転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大分運転所 昭和47年6月11日

 給炭線から転車台にかけてのSLゾーンは昭和47年5月31日をもって豊肥本線と下郡回送列車の無煙化が完了しC58と8620は姿を消してしまった。日豊本線佐伯往復の旅客列車もDL化され、蒸機で残るは日豊本線貨物運用だけで南延岡のD51が姿を見せるだけとなっていた。

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 石炭ヤード横にD51567〔延〕が駐機している。日頃気づかないキャブとテンダの間隔の具合がわかる。こぢんまりとした運転室はナンバープレート、砲金製の区名札、メーカーズプレート、換算プレートが整然と配置されている。側面の通風口と前面の扉が開いている。 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 大分運転所のC58もそうだが九州外から来た機関車はシンダエプロンを装備していたように思う。D51567は九州管内のD51配置を見ると昭和44年3月時点で門司、昭和41年7月時点では記載がなく本州の罐と思われる。南延岡には昭和46年10月に門司から転属している。 D51567〔延〕 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 D511032は昭和30年代初頭から南宮崎電化の昭和49年4月に廃車になるまで南延岡機関区に配属され門司操車場~宮崎間で運用された。この機関車のドームは特ちょう的で前寄りは丸味がかり、後側はカマボコ形にカットされている。 D511032〔延〕 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 D519〔延〕 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 D51176もシンダエプロンが付いている。南延岡には昭和45年10月の鹿児島電化で熊本から転属している。南延岡から北上して来た機関車は通常大分の扇形庫には入らないが、この時は24番線に収まっていた。 D51176〔延〕 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 C58124と58689は冷たくなっていた。C58124はナンバープレートが外されて小倉工場行の待機、58689は「特休車」の札がかけられていた。C58277はこの後志布志古江管理所へ転属し志布志線でもうしばらく活躍することとなる。 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 扇形庫外側の窓からナンバープレートを外され、役目を終えたC58124が見えた。とてもさびしい顔をしているようにも思えたが、長年日豊・豊肥・久大の各本線を駆け巡った充実感が漂っているようにも感じる。昭和47年7月31日付で廃車となった大分運転所のC58は86・105・115・124・224・262・350の7輌であった。たくさんの名場面をありがとう。そしてさようなら。 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 大分で最後を迎えるC58262は遠く伯備線芸備線を走っていた頃を懐かしんでいるかもしれない。 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 C58350もナンバープレートを外されていた。この日見た扇形庫の姿がC58最後の写真となった。 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 C58112はC58277と共に志布志古江管理所へ転属となる。 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 大分運転所のDE10はこの時点で17輌が揃っていた。8620とC58の置換えにDE101172~1175の4輌が昭和47年4月から5月にかけて落成している。 DE101175〔大〕 S47(1972)/6/11

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 DE1026は昭和48年3月時点では直方の配置となっていた。大分へはこの年の春に松山から来たものと思われる。1000番台で揃える意向があったのか、この後直方へ移ったのであろう。 DE1026〔大〕 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 天井の高いDL検修庫にDF50がただ1輌佇んでいる。 大分運転所 S47(1972)/9/11

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 DF50の予備機としてC57115〔大〕は温存されていた。 大分運転所 S47(1972)/9/11

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 この春の白紙ダイヤ大改正でブルートレイン“彗星”が1往復増発された。“彗星”牽引はこれまでのED74にED76も運用に加わるようになったものと思われる。 ED7611〔大〕 大分運転所 S47(1972)/6/11

D511032とD519の発電機

 蒸機基地で撮った写真はどれも形式写真風の頭から尻尾まで収まった紋切形ばかりであるが、中には何を撮りたかったのか理解に苦しむ部分写真も存在していた。今振り返って見ると、同じD51でもキャブ右サイドの装備はそれぞれ個性があることに気づく。 D511032〔延〕とD519〔延〕 大分運転所 S47(1972)/6

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 D511032〔延〕の右サイドを近くから見る。三菱の銘板と「積12.5/空9.0」換算標記がよくわかる。ボイラ上に突出した物は「架線注意」標識が付いた発電機とATS発電機のようだ。かまぼこ形ドームの形状もよくわかる。ランニングボード上は大きい箱が清缶剤タンク、小さい箱は油ポンプ箱であろうか。

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 D519〔延〕右サイド後方から見るなめくじドームは丸味のラインが強調され、まるで潜水艦のシルエットのように見える。主発電機とATS発電機はD511032と同様であるがパイピングが若干ちがうように見える。ボイラサイドを這う手摺りや砂撒き管、給水ポンプへつながる配管等が複雑に絡み合う様は蒸機の魅力といえる。

高鍋

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 早朝、夜行急行“みやざき”を高鍋で下車。憧れのハドソンC61の牽く貨物・旅客列車を撮ることはできたが、露出不足と突然の降雨で残念な釣果となった。高鍋を後にする時にやって来たのはこの日初めて会うC57であった。C57199〔宮〕は大分電化で南進した元大分運転所所属の1輌。190番台の4次形はボイラやデフ、給水温め器の印象が大きく異なり、特に箱形のテンダは異形式を思わせる風格があった。 537レ 日豊本線高鍋 S47(1972)/8/10

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 駅北側をさまよっているうちに上り列車は発車してしまった。場内信号機は副本線があって2基建っている。貨物側線は飼料の積卸し設備がありクリーム色のホキ2200が停まっていた。C6128〔宮〕はドラフトとドレンを辺りに轟かせて接近して来る。 2560レ 日豊本線高鍋 S47(1972)/8/10

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 C6118〔宮〕の牽く延岡発南宮崎行535レ 日豊本線高鍋~日向新富 S47(1972)/8/10

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 高鍋駅手前の小丸川橋梁は805mあり日豊本線では最長で、昭和36年にコンクリート橋に架け替えられている。ハドソンC6119〔宮〕は重量級のタンク車とホッパ車を連ねた編成を牽いてゆっくりと迫って来た。 3589レ 日豊本線川南~高鍋 S47(1972)/8/10

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 小丸川で撮った3589レは高鍋で停車する間にもう一度撮ることができた。次位の車掌車ヨ5000は盛岡局配備を示す「盛」の標記が見え、機関車C6119も元盛岡鉄道管理局の罐で偶然の並びが見られた。 日豊本線高鍋~日向新富 S47(1972)/8/10

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 編成前寄りは高鍋の入換で若干変わっている。3589レは激しい雨の中、海岸の松林に沿って去って行く。 日豊本線高鍋~日向新富 S47(1972)/8/10

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 駅構内南側はまるでスイッチバックのような引上線もしくは専用線が延びていた。レールを見ると枕木押えから犬釘がとび出ている。構内はずれののどかな風景を見たような気がする。 高鍋終点方  S47(1972)/8/10

下関9番線23時07分から5分間の記憶

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 門司から潜った海底トンネルを抜けだして下関に着いたブルートレインは停車時間たったの5分で機関車交替が行われる。EF81303〔門〕のステンレスの車体は構内の照明が反射して鈍く光っていた。スタンバイする機関車連結開放のスタッフが写っていた。 下関 S58(1983)/5/2/23:08頃

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 ホーム先端の上屋から下がった信号機は出発進路表示灯であろうか。「上11」、「上10」、「上9」の進路が標記されている。前方の機待ち線は山陽道を走破するEF65のテールランプが暗闇に浮かんでいる。EF81303〔門〕のナンバープレートは緑色に、「門」の区名札差しは赤色に光って見える。 下関 S58(1983)/5/2/23:09頃

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 EF81300番台は昭和48年8月から50年2月にかけて301~304の4輌が増備された。301と302は関門間の貨物列車減少で内郷、田端へと転属しローズピンクに塗られ常磐線で使われていた。EF81303〔門〕はオハネフ25から離れて行く。暗い構内にシルバーの車体が光輝く。 下関 S58(1983)/5/2/23:10頃

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 オハネフ25は折妻タイプを見なれていたが、この時は切妻のオハネフ25で印象が違って見える。テールサインは昭和53年10月改正よりイラストマークになっていた。 下関 S58(1983)/5/2/23:10頃

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 EF81303〔門〕が離れて間髪を入れずにEF651126〔関〕が迫って来る。 下関 S58(1983)/5/2/23:11頃

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 連結完了。ブロアー音が聞こえてきそう。 下関 S58(1983)/5/2/23:11頃

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 別の列車の大きな音が響き渡り、振り返るとEF58牽引の下り荷物列車が6番線に入ってきたところだった。時刻表で確認すると汐留発東小倉行荷39レのようだ。下関23:11着。 S58(1983)/5/2

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 都城発新大阪行3004レ“彗星2号”は下関23:12発。
 横浜在住の友人の結婚式に出席するため私はこの列車に乗車していた。関門を通る夜行列車は幾度も乗車したが機関車交替の模様を撮ったのはこの時だけであった。が、その撮ったことも忘れていた。と、いうのもこのネガの被写体は人物メインであったので通し番号こそ振れ、ネガスキャンは行っていなかった。最近になって古いネガ帳を開き、明かりに照らして見ると何やら機関車が写っていることがわかり、この8コマから下関到着5分間の記憶がおぼろげに浮かんできた。
  それ以降の事は何も覚えていない。広島で連結されるセノハチ補機の連結時の振動や、新大阪からの新幹線“ひかり”のことや、当時“ひかり”は新横浜には停車していなかったので東京から横浜までは113系に乗ったのか等、写真が残っていないので全く記憶にない。ネガは下関の次コマは結婚式の新郎新婦であった。
 この横浜紀行は忘却の彼方に追いやられているが、ひとつだけ目に焼きつけた物がある。それは横浜機関区の扇形庫である。横浜駅から結婚式場までの道のりであったのか、式場のホテルが高層であったからかは定かではないが少し高い位置からヤードが広がる手前に扇形庫が鎮座しているのがはっきりと見えた。旅客線の横浜、桜木町駅からは海岸沿いの貨物線は見えなかったので、都会のど真ん中に位置するヤードと扇形庫にはとても驚きであった。みなとみらいの開発が進む直前の光景を実見できたのは幸運であったと思う。

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 横浜機関区扇形庫と上路式転車台に載るD51130〔新〕 S45(1970)/2/14 撮影:juncyanjiijiさん
 扇形庫出入り線上部の意匠は3連ルーバーのようで気品を感じる。重油タンクを備えた新鶴見のD51130はどこか山線から下りて来たのだろう。手前の線路は桜木町方、東横浜ヤードへ続くルートではないかと想像する。

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 鉄道100年記念列車を牽いたC577が方向転換中。多くの人がその様子を見守っている。横浜機関区扇形庫の輪郭がよくわかる。 S47(1972)/10 撮影:東京都 線路端さん

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 転車台から放射状に広がる線路は扇形庫番線と対応した線路番線が標示されている。転車台運転室のかわいい形状もよくわかる。  S47(1972)/10 撮影:東京都 線路端さん

 私のおぼろげに霞んでいた横浜機関区扇形庫の光景は遠方の友からの画像提供で鮮明な記憶として蘇えった。よくぞこの貴重な光景を撮っておられたと畏敬の念を抱くとともに感謝申し上げたい。

豊州路の汽車電車

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 新緑まぶしい由布岳を背景に別府発博多行“由布4号”が紫煙をあげて通り過ぎる。久大本線伝統の急行“由布”も撮影時は4輌編成に短縮されていた。 604D 久大本線野矢~由布院 S61(1986)/

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 DE10の牽く豊後森発大分行50系客車は、由布院盆地の谷間から大分川に沿って続く下り勾配を駆け下りて来る。線路沿いの美しい棚田や火の見やぐらの見えるのどかな農村風景はD60の時代と何も変わっていないように見える。 2633レ 久大本線湯平~庄内 S61(1986)/5

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 博多発別府行“火の山1号”が大野川沿いの山間を行く。豊肥本線内は熊本を出ると、水前寺ー肥後大津ー立野ー赤水ー阿蘇ー宮地ー豊後竹田ー緒方ー三重町に停車して大分に至る。波野と犬飼に停車する列車もあった。 1701D 豊肥本線犬飼~竹中 S56(1981)/1/15

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 大野川の深い谷に沿ってアップダウンを繰り返しながら、キハ58+キハ65+キロ28+キハ58の4輌編成“火の山4号”別府発三角行が通り過ぎる。 704D 豊肥本線犬飼~竹中 S56(1981)/1/15

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 24系25形になった“富士”7輌編成を下垂交差のパンタを装備したED76が牽いてやって来た。後方は佐賀関半島に連なる山なみの稜線が続いている。 8レ 日豊本線大在~坂ノ市 S53 (1978)/9

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 日豊本線上りは幸崎から大分平野の平坦区間を進む。進行方向右手は新産業都市の埋立工業地帯が広がり、左手山側は大在の台地が迫って坂ノ市から大在にかけて平野らしくない風景が続く。ED76の牽く上り貨物列車はヨだけの寂しい編成であるが、たぶん鶴崎からはタンカーが連結されるであろう。 ED76+ヨ5000 日豊本線大在~坂ノ市 S53(1978)/9

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 大分から佐伯に至る国道217号線はリアス式海岸に沿った風光明媚なシーサイドコースを走る。険しい半島は山越えとなり、半島をショートカットするトンネルは建設前で急勾配、急曲線の悪路であった。峠道から豊後水道を見渡すと、入江の漁港を西鹿児島発小倉行“にちりん16号”が通るところであった。 3026M 日豊本線日代~浅海井 S61(1986)/10

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 “富士”の変遷を顧みると、昭和39年10月東京~大分間20系で誕生、翌40年10月東京~西鹿児島間に区間延長、43年10月付属編成は下関から大分落しに延長され15連で大分まで走る。50年3月24系化、51年10月24系25形化され14連となる。55年10月運転区間が東京~宮崎間に短縮され特急最長距離走行は“はやぶさ”となった。ED7665〔大〕が宮崎行となった“富士”を牽引し快走する。 7レ 日豊本線西大分~大分 S56(1981)/2

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 大分以南の“彗星は”カニ24+オハネフ25+オハネ25×4+オハネフ25のモノクラス7輌編成で運転されていた。大分電化で投入されたED7620〔大〕がまだ頑張っていた。 3001レ 日豊本線大分~高城 S60(1985)/4

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 昭和59年2月改正で“彗星”は583系が撤退し客車1往復となっていた。この時の編成はカニ24+都城行6+大分落し7の14輌編成で(2・12号車は季節減車あり)、向日町運転所の24系25形で“なは”と共通運用されていた。 宗太郎峠を行く3001レ“彗星” 日豊本線宗太郎~市棚 S61(1986)/10