転轍器

古き良き時代の鉄道情景

D51714

 D51714〔延〕を跨線橋から見る。キャブの前扉は解放して走っている。ランボードの白線は前寄りだけ残ってサイドは消えている。ドーム前方のボイラ歩み板に手摺が付けられているのが珍しい。 日豊本線大分~高城 S47(1972)/8/31

 D51714を手持ちの配置表で探すと、昭和32年昭和36年、昭和41年、昭和44年とも出水配置で長く鹿児島本線で活躍していたと思われる。昭和46年は吉松にそのナンバーがあったので昭和45年10月の鹿児島電化で吉都線筋に働き場所を移したのだろう。その後昭和47年4月に南延岡へ転属している。偶然にも南延岡へ来たばかりの姿を捉えていた。キャブからはみ出したナンバープレートは出水時代の仕様だろうか。 大分運転所 S47(1972)/4/22

 日豊本線の貨物列車は上下とも深夜帯に多く設定されている。D51714〔延〕が宮崎発門司(操)行貨物列車を牽く。 1592レ 日豊本線佐伯 S47(1972)/12/29

 D51714〔延〕の牽く宮崎行下り貨物は冷蔵車が連結されている。豊後水道から日向灘にかけて漁港が点在するが、積出駅はどこであろうか。 591レ 日豊本線大分~高城 S47(1972)/8/31

D51176

 昭和45年10月の鹿児島本線全線電化で熊本のD51が3輛南延岡へ移動している。D51176はその先陣をきって昭和45年10月に来て日豊本線の罐となった(222は昭和46年5月、482は昭和47年5月)。昭和32年、36年、41年の配置表を見るとこれら3輛は何れも熊本に記載されて、鹿児島本線の客貨に運用されていたのであろう。 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

 風の強い朝、D51176〔延〕は長い編成を従えて大分を発車した。煙が前方に流されている。 6593レ 大分 S47(1972)/2/20

 日豊本線豊肥本線の場内信号機手前で徐行するD51176〔延〕牽引の上り1596レ。南延岡から126Kmを走り通し終着駅に入ろうとするところ。 日豊本線大分~高城 S47(1972)/10/8

 1596レは大分16:59着。構内時計は17:05過ぎ、到着後すみやかに引上げて転線し大分運転所へと向かう。 大分 S47(1972)/10/8

大井町 東京タワーの見える景色

 東京では東京タワーの景色など当たり前であろうが、自分の撮った写真の後方にたまたま写っていたのは驚きであった。当時は東京タワーの存在の意識すらなく、往来するブルートレインや電車群を追いかけただけ、構図を考えるゆとりすらなかった。東京タワーが写っていたと気づいたのもつい最近で、撮影後48年経過していたのも驚きだ。

 20系から14系に置換えられた長崎・佐世保行1レ“さくら”がEF65528〔東〕に牽かれて大井町界隈を通る。 東海道本線品川~川崎 S49(1974)/10/17

 京浜東北線南行の行先は大船の他には桜木町、蒲田があった。「鶴見」行は度々お目にかかってはいない。パンタが先頭車に付いたスカイブルーの101系10輛編成が通る。 京浜東北線品川~大井町 S49(1974)/10/17

 大宮行103系10輛編成が大井町を後にする。北方向に蜃気楼のような東京タワーの輪郭が霞んでいる。
 大井町界隈で撮ったネガは肝心な獲物が架線柱や照明灯に遮られたりピンボケ等で現像することもなくネガ袋で眠っていた。ネガスキャンした後もフォルダを開くことはなかったが、最近になって改めて各コマを確認し、画像を拡大してみると列車後方に思いもしない東京タワーが写っていることに気づき驚いた次第。かつて行った、ネガをネガキャリアに挟んで露光、現像液の中でゆらゆらと現れる印画紙の画像に感激、そんなシーンを思い浮かべている。ネガだけ、サムネイルだけ見ても画の詳細は拡大してみないとわからない、という事を痛感した。

京浜東北線大井町

 夕方のラッシュが始まる京浜東北線大井町駅国電の駅風景は私鉄沿線とはまたちがった雰囲気がある。北行は「大宮」、南行は「大船」を掲げたスカイブルーの103系が並んでいた。複々線の線路を跨ぐ陸橋を支える煉瓦積みの橋台や掘割の壁の造りは歴史の重みを感じる。 京浜東北線大井町 S49(1974)/10/17

 ホームにつながる跨線橋は古風な造りで、跨線橋とホーム上屋の柱は何れもレール組の造形美を感じる。架線は3線構造で、陸橋の下は下2線が張られ上1線は碍子の所で止められているように見える。当時は気にもならなかった「おおいまち」とひらがな縦書きの琺瑯看板がホーム上屋の柱に付けられていた。 京浜東北線大井町 S49(1974)/10/17

 グローブ形ベンチレーターがきれいなラインを描く103系10輛編成が発車。道路を挟んだ画面左側は二階建て構造の品川電車区が広がっている。 京浜東北線大井町 S49(1974)/10/17

南延岡のD51 異国からの使者6人

 昭和47年10月は白新線羽越本線の電化開業で日本海縦貫線全線の電化が完成した。奥羽本線無煙化も相まって秋田機関区と横手機関区のD51が、需給関係がひっ迫する南延岡機関区にやって来ることとなった。この年の12月、これら「異国からの使者」を大分運転所扇形庫で目撃、まさか2つ目のD51日豊本線を走るとは夢にも思わなかった。

 D51456は昭和47年12月15日付で横手機関区から南延岡機関区へ転属している。奥羽本線時代は前照灯はシールドビーム副灯が付いた2灯、テンダはごつい重油タンクを載せていたと思われる。秋鉄管内のD51配置区は新庄・横手・秋田・東能代・大館・弘前と多数あり、昭和43年配置表ではD51456は大館に記載されていた。 日豊本線大分~高城 S49(1974)/3

 昭和47年暮れに大分運転所扇形庫で見て以来初めて本線走行の姿を捉えた。 D511122〔延〕 1593レ 大分 S48(1973)/8/22

 リンゲルマン濃度計も付き、キャブは「延」の砲金製区名札も貼られているように見える。 大分 S48(1973)/8/22

 趣味誌の車輛の動きによると、D511122の転属日付は昭和47年10月27日と記載されていた。大分運転所の扇形庫で見たのはその2カ月後で、本格稼働は年が明けてからと思われる。分厚い板のように見えるデフが付き、その内側の手摺も独特である。回転火の粉止も装備されていた。この時テンダは見ていないが重油タンクは撤去して来たのだろうか。 大分運転所 S47(1972)/12/30

 D51923の秋田から南延岡への転属日付は昭和47年9月7日であった。昭和47年10月14日は鉄道100年記念の日。記念行事に集められた機関車群に、奇しくも元奥羽本線の僚機、青森のC6124と秋田のD51923が顔を合せていた。 大分運転所 S47(1972)/10/8

 2カ月後にナンバープレートの付いた元気な姿と再開する。プレートの数字配置は51と923の間に間隔がなく、D間隔51923の並びで前掲の456や1122とは異なっている 南延岡機関区 S47(1972)/12/29

 D51505の横手から南延岡への転属日付は昭和47年12月16日であった。 大分運転所 S48(1973)/1/4

 鉄道100年記念行事、大分運転所汽車まつりに集められた機関車の中に、秋田から南延岡へ行くD511095の姿があった。既に回転火の粉止は外されている。厚い板のようなデフと片側だけに付けられた標識灯の反射板に目がいく。書類上の転属日付は昭和47年9月5日であった。 大分運転所 S47(1972)/10/14

 D51871の横手から南延岡への転属日付は昭和47年12月17日であった。秋鉄から来た機関車を見ると何れも副灯の辺りから煙室を伝って標識灯まで電線管が通っていた。D51871は煙室とデフの間に架線注意標識が両サイドに渡されていた。 大分運転所 S48(1973)/1/4

 D51871〔延〕の牽くコンテナ編成。逆光のシルエットは前照灯から副灯のシールドビームが離れて付けられているのがわかる。ドームはカマボコ形のようだ。 日豊本線大分~高城 S49(1974)/3

 奥羽本線日豊本線、何れもメインラインから派生したサブルート的な路線で距離も共に480Km前後は良く似ている。投入された動力車もDF50やD51で亜幹線で見られた旅客はC57、貨物はD51の構図も同じであった。日本海縦貫線の電化は秋田・横手のD51を南延岡へ送り出し、その前年の奥羽本線秋田~青森間電化では青森のC61が宮崎へ、さらにさかのぼると秋田のDF50が大分へ移動し、奥羽本線日豊本線は縁が深かったように思う。D51とDF50が矢立峠に挑む様は日豊本線立石峠や宗太郎峠と重ねてしまう。ジャンクションの秋田は大分と、D51擁する横手・東能代・大館・弘前は南延岡や柳ヶ浦とつい置換えて見てしまう。