌のうち100形は106・110以外6輌、150形は151・153以外6輌、200形全車、300形301、500形505、1000形1001、1100形1102の計20輌と出会うことができた。思い出のナンバーとして心に刻んでおきたい。

両郡橋 大分交通別大線

 「〇〇橋」のような橋が付く名前の駅名や電停名を聞くと、その土地の成り立ちや地理、歴史が込められているような不思議な魅力を感じる。東京は浅草橋、水道橋、飯田橋等、大阪では淀屋橋、心斎橋、芦原橋等が浮かぶ。九州での軌道線で巡ると北九州ー鎮西橋、旦過橋、福岡ー千鳥橋、室見橋、長崎ーめがね橋、思案橋、熊本ー田崎橋、洗馬橋、祇園橋、神水橋、鹿児島ー涙橋、高見橋、と多彩で中には由来に辿り着けそうなものも多々ある。別大線の両郡橋はシーサイドコースの入口、複線と単線の結節点の重要な停留所であった。大分市別府市の境に位置し、かつては大分郡速見郡と呼ばれ両方の郡のつなぎ目からこの名前が付いたのではないかと想像する。

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 湯煙たなびく別府の山なみを背景に亀川駅前行はここから別府市街地へと入る。両郡橋は運転関係と待合所の建屋が置かれ電照式の電停名標識が備えられた重要中継点といえる。ホームは渡り板をはさんで交互に配置されていた。 163 両郡橋 S47(1972)/4/4

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 運転掛からタブレットを受け取った大分駅前行はここから単線区間を進む。別府市街、大分市街を結ぶ海岸コースは都市間電車インターアーバンの本領を発揮する区間である。 161 両郡橋 S47(1972)/4/4

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 運転掛が安全を確認、161号両郡橋発車。山側は日豊本線の複線が見える。国道を挟んだ両側に建つ架線支えの支柱がリズムよく並んでいる。国道の内側車線をリヤカーを引いた自転車が走る光景はのどかと言う他ない。

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 振り返ると線路は単線になって日豊本線下り線と仲良く並んで海岸線沿いをなぞりながら走る。国鉄車輌との並走もたびたびあったにちがいない。日豊本線は小倉起点123キロポストが建っている。 161 別院前~両郡橋 S47(1972)/4/4

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 別院前から両郡橋にかけてのこの区間は別府湾のなかで山が一気に海にせり出した地形で、水深もいちばん深い所といわれている。地形に逆らわないで道路も軌道も鉄道も従っているのがわかる。 204 別院前~両郡橋 S47(1972)/4/4

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 両郡橋を出るときれいな別府の山なみと街なみを車窓に快走する。前面展望はマリーンパレスが迫り高崎山自然動物園へ渡る歩道橋が見えてくるはずである。遠くはかすかに田ノ浦の松や仏崎の岬も遠望できたかもしれない。 115 別院前~両郡橋 S47(1972)/4/4

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 この海岸線区間は明治33年5月に開通している。日豊本線別府~大分間の開通は明治44年11月なので、別大電車は国鉄線よりも11年も早く走り始めたことになる。日豊本線の路盤の石積みが時代を感じさせられる。 164 別院前~両郡橋 S47(1972)/4/4

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 両郡橋電停上、日豊本線上り線を三角発別府行“火の山2号”7連が行く。日豊本線の上下線は小川と道路を越える短い橋りょうが架かっている。下り線のピーアは古い時代を物語る煉瓦積、線増の際の上り線はコンクリート製で橋りょう名は「鳴川」のようだ。桜の季節、山の斜面に満開の桜が連なっている。 日豊本線東別府~西大分 S47(1972)/4/4

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 423系試運転電車が下る。 日豊本線東別府~西大分 S47(1972)/4/4

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 長崎発大分行“いなさ2号”が長い編成をくねらせて別府湾岸を駆ける。国鉄線と別大電車の共演を期待したがインターアーバンは現れてくれない。大分交通の年代物の架線柱が国鉄の近代的なポールと対照的に目に映る。 日豊本線東別府~西大分 S47(1972)/4/4

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 別大線の軌道線と日豊本線下り線が並んで海岸線を走る。国道は拡幅されているものの車の増加とともに軌道線別大線は邪魔者扱いされるようになったのは時代の流れとはいえ残念でならない。 S47(1972)/4/4

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 10年後の両郡橋界隈。電停のあった場所は同名のバス停が置かれ信号機が設置されている。国道の交差点標識は「両郡橋」を掲げ、同時に大分市別府市の境界を示す「別府市」の標識も見える。電停位置のちょうど真ん中に市堺があり、それはかつて郡堺であったことから電停名「両郡橋」は改めてうなずくことができる。国道から山側の集落へ入る小路と小川に架かる短い橋りょうも確認できる。ED76の牽く長い貨物列車が接近している。 S56(1981)/12/6

田ノ浦近く 大分交通別大線

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 「72年間のご利用ありがとうございました」のお別れ装飾を施した150形158は田ノ浦を出て巨大な松がそびえる下、ゆるやかな左カーブを行く。かんたん~両郡橋間の単線区は白木・田ノ浦・別院前の停留所が設けられ、交換設備は仏崎離合所と別院前の2箇所であった。 田ノ浦~別院前 S47(1972)/4/4

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 仏崎の難所を過ぎるとおだやかな入り江が開けて田ノ浦へと向かう。海岸線は波打ち際が見え、大きな松も所々健在であった。 仏崎~田ノ浦 S47(1972)/4/3

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 電車は高崎山の麓、田ノ浦の入り江に沿った緩やかなカーブを進む。別大線のシーサイドコースは地形に忠実に合わせてレールが敷かれている。築堤上の日豊本線は複線電化時の昭和42年8月に廃止された仏崎信号場が設けられていた。 仏崎~田ノ浦S47(1972)/4/3

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 大分駅前行電車が通り過ぎた後、日豊本線下り線を貨物列車がやってくるのがわかり慌てて築堤を這いあがった。かつての仏崎信号場の位置をED7616〔大〕の牽く適度の長さの貨物列車が通り過ぎて行った。 日豊本線東別府~西大分 S47(1972)/4/3