転轍器

古き良き時代の鉄道情景

キハ35+キハ47+キハ40 山口線

 キハ35系は朱色とクリーム色の塗分け時代に何度か会っているのにカメラを向けていない。その後首都圏色と呼ばれた朱色1色塗りとなって通勤形や近郊形気動車の魅力は半減した。
 山口線で出会ったキハ35+キハ47+キハ40の3輛編成は、キハ35以外の新系列車には乗客の姿が見られるものの、キハ35に人影は無く荷物が載せられて、もしかしたら簡易郵便荷物車の扱いであったかもしれない。サボは読めないが5文字のようで「郵便荷物車」と標記されているのではないだろうか。前面強化の鋼板が張られていかつい顔つきになっているが、前照灯は1灯の原形を保っていた。 キハ35214〔広コリ〕 山口線津和野 S55(1980)/9/7

 新系列気動車キハ40・47・48が登場したのは昭和52年頃からで、一般形気動車の塗色が朱色1色塗りに変わり始めたのはその頃からではないだろうか。キハ47はキハ45を進化させたような両開き扉のスマートなスタイルをしている。キハ471000番台は昭和53年から製造された暖地用の便所無し片運転台車とのこと。 キハ471071〔広コリ〕 山口線津和野 S55(1980)/9/7

 キハ40は10代・20系気動車の置換えでいつの間にかローカル線の顔となっていた。車体幅が広くなって裾絞りスタイル、高運転台構造の顔は従来からの気動車のイメージが一変した。キハ402000番台は昭和54年から製造された暖地用の便所付き両運転台車とのこと。屋根上の水タンクがいかめしく映る。 キハ402074〔広コリ〕 山口線津和野 S55(1980)/9/7

夏のある日の交換風景

 偶然通りがかった駅の踏切警報機が鳴り出したので建物の脇からカメラを構えたのではないか。当たり前の日常の風景が切りとられていた。

 枕木柵で仕切られた構内にあずき色の下り電車が姿を現す。線路脇はもうすっかり忘れ去られた鉄道風景が垣間見える。古枕木、リレーボックス、転轍てこ、転轍器標識、電話や拡声器など。

 いつもの1ユニット4輛編成と思いきや2ユニットの長い編成には惹かれるものがある。後ろの編成は冷房装置が載っている。

 改札口から出てきた乗客は平面横断通路を渡り、ゆるやかなスロープを上ってホームに出る。跨線橋の柱のないホームはとても広く感じる。機関車が牽く上り列車が待っていた。周辺の建物からすると駅構内だけ時代から取り残された感がある。

 発車の合図で機関車が始動する。目の前に紅い巨体が現れて視界が遮られる。

 重いモーター音の次は車体がきしむ乾いた音が続く。

 カメラに向かって旅人が手を振ってくれる。

 上り列車が出てしばらくして長い編成の下り電車が発車した。切りとられた当たり前の日常の風景はいつの間にか過ぎ去ってしまった、忘れていた鉄道情景となっていた。遠い夏の日の交換風景を懐かしむ。 日豊本線高城 S55(1980)/7

ブルートレイン EF65500番台

 A個室寝台をずらりと連ねた20系“あさかぜ”に、新幹線岡山開業時の昭和47年3月、14系寝台車が仲間に加わった。3往復のうち1往復が14系に置換えられ“さくら”、“みずほ”と同じ編成になった。初めて14系ブルートレインを見た時は驚きとともにスハネフ14のディーゼルエンジンがやけにうるさかったのを覚えている。 EF65510〔東〕が牽く12レ“あさかぜ3号” 東海道本線川崎~横浜 S49(1974)/10/15

 東京発九州乗入れ5番めのブルートレイン“富士”が昭和39年東京~大分間に誕生した。翌40年には西鹿児島まで延長され、43年には下関落しの付属編成が大分落しとなり堂々15両のフル編成が日豊本線に姿を現す。東海道山陽筋の牽引機はEF60500番台からEF65500番台へと移り変わり、ヘッドマークを掲げたEF65500番台は憧れの機関車となった。 EF65528〔東〕が牽く8レ“富士” 東海道本線川崎~横浜 S49(1974)/10/15

 20系ブルートレインは昭和43年10月改正の際に付属編成の行先延長が行われ、西鹿児島行“はやぶさ”の付属編成は博多回転から長崎行に変更された。“さくら”・“あかつき”で運用されていた付属編成の電源車マヤ20は“はやぶさ”用として増備される。 EF65535〔東〕が牽く西鹿児島・長崎行3レ“はやぶさ” 東海道本線品川 S49(1974)/10

 後年、大阪の“ツバメ屋模型店”に立寄った際、精巧なマヤ20の1/80モデルが展示されて見入ってしまった。マヤ20の1番か2番であったと思う。スハ32に見える外観はまるでDF50の屋根のようなラジエターファンが印象的であった。マヤ201・2は20系“みずほ”を門司で分割した大分編成の簡易電源車としてオハシ30からの改造で誕生した。模型から実車のことを教えられ、マヤ20について改めて興味を持った次第。

 山陰ブルートレイン“出雲”は、昭和47年3月改正で“”瀬戸と共に誕生した。EF65500番台は東京~京都間を、山陰本線は米子機関区のDD54が牽引して話題となった。 EF65539〔東〕が牽く2002レ“出雲” 東海道本線品川~川崎 S49(1974)/10/24

 3段寝台車の時代は窮屈でも夜行列車はこれが当たり前と思っていた。14系寝台車が登場した時は寝台の幅が少し広くなったものの同じ3段なので新しさ以外に変化は感じられなかった。画期的だったのは24系25形の2段寝台車が登場した時で、驚きとともに夜汽車の旅はこれでなくてはと実感したものだ。 EF65509〔東〕が牽く2002レ“出雲” 東海道本線品川~川崎 S51(1976)/3/22

 EF65500番台が牽く20系15輛編成は憧れの的だった。1/80の世界では小高模型に20系のラインナップがあり、ペーパーキットで揃えたい願望があった。ナハネフ22やカニ21の真鍮製前面パーツはとても魅力的に見えた。TR55台車は小高か日光か、塗料はマッハの国鉄色、機関車はつぼみ堂のEF65か、付属編成なら天賞堂のDF50かなどと空想の世界を楽しんでいた。 EF65508〔東〕が牽く10レ“あさかぜ2号” 東海道本線川崎~横浜 S49(1974)/10/15 

D6060 訂正

 「D6026とD6060」の記事を令和4(2022)年12月18日に掲載した。D6060について記述が一部おかしい箇所があるとの指摘を読者からいただいた。D6060は昭和45年1月31日に廃車されたものの、その後出てきた写真の撮影日付が8月であったので『D6060の廃車日付は帳簿上で、実際は機関車不足でしばらく稼働していた』と短絡的にまとめてしまった。懐疑の部分はこのくだりで、廃車された機関車が再び稼働することはあり得ない事、昭和45年以降の久大本線牽引機関車記録にD6060が出てこなかった事、撮影日付は昭和45年ではなくて昭和44年であった事から記事のその部分は削除しお詫び申し上げます。またご指摘に御礼申し上げます。

 D6060〔大〕 鳥栖 S44(1969)/8

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1レ 品川通過

 せっかくのブルートレイン撮影も行き当たりばったりなので良い写真は残せていない。慌てて品川11番ホーム先端へ走って行ったのではないか。EF65509〔東〕が14系寝台車14輛を連れてフルスピードで駆け抜けて行った。
 東海道本線下り電車からの車窓は新橋から品川にかけては線路の展開に目が離せない。浜松町辺りでは海側のヤードに貨物列車が並び、頭上は東京モノレールが優雅に斜めに横断する。田町を過ぎると新幹線の高架と並んで貨物線も海側へと消えて行く不思議な景色に目が留まる。山側に目を転ずると上下線が離れて、東京機関区の軒先をかすめるような至近距離で留置機関車の脇を通り、膨大なヤード群が広がる田町電車区と品川客車区に整列する編成を目の当たりにする。ヤードが収束して引上線が延びる辺りに弧を描く品川下りホームが現れる。わずかな駅間の至極の眺めは旅情漂う寝台特急オハネ14からではなおさらで、次の停車駅横浜までにハイケンスのセレナーデの車内チャイムとともに終着までの到着時刻がアナウンスされていたのではないか。 1レ“さくら” 品川 S51(1976)/2/24

 通過時刻に間に合わず跨線橋からパチリ。ヘッドマークを掲げた憧れの機関車はEF65527〔東〕であった。“さくら”は14系寝台車が登場した昭和47年3月改正で20系から14系へと置換えられ、電源車を必要としない分散電源方式のスハネフ14が組込まれていた。EF65500番台は下関まで1096.5Kmを走り通す。 1レ“さくら” 品川 S51(1976)/2/25