転轍器

古き良き時代の鉄道情景

青梅線の風景 電車と貨車

 友人に誘われて旧形国電余命あとわずかとなった青梅線ハイクに出かけた。出会うのはスカイブルーの103系ばかりであったが、それでも深い谷を跨ぐ雄大な鉄橋の構図は貴重な記録となった。 青梅線二俣尾~軍畑 S52(1977)/12/2

 「立川」の前サボを掲げたクモハ40+クモハ73+サハ78+モハ72+クハ79の5輛編成が電留線で休んでいる。朝の五日市線で運用された編成と思われる。 青梅線青梅 S52(1977)/12/2

 青梅構内を見る。ホームには「青梅」の方向幕を出した103系が入っている。立川からの電車は奥多摩行と青梅止りがあり、中には東京直通の中央本線乗入れも運転されていたようだ。駅舎は鉄筋コンクリート造り3階建てで画面左側の建物がそうかもしれない。北側電留線と本屋側側線は電車編成が置かれて賑やかだ。 青梅線青梅 S52(1977)/12/2

 青梅街道で武蔵野台地を西に、多摩川を遡ってずいぶん奥地にやって来た感覚があった。ここまで来たのに次の終点奥多摩には行っていない。後に知る山小屋風の駅舎と石灰石積込施設のあるヤードの景色を見られなかったのは残念であった。「奥多摩」行4輛編成が片面ホームの白丸に入る。 青梅線白丸 S52(1977)/12/2

 「立川」行後追い。当時あまり好きになれなかったこの顔も今思うと撮っておいてよかったと言わざるを得ない。 青梅線鳩ノ巣~白丸 S52(1977)/12/2

 軍畑橋梁は高い橋脚と独特な形の上路プレートガーダーで迫力のある鉄橋であった。トレッスルという鋼製のやぐら状の橋脚の鉄橋をトレッスル橋というらしく、以前高森線で見た橋梁と似ていると思った。

 立野橋梁は立野駅近くの峡谷に架かる鉄橋で南郷谷からの白川を望む絶景であった。 高森線立野~長陽 S47(1972)/3/29

 4つの山形に見える石灰石が積まれたホキの列がED16に牽かれて多摩川河岸段丘を行く。ホキはとび色のホキ2500と思われる。 青梅線御嶽~川井 S52(1977)/12/2

 ED16のホキ編成は青梅線最大の魅力であった。 青梅線二俣尾~軍畑 S52(1977)/12/2

 ED167〔立〕がホキの列を牽いて突然現れる。 青梅線日向和田石神前 S52(1977)/12/2

 南武線で見た石灰石列車はホキ4200を連ねているように映ったが、頑丈そうなカバーで覆われたホキ34200という形式であった。 ロホキ34267 形式ホキ34200 奥多摩工業株式会社 石灰石専用 奥多摩~浜川崎間専用 奥多摩駅常備 青梅線日向和田石神前 S52(1977)/12/2

 長物車に積まれた独特なスタイルの箱は生石灰積載のコンテナのようだ。この貨車も南武線で見て気になっていた車輛だ。 チキ80004 形式チキ80000 奥多摩工業株式会社 生石灰専用 奥多摩駅常備 青梅線日向和田石神前 S52(1977)/12/2

小野屋駅と庄内駅のこと 昭和37年の記憶

 昭和37年の秋から翌38年春までの約半年間、小学校1年生であった私は学校へ通うのに汽車に乗らなければならなかった。学年途中で家を転居したが転校手続きができなかったので以前の学校まで3駅間の汽車通学となった。朝の登校は小野屋駅から庄内駅まで、下校はその逆向きである。時刻表復刻版から自分が乗車したのはどの列車かを探ってみた。

 乗車列車は黄色、後で話が出てくる列車交換のことは緑色で示している。登校は大分発鳥栖行618列車に小野屋から庄内まで、下校は終業時間に応じて鳥栖発大分行621・623列車と思われる。何分小学1年生、よくこのような冒険ができたと思う。朝の小野屋駅は通勤通学の大分行と同時刻なのでこの列車に乗る親に連れて来てもらい、1年生が乗る上り列車にいつも乗車している行商のおばさんにこの子を庄内駅で降ろしてほしい、と頼んでいたかもしれない。行商のおばさん達はたくさん乗っていたような記憶がある。行きは機関車のドラフト音が庄内駅に着くまで響き渡り、帰りは機関車は絶気で無音、客車のジョイント音だけが聞こえていた。

 車や道路が整備されてなかったあの時代、移動手段はみな汽車であった。人々は朝の下り大分行611列車は「いちばん(1番)」、613列車は「にばん(2番)」、上り最終の由布院行632列車は「しゅうれつ(終列)」と呼んでいた。由布院行632列車の汽笛は「ピョーッ」という頼りない音で、他の列車の「ボーッ」とは明らかに違っていたのを子供ながらに聞き分けていた。後にわかるのはD60と8620の違いであった。

 庄内駅から小学校へ行く途中に踏切があり、そこに2基の腕木式信号機が建っていた。小野屋駅のそれは1基だけなので不思議でならなかった。場内信号機が2基あるということは副本線があり、上下列車の他にもう1本の列車が退避できる配線である。上記時刻表から由布院~大分間で列車交換が行われる駅を探ってみた。当時は天神山と賀来以外は全て交換可能駅であった。旅客列車だけに限ってみると湯平2回、小野屋3回、向之原5回、南大分2回の列車交換が設定されていたが庄内は皆無であった。庄内は貨物列車との交換と他の駅ではできない貨物列車の追抜きに使われていたのではないかと想像する。

 後年何度か訪れた両駅のスナップから当時を思い浮かべる。扉のD6063は乗車列車の窓から対向列車の機関車を他の乗客に遠慮しながら撮ったもの。 南大分 S44(1969)/8

 庄内起点方を見る。“タウンシャトル”のキハ53が入って来る。残念ながら3番線はきれいに無くなっていた。 H2(1990)

 庄内終点方を見る。“タウンシャトル”キハ40が到着。下りホームの向こう側に見える空間はかつての3番線跡だ。 H3(1991)/2

 木造駅舎健在な頃。雪が舞う日の“タウンシャトル”キハ40単行。 庄内 H3(1991)/1

 同級生から聞いた話。伯父さんが庄内駅長で赴任した昭和40年前後、夏休みと冬休みになるときまって庄内駅の駅長官舎に行って過ごしていた。駅前は賑やかでバス通りがあり、商店や医院があって何でも揃っていた。汽車の汽笛は朝から晩まで聞こえていた、とうらやましい話であった。幼い私が乗り降りした遠い時代に思いを馳せる。 庄内 H3(1991)/1

 駅西側は保線区が置かれていた。民営化後もその広大な敷地と建物は残っていた。 庄内 H3(1991)/1

 かつてのバス通りであった踏切から庄内駅上り場内信号機を見る。昭和37年頃は踏切の少し先、画面左側に腕木式信号機が2本建っていた。 庄内~天神山 H30(2018)/6/3

 列車の先に見える体育館が件の小学校である。線路は小学校の校庭を巻き込むように敷かれていた。D60の上り列車は25‰の上り勾配、しかも校庭に沿う右曲線に続くSカーブを苦しそうに喘ぎながらゆっくり進む光景が脳裏に焼きついている。 庄内~天神山 H30(2018)/6/3

 庄内駅下り場内信号機。蒸機時代も同じ位置に腕木式信号機が2本構えていた。駅前のバス通りは駅の両端で線路を渡る配置で、当時のメイン通りはこんなに狭かったのかと痛感する。 湯平~庄内 H30(2018)/6/3

 副本線3番線はいつ頃撤去されたのだろうか。下り線分岐の先で3番線が分岐していたものと思われる。 湯平~庄内 H30(2018)/6/3

 夕方の大分発上りの通勤・通学列車は1輛だけ「庄内行」のサボを付けた庄内落しの車輛があった、と聞いたことがある。輸送力と勾配、牽引定数の関係からとのことであったが、その客車を留置するスペースが考えられなかったのでその話はにわかに信じられなかった。しかしこの写真にその話は本当だったという痕跡が写っていた。下りホームに欠き取りが見える。ここに客車1輛分の側線があれば、上記時刻表の上り626もしくは628列車の1輛目をこの側線に入れ、翌日の下り611もしくは613列車の最後尾に側線から引き出した客車を連結できる。同一編成に「庄内行」や「由布院行」、「豊後森行」などのサボを持ったハコが並んだら楽しいだろうなと思いは膨らむ。

 大分駅第4ホーム(6・7番)は豊肥本線久大本線の発着ホームで用品棚にはさまざまなサボが置かれていたにちがいない。オハ35やオハフ33のウインドシルに下げる鉄板は国鉄書体のすみ丸ゴシックでも毛筆書体でも似合うと思う。「庄内行」はこのようなスタイルをイメージしてみた。裏側は「大分行」なのは言うまでもない。

 小野屋駅の窓越しに見える赤い通票閉塞装置が印象に残っている。駅長さんが受話器を耳にあてた姿、機械から聞こえる「チン、チーン」の独特な音、指差し確認で信号梃子を倒す姿勢等、さまざまな場面が記憶にある。汽車通学に慣れてきた頃、庄内から乗車した列車が小野屋駅ホームに入り速度が落ちてくると客車から身を乗り出した乗客達は停車するのを待ちきれなくて飛び降りる姿を見ていた。自分も大人の真似をして飛び降りたところ推進力が働いて転んでしまい、以後気をつけるようになった。 小野屋 H2(1990)

 自動車が普及していなかったあの時代、朝は時間をかけて歩いて駅に辿り着き改札を通って汽車に乗る。晩は駅舎からたくさんの人が出てきてそれぞれの家路につく。昭和37年頃の駅模様である。汽車が見える所で遊んでいた私はそのような景色を見ていたような気がする。 小野屋 H3(1991)/1

 小野屋駅ではよく汽車見物をした。機関車が2台つながった列車や逆向きで行く列車、戦車が積まれた長物車の貨物列車などが記憶にある。汽車が通らない時間帯は駅前の貨物側線に置かれた貨車を見ていた。画面右側、ホームの植え込みの向こうは貨物側線が引かれ、農産物を積んだ通風車、馬や牛が載った家畜車が並んでいた光景が思い出される。 小野屋 H3(1991)/1

 小野屋トンネル手前で上下線が分岐するのはあの時のままだ。貨車入換を行う機関車はトンネル手前まで出て行ってまるで発車してしまったのか、と思う場面もあった。経年で辺りの様相は一変している。踏切が立体交差になったこと、スプリングポイントになったこと、転轍小屋が無くなったこと、人の姿を見かけなくなったこと等年月の経過を実感する。 小野屋 H3(1991)/1

昭和47年懐古

 昭和47年は春の新幹線岡山開業、秋の鉄道100年と話題の多い年であった。動力近代化の波は一気に押し寄せて、身近な路線の蒸気機関車が姿を消した一年でもあった。私の昭和47年を振り返ってみた。

 昭和47年の幕開けは前年に青森から宮崎に転属となったC612と会うことができた。副灯の付いた奥羽本線装備そのままの勇姿に感動した。この後動態保存機として宮崎を離れているのでC612との対面は千載一遇の機会であった。 南延岡 S47(1972)/1/5

 日ノ影線の貨物運用に就くC1255〔延〕のナンバープレートは形式入の大形が付いていた。C12は九州では日ノ影線と高森線、指宿枕崎線で使われていて、C12とはこの時が初対面であった。 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

 新幹線岡山開業に伴う47年3月15日の白紙ダイヤ改正豊肥本線豊後荻~大分間の旅客列車の無煙化が行われた。久大本線に投入されたDE10は増備を重ね、ついに豊肥本線のC58を追いやることとなった。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S47(1972)/4

 熊本~大分間の貨物を担っていた9600はこの改正で熊本~宮地間に短縮され、宮地~豊後竹田間の貨物輸送は廃止された。 熊本機関区 S47(1972)/3/29

 立野スイッチバック雄大な景色の中の9600を撮ろうと坂を上っていた。上り貨物の後部にC12が付いていて慌ててカメラを向ける。 豊肥本線瀬田~立野 S47(1972)/3/29

 憧れの冷水峠へと向かう。時既に遅くC55の姿はなく、上り貨物の本務機はDD51が進出していた。後部補機は原田に転車台があるのにわざわざ逆向きで押している。飯塚からの急行“天草”の後部補機を務めるための送り込みであった。 筑豊本線筑前内野~筑前山家 S47(1972)/3/30

 後藤寺や船尾は熱望の地であった。重連が多く、その並びは逆向き、背中合せ、向い合せと多彩で石灰石列車の魅力を充分に堪能できた。 後藤寺線船尾~起行(貨) S47(1972)3/30

 我が街の皆に愛された路面電車大分交通別大線が廃止された。この時に“モータリゼーション”という言葉を初めて聞いた。蒸気機関車よりも先にいなくなるのに納得がいかなかった。 大分交通別大線 S47(1972)/4/3

 5月5日こどもの日、別府~豊後森間に“おとぎ号”が運転された。D60がいなくなった久大本線をひさしぶりに蒸機列車が疾走した。 大分運転所 S47(1972)/5/5

 3月改正は豊肥本線客車列車の無煙化であったが、6月改正は豊肥本線豊後竹田~大分間の貨物列車のDL化が完了し、豊肥本線からC58の煙が消えた。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S47(1972)/3

 日豊本線大分~佐伯間をC57牽引の客車列車が残っていたが、こちらも豊肥本線同様DE10と交替した。 日豊本線大分~高城 S47(1972)/4

 大分運転所に最後まで残ったC58と8620は皆冷たくなっていた。可哀そうな光景で残念であった。 S47(1972)/6/11

 筑豊から姿を消したC5552とC5557は吉松に転じていた。まさか日豊本線で再会できるとは思ってもみなかった。 日豊本線田野~門石(信) S47(1972)/8/10

 吉都線肥薩線経由博多行“えびの3号”が宮崎を発車した。大淀川橋梁は2年後の電化に備えて早くもポールが建っていた。 日豊本線宮崎~南宮崎 S47(1972)/8/10

 宮崎駅0番線からはみ出して待機しているキハ20400番台は日南線志布志線経由の都城行のようだ。 宮崎 S47(1972)/8/10

 若松の庫で見て以来2年ぶりに本線を疾走するD50140〔直〕と会うことができた。この後梅小路蒸気機関車館へ旅立っているので幸運な出会いであった。 筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/8/11

 バス窓のキハ20は前照灯は原形のまま未だ健在であった。 大分 S47(1972)/8

 高城で上り貨物列車が退避する横を下り急行“日南2号”の寝台車編成が駆け抜ける。この日はA寝台車オロネ10が2両つながる豪華な編成であった。 日豊本線高城 S47(1972)/10/9

 鉄道100年のこの年の鉄道記念日に大分運転所では各局より機関車を借りて展示会を催した。来場者が多く盛況であったが、私的には廃車後の罐が集められて少々不満であった。 大分運転所 S47(1972)/10/14

 日ノ影線は昭和47年7月22日、高千穂まで延伸されて線名は高千穂線と改められた。南延岡の2輛のC12はいずれも形式入大形プレートが自慢であった。 南延岡機関区 S47(1972)/12/29

 昭和47年10月は白新線羽越本線の電化と奥羽本線無煙化で秋田と横手のD51がたて続けに南延岡機関区へやって来ることとなった。大分運転所に立寄るとこれらの罐たちが扇形庫に入っていて不思議な光景を味わっていた。まさか2つ目のD51が日豊本線を走るようになるとは夢にも思わなかった。 大分運転所 S47(1972)/12/30

 昭和47年の年末年始の臨時輸送はC57115〔大〕が臨時急行牽引に抜擢され、大分~宮崎間を往年の運用さながらに下り“日南51号”、上り“高千穂51号”に充当されたようだ。本線走行の撮影は翌年の楽しみとして昭和47年大晦日を迎える。 大分運転所 S47(1972)/12/30

 昭和47年で印象に残っている事は、北の白糠線延伸、南の日ノ影線延伸で高千穂線、古江線が大隅半島を循環する大隅線として新たな鉄道が出現したことだ。高校生だった私は更なる鉄道の発展を夢みていた。開通のニュースは明るい未来と受け止めた私の昭和47年である。あれから半世紀が経ってしまった。 

D6026とD6060

 蒸気機関車D60は幼い頃から傍らを走っていた私のお気に入りの機関車で、僅かではあるが大分と直方で彼らの写真を残せたのは幸運であった。最近になって、郡山・直方・大分に在籍したD60の写真を見る機会に恵まれて、その容姿と形態を観察していたらD6026とD6060は同類他機とは違う美しさを備えていることに気づかされた。
 初めて訪れた直方機関区、構内立入は1時間の時間制限でラウンドハウスに満線の機関車達を撮ったなかにD6026〔直〕の姿があった。給水温め器に真鍮の装飾帯が施されていた。 直方機関区 S45(1970)/8/3

 何も情報のなかった“ヨンヨントオ”の前日、久大本線D60はまだ大丈夫だろうかと大分運転所に立ち寄る。そこでD6060〔大〕と会っていた。夕刻の由布院行を牽くD60群が出発時刻順に頭を上り方に向けて待機していた。 大分運転所 S44(1969)/9/30

 要塞のような製粉工場をバックに上り列車を牽くD6060〔大〕が佇んでいる。機関車好きをして“美魔女”と言わしめたD6060のサイドビューは驚くほど美しい。言葉では形容できない優雅さを感じる。運転室の大きな1枚窓、その下の二軸従台車はこの機関車の重厚さを醸し出している。 628レ 久大本線筑後吉井 S44(1969)/3/30

 D6060が持つ優雅さはいったい何だろうかと他のD60と比べた時、煙突のスタイルが違うということに気づいた。D60の化粧煙突は通常スタイルと上部に継足した鍋蓋スタイルがあった。D6026とD6060はそのどちらのスタイルではない、太く優雅なラインを描いているように見える。小川さん曰く、煙突中央部に継足しを入れた胴伸ばしタイプではないか、との推測は的を得ているように思う。筑後吉井上り2番線へ入った列車は由布院鳥栖行で、牽引機D6060〔大〕の煙突がとても美しく捉えられている。 628レ 久大本線筑後吉井 S44(1969)/3/30

 鳥栖発大分行6輛編成を牽くD6060〔大〕は豊後中村を出て第2・第3野上川橋梁を渡ると野矢に向けて上り25‰が始まる。機体を傾けて猛然とダッシュするD6060の顔はとても凛々しく映る。
 昭和44年春の改正は新製気動車キハ45・53が投入され気動車化が若干進んだが、このスジは翌年の春まで客車列車で存置された。 629レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/26

 水分隧道出口から小ケ倉隧道の間で待ち構えたD6060〔大〕の牽く豊後森発大分行1635レ。この時1635レの前を行く貨物6691レはD6064〔大〕が貨車ではなく軌道試験車を牽いていた、という私にとっては驚くべき話を聞いた。 久大本線野矢~由布院 S44(1970)/8/2

 D6060の公式側後方からの角度。20立方米形テンダの形態がよくわかる。後部欠き取りの高さが低く、石炭と水の境目を現すリベットラインがテンダ後方まで回り込んでいるのが特異に映る。D50の20立法米形テンダの後部切り欠きはリベットと同じ高さが原形とのこと、D6060は給水の際に溢水が脇に出るのを防ぐために高さを若干上げたものと思われる。D6026はリベットラインまで欠き取りがきて、こちらは原形のようである。 鳥栖 S44(1970)/8/2

 鉄道ジャーナル35(昭和45年5月)号掲載の「車両基地」から
 この号は昭和45年1月分が掲載されている。機関車の廃車の欄の一番最後にD6060が記載されている。『配置区:大分、老朽・余剰、解体、日付:1.31』とある。当然私は鉛筆でチェックを入れ、大分運転所でD6060と会ったのは昭和44年10月が最後であったので残念の思いでいっぱいだった。

 D6026〔直〕の後方からの角度。D6060と同様に見える。除煙板は小工式、ボイラ梯子位置は砂箱の後、運転席窓は1枚窓、区名札の位置は窓下でD6060と同じ装備である。テンダは双方20立方米形であるが後方欠き取りの高さは前述のように異なっている。 D6046〔直〕+D6026〔直〕 1746レ 筑豊本線筑前山家 S44(1969)/4/7

 D6026〔直〕の右サイド。煙突は後部の蒸気溜と高さを比較すると煙突胴部中央で継足した印象を受ける。列車密度の高いこの複線区間、D50140〔若〕牽引の若松発原田行723レとD6026〔直〕が牽引する原田発鹿児島本線乗入れの門司港行1724レがすれ違う。 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S44(1969)/7/23

 D6026〔直〕+D6031〔直〕の重連貨物列車は筑豊本線から鹿児島本線へ渡って鳥栖へ向かう。D6026〔直〕の給水温め器の装飾帯が輝いて見える。 1765レ 原田 S43(1968)/7/31

 夕刻の折尾駅はD6026〔直〕の牽く若松発飯塚行739レと豊前川崎発伊田線経由若松行736Dが並んでいる。D6026右サイドのフロントデッキからキャブにつながるランボードの白色がよく目立つ。折尾構内は香月線仕業の8620が機回しを行うからなのか渡り線があって、入換信号機が見える。 筑豊本線折尾 S45(1970)/8/2

 巨大な給炭塔の下から動き始めるD6026〔直〕。フロントデッキの頑丈そうなリベットが目を引く。撮影年代がヨンサントオ以前だからか、標識灯に反射板が取付けられている。給水温め器からのパイピングが手にとるようにわかり、低い位置からの角度はとても恰好良く映る。 直方機関区 S43(1968)/7/31 以上10点 写真提供:小川秀三さん

ワム80000

 貨車の標記は実に楽しい。扉左の標記板は符号(ハ)・記号(ワム)・番号(184173)がレタリングされている。その下は票差しが2つあって左は貨車車票差し、右は貨車表示票差し、その間に積・空標記(積2.2空1.0)がレタリング。扉右の標記板は運用票板である。扉右側のガイドレールの上にエンド標記(①)があって1位側に形式番号(ワム80000)、検査級別標記(B1)、全般検査標記と修繕票差し・仕立て検査票差しが、3位側は荷重(15t)、自重(10.9t)標記がある。妻面両サイド下部の2本帯と、手摺りやステップの白色塗りは側ブレーキの位置を示しているらしい。 ハワム184173 鶴崎 S56(1981)/3/15

 かつてエンドウのブリキ製貨車ワム80000を持っていた。ベーカー形カプラーや板のような軸受、かけ離れた書体のデカール等模型というよりは玩具であったが、それでもワムやツム、レやカ、ワフなどを揃えていたのが懐かしい。
 国鉄客車・貨車ガイドブックは『パレットに積んだ貨物をフォークリフトでそのまま荷おろしすることのできるパレット用有がい車で、両側とも総開き式』とワム80000の説明が記されている。ワム84717は番号から初期の製造分と思われる。 大分港 S56(1981)/2

 ワム80000の280000番台は昭和50年からの増備車で、屋根が腐食防止のコーティングが施され屋根色はクリーム色になっている。また扉はアルミドアとなり、荷役時の注意を促すために取っ手の下、引戸錠の上に白丸が標記されている。 ハワム284786 大分 S55(1980)/9

 蒸機時代に度々見かけた貨物列車は黒い貨車ばかりが連なっていたが、所々にとび色のワムやトキ、白い冷蔵車、黄帯が巻かれた石炭車、灰色のLPガスタンク車などが連結されているとうれしくなるものであった。特に煤けたライトグリーンのヨ5000がしんがりに付いていたら最高の出会いであった。 ワム88930 大分 S45(1970)/9