転轍器

古き良き時代の鉄道情景

ミム100

 ミムの「ミ」は文字通り水の「ミ」で、ミム100は水を運ぶ水運車であった。D60を撮った際、湯平の側線にぽつんと1輛置かれていたのでカメラを向けていた。全景を撮ったつもりが左側は光が入って白くなってしまった。 ロミム203 形式ミム100 湯平駅常備 久大本線湯平 S44(1969)/12/29

 再びミム100と会っていた。この時運転所の人から「機関車のテンダに積む質の良い水を運び、湯平では大分川からポンプで水を汲んでいる」と聞き、湯平で見たミム100のことが理解できた。熊鉄のミム100は豊肥本線の貨物列車でやって来たのだろう。最高運転速度65Km/hを示す「ロ」標記と黄帯が巻かれている。 ロミム145 形式ミム100 熊 三角駅常備 大分運転所 S45(1970)/5

南延岡機関区D51形式配置状況の変遷

 九州東側、日豊本線D51が入って来たのは西側に遅れること12年後であった。昭和23年6月、九州管内各基地の運用合理化で捻出された6輛が日豊本線用に振り向けられ、大分に6、南延岡に4輛が配備され、ここに日豊本線ミカド機の歴史が始まった。南延岡機関区のD51について手持ちの趣味誌や配置表を元に配置状況の変遷を辿ってみたい。

 D51配備の関連で9600の勢力はどうであったか、昭和22年のデータを見ると九州東側では柳ヶ浦・大分・南延岡に各7輛ずつ配置されていた。これら本線筋の9600を置換えるべく大分と南延岡に東九州初のD51が姿を見せることとなった。大分と南延岡に分散された最初の10輛の内、899と1042以外はその後の南延岡のレギュラーナンバーとなる。

 1042が転出して9輛となる。国鉄誕生の昭和25年8月は九州4管理局が設立され、運用合理化と形式統一が図られ、大分のD51は南延岡に集約される。

 門司・鳥栖・人吉・新鶴見から5輛の転入で総数13輛になっていた。スーパーなめくじと言われたドームが運転席前まで伸びたD5123は、南延岡へ来た時はボイラ上の覆いは改装された後であったと思われる。

 昭和32年から変化なし。南延岡のD51は柳ヶ浦~宮崎間で、日豊本線北部は柳ヶ浦のD50が門司(操)~大分間で運用されていた。柳ヶ浦も南延岡同様、九州西側のD51投入で捻出されたD50が少しずつ数を増やしていた。

 79は昭和36年4月以降に出水から来ている。出水はD50・D60が足跡を残し、最終的にD51に統一されている。この時点で949は柳ヶ浦に記載され、「ボイラ不良により新製品と取替え」の但書きが添えられていた。分鉄局ではこの時期一時的に、臨時列車対応のため柳ヶ浦にD51ー3、南延岡にD50-1を配置していた。

 一時的な措置は解除され949は南延岡のナンバーとなった。昭和41年11月、一関から344が加わり、42年2月に23が廃車されている。一関のD51の中で344だけ重油併燃装置を装備していなかったので九州へ出されたのかもしれない。

 昭和43年12月、344は門司へ転じ、日田彦山線石灰石・セメント輸送に活躍した。日豊本線では会うことはなかったが日田彦山線で遭遇したのは幸運であった。

 昭和45年は3月に79が熊本へ転出、12月には93・341・880の廃車期限を迎え、安泰だったナンバーもいよいよメンバーチェンジが始まった。10月は鹿児島電化で余剰車となった176が熊本から、541が出水から新しい仲間として加わる。

 昭和46年は5月に222が熊本から、9月に46が早岐から、10月に361が熊本から、567が門司から転入した。12月に1081・1142が廃車となって総数14(12+4-2)輛となる。

 昭和47年は4月に吉松から714、人吉から1151が、5月に熊本から482が入る。9月から12月にかけては羽越・奥羽本線関連で秋田から923・1095・1122が、横手から456・505・871が加わって異彩を放つ。廃車は222・949・1035が5月に、1141が8月に迎え、総数19(14+9-4)輛となる。

 早岐からの46、門司からの567が4月に火を落して17輛。この時点で昭和20年代からのナンバーは9・12・485・1032・1036の5輛だけとなっていた。

 南延岡に20年以上君臨した9・12・1036がついに墜ち、714も廃車期限を迎える。電化までの期限を残して投入されたナンバーは若松からの42、門司からの45・250であった。

 電化開業時点で期限を残していたのは門鉄から緊急派遣の3輛を含む10輛で、この内日豊本線D51スタート時からの485が生き残っていた。遠く岩見沢へ転出した361以外は全機6月までに廃車となっている。門司からの382は僅か3カ月の稼働であった。D51485は在籍26年、南延岡機関区の伝統を守りぬき、それを締めくくるようにお別れ列車の先頭に立って最後を飾った。栄光の花道であった。

 線路端でたびたび現れてくれたD51485、数々の名場面をありがとう。 日豊本線大分~高城 S47(1972)/10

D51 九州初上陸の3輛

 昭和11年から20年にかけて1115輛もの多きが製造されたD51は、1~85、91~100までの95輛は“なめくじ”と呼ばれた半流線形で登場している。昭和11年に落成した最初の23輛の内の3輛ー8・9・10ーは海を渡って九州に初上陸した、その後の展開に先鞭をつける、記念すべきナンバーであった。

 D518 昭和11年3月川崎車輛新製 門司(大里)に配置されその後鳥栖へ移っている。昭和41年2月、C55が走る吉都線D51が入ることになり、吉松に集められたD51の中に鳥栖から来たD518が入っていた。その後昭和45年10月に厚狭に転じ、美祢線で活躍した。偶然にも南大嶺に立ち寄った際、D518〔厚〕と会うことができた。 南大嶺 S47(1972)/8/11

 D519 昭和11年3月川崎車輛新製 門司(大里)に配置されその後鳥栖へ移っている。門司と鳥栖に投入されたD51はその後数を増やして九州西側の貨物機は9600からD50、そしてD51へと置換わっていく。九州東側にD51が入って来たのは昭和23年のことで、D519は鳥栖へ移った後昭和27年1月に南延岡に渡り、以後日豊本線の顔となって昭和48年まで活躍する。おかげでD519〔延〕とはたびたび会うことができた。 鶴崎 S47(1972)/10/28

 D5110 昭和11年4月川崎車輛新製 九州最初のD51は8・9が門司(大里)、10が鳥栖と分けて配置された。D5110は鳥栖に36年間動くことなく踏みとどまり、昭和47年3月直方へ渡り、時の罐となって人気を博した。 筑前垣生 S47(1972)/8/11

 九州のD51は新製開始間もない昭和11年から始まり、鹿児島本線貨物列車の9600を置換えていった。D51の量産とともに勢力範囲は南進し、D51総数1115輛を達成した昭和20年には鹿児島・筑豊・長崎各本線と肥薩線に及び、門司・鳥栖・直方・熊本・出水・人吉が配置区に名を連ねていた。D52が登場したことで九州に捻出車が流れ、西側はD51への置換えが完了し、ここにきてやっと九州東側に残る9600置換えのD50とD51が投入されることになる。昭和23年6月にD50が門司と柳ヶ浦に、D51が大分と南延岡に配備されることとなった。輸送力の格差は致し方なく、貨物列車の形式改善は九州東側は西側から遅れること12年後であった。

D51と出会った日々 日豊本線のD51/昭和44年~49年

 汽車の写真を撮り始めた昭和44年は、日豊本線はC57とD51が、豊肥本線はC58と9600が、久大本線D60と8620が本線上を闊歩していた。この年に初めて見るDE10と出会って以来、動力近代化の波はあっという間に押し寄せ、昭和46年にD60が、47年にC57・C58・9600・8620が残念ながら消えてしまった。大分~宮崎間に運用された南延岡のD51は幸いにも昭和49年春までその姿を見ることができ、私の蒸気機
関車との出会いの中で一番長くスナップできた形式であった。

 南延岡のD51と初めて会ったのは485と1032で、この2台とは以後たびたび会うことになる。機留線で息づくD51485〔延〕に近づいて見ると機体の大きさに圧倒された。今改めて見ると、左右の標識灯の高さが揃っていないのに気づく。 大分運転所 S44(1969)/3/15

 大分~下郡(信)間の客車回送は大分運転所のC58と8620の仕事であったが、臨時列車の設定がある時は南延岡機関区のD51が本線運用の間合いに客車回送の応援に駆り出されたものと思われる。 D51485〔延〕 大分電車区 S44(1969)/8/11

 巨大なガントリークレーンと給炭槽の下に来ると、さすがのD51も小さく見える。 D519〔延〕 大分運転所 S44(1969)/10/4

 海の埋立てが進む津久見湾沿いをD5193〔延〕の牽く上り貨物列車が行く。 1578レ 日豊本線津久見~日代 S45(1970)/8/15

 ドームの形状が独特なD511032〔延〕が長い編成を牽いて大分構内に入る。日豊本線貨物列車の列車種別は普通貨物、輸送力貨物、小口貨物、地域間急行貨物列車があった。 1578レ 大分 S46(1969)/8

 D511032〔延〕の牽く1578レが138キロポストを行く。高城目前の仲西踏切を力行で迫って来たので高城は通過であろう。遠く新産業都市の鶴崎臨海工業地帯のコンビナートが見える。 日豊本線高城~鶴崎 S46(1971)/9/19

 D511141〔延〕とはこの時一度会っただけで本線上で見る機会はなかった。この年の8月に廃車になっている。 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

 扇形庫に並ぶD51群。ナンバーは1036・1032・12番が見える。庫に収まる機関車の向きは基本テンダが外を向くが、6・7番線は手前にも排煙口が設けられているように見える。 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

 南延岡~宮崎間の貨物列車は宮崎機関区のC57受持ちで、わずかに1往復D51が入るスジがあった。D519〔延〕が18輛の貨車を従えて宮崎を後にする。編成の中に車掌車と緩急車が3輛入り、前寄りはヨ、最後尾ワフ、中ほどにボギーのワムフ100が連結されている。日豊本線南部はワムフ100が多く運用されていた。 98レ 宮崎 S47(1972)/1/5

 下郡信号場付近から豊肥本線日豊本線の合流地点を見る。ここは豊肥本線から大分電車区の入出区線が分岐する場所で、D51貨物が行くのが日豊本線、その手前2線が大分電車区入出区線、一番手前が豊肥本線である。 下郡(信) S47(1972)/4/3

 D5112〔延〕が鶴崎の長い停車時間で入換を行う。入換作業の引上げは本線を塞がずに臨海工業地帯へ続く専用線が使われていた。 鶴崎 S47(1972)/6/25

 朝日が上がる頃、大野川橋梁を長い貨物列車が渡る。 561レ 日豊本線鶴崎~大在 S47(1972)/6/25

 大分川橋梁まで16‰の上り勾配をD51361〔延〕は力行で進む。左の道床は旧橋梁へのアプローチで、大分川橋梁の架け替えで線形が変わっているのがわかる。 1593レ 日豊本線大分~高城 S47(1972)/8/31

 鶴崎を発車したD519〔延〕率いる上り貨物列車は波静かな乙津川の川面を鏡にして煉瓦の橋脚の鉄橋を渡る。 1596レ 日豊本線高城~鶴崎 S47(1972)/10/28

 D511032〔延〕の上り貨物が交換待ち。そこへD511036〔延〕の牽く下り貨物が外側副本線に入って来た。591レ 津久見 S47(1972)/12/29

 下り貨物の到着を待ってD511032〔延〕の上り貨物が発車。駅を出てすぐ津久見トンネルに向かう。 1596レ 津久見 S47(1972)/12/29

 人吉から来たD511151〔延〕は集煙装置こそ外しているがドーム後方の重油タンクがかつての重装備ぶりを物語っている。砂撒き管はドームサイドの庇の付いた箱から出て威圧感さえ感じ、これも人吉装備と思われる。 大分運転所 S47(1972)/12/30

 D51541〔延〕とはこの時が初対面、昭和45年10月に出水から南延岡に来ているのでかなりの年月が経過してのことだった。南宮崎電化まで残った最終メンバーのうちの1輛である。 1596レ 日豊本線大分~高城 S48(1973)/3/21

 大分駅3番ホームで発車待ちの下り貨物列車を見る。編成が長くD5112〔延〕はホームからはみ出して待機、ブロアの音が聞こえてきそうだ。給水塔とテルハの構図は良き時代の鉄道情景といえる。 1593レ 大分 S48(1973)/3

 下郡信号場のシーサスクロッシング付近から左カーブを行くD51485〔延〕牽引の591レを撮る。 日豊本線大分~高城 S48(1973)/4/8

 ここは日豊本線豊肥本線が寄り添う単線並列区間で、あたかも複線区間を走っているような図となる。日豊本線は上り、豊肥本線は下りのそれぞれ中継信号機と場内信号機が建っている。お盆の早朝、D511151〔延〕は黄色い前照灯を煌々と光らせて迫って来た。 日豊本線大分~高城 S48(1973)/8/13

 蒸機最終年の年明けを迎える。臨海工業地帯の製鉄所をバックにいつもの時間にD51貨物は現れてくれた。 1593レ 日豊本線大分~高城 S49(1974)/1/1

 前年の年末年始の臨時急行の運用は大分運転所最後の蒸気機関車となったC57115が花道を飾ったが、電化直前の今年は下り“日南51号”と上り“高千穂51号”のスジを南延岡機関区のD51が受け持つこととなった。南延岡のD51は従前のナンバーが検査切れで姿を消しつつあり、各地から来た罐とメンバーチェンジが進んでいた。夕日を受けてナンバープレートを輝かせる機関車はシールドビーム副灯が付いた奥羽・羽越本線筋から来たものとわかる。6輛の身軽な編成は猛スピードで高城を通過して行った。 8512レ“高千穂51号” 高城 S49(1974)/1

 なめくじがいなくなって久しい日豊本線で見慣れぬなめくじと会う。電化前、最後の運用を受持つ南延岡のD51群はひっ迫し、若松から42、門司から45・250・382が転じていた。昭和49年3月、D5145は私が最後に会った南延岡のD51となった。 日豊本線高城~鶴崎 S49(1974)/3

D5146

 扇形庫のピットで整備中の46号機。はみ出したナンバープレート横の取付け穴はタブレットキャッチャーの跡だろうか。そのままナンバープレートを動かせばぴったり収まるように見えるが。キャブ下の機械美に魅了される。 南延岡機関区 S47(1972)/12/29

 右サイドを見る。なめくじドームのラインが何ともいえない優美さを感じる。 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

 D5146は長く鳥栖機関区にあって長崎本線佐世保線大村線で運用されていた。新鋭DD51の増備が進むにつれて鳥栖早岐の蒸機は移動が活発となり、D5146は昭和43年以降早岐機関区に移り、その後46年9月に南延岡機関区に転属して来た。砲金製「延」の区名札を貼付けて日豊本線の罐となり48年4月まで活躍した。 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

 頭は上り向き、石炭満載、入念な出区準備完了の後宗太郎越えに挑むのであろう。 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

 D5146〔延〕は渾身の力で長い編成を牽き出す。ドラフトとドレン、スチームの音響が踏切警報音をかき消す。 1592レ 日豊本線高城 S47(1972)/10/9