2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧
C58なき後の大分運転所はDF50の予備機としてC57115が残ったが、その後旅客列車を撮りに出かけることもなくなったので動静は定かではない。蒸機列車は南延岡機関区のD51が牽く貨物列車だけになったので貨物の通過時刻に線路端へ向かい客レを追うことはなくな…
昭和47年春、新製DE10落成の都合で豊肥本線・日豊本線と大分入換の無煙化は2段階に分けて行われた。昭和47年3月15日改正は新幹線岡山開業の日、その前日が豊肥本線大分~豊後竹田間旅客列車牽引C58の最後の日であった。DE10が出揃って迎えた6月1日は日豊本線…
東九州の要衝、大分運転所は電化前、日豊本線のC57を最大21輌擁したパシフィックの一大基地であった。そんな全盛期を彷彿させるような光景に出会い固唾を呑んで状況を理解しようと立ち止まった。撮影時C57は1次形2輌(17・53)だけの配置で、まるで形式が違…
柳ヶ浦駅は周防灘に面した広大な宇佐平野を流れる駅館川の左岸に位置する。どこまでも続く穀倉地帯の先に駅の跨線橋や建物が見える。「キネマ旬報増刊蒸気機関車2号」(キネマ旬報社/昭和42年10月刊)に掲載された電化前の柳ヶ浦機関区のレポートから右端の…
はるか昔の小学生時代、列車の窓から見えた煉瓦の蒸気機関車車庫の光景が目に焼きついている。大きな中継駅にあるその機関区は柳ヶ浦機関区。配置のD50とD60は本線の貨物と立石峠の補機運用に就き日豊本線の要衝を守っていた。昭和42年の電化で機関区は廃止…
昭和42年10月は日豊本線幸崎電化が開業した時である。当時私は汽車好きの小学校6年生、形式は後年知ることになるが、客車はドームがスマートな動輪3つの機関車(C57)、貨物はこぶが2つ、動輪4つの機関車(D50)の牽く列車を中津駅で見ていた。ある日それら…
昭和60年夏、かつて存在していた日本鉱業佐賀関鉄道の廃線跡を巡ってみた。幸崎から佐賀関半島の海岸沿いを走る国道から築堤や橋梁、トンネル跡を撮りながら「東洋一」と詠われた精錬所の大煙突と漁港の街、佐賀関へ着いた。車輌の居ない景色は物足りなく、…
豊肥本線は熊本と大分側から宮地軽便線、犬飼軽便線として建設が始まり、昭和3年12月に全線開業した。本線用の8620と9600が下級線区へ投入され始めた昭和9年頃、熊本機関区に9600が配備され、以後幹線筋から操配されたC58と共に豊肥本線での足取りが始まる。…
国鉄難読駅の筆頭のような勾金(まがりかね)駅へは油須原駅から駅間距離約7㌔を歩いてやって来た。情報の少なかったあの時代、B6版の「季刊蒸気機関車'69増刊 鉄道写真撮影読本」(キネマ旬報社/昭和44年7月刊/580円)に拠るところが大きかったと思われる。…