転轍器

古き良き時代の鉄道情景

2020-01-01から1年間の記事一覧

横川寸景

新宿ー小淵沢ー清里ー小諸ー高崎ー上野のひと筆書きハイキングの帰路、初めて碓氷峠を通り国鉄最急勾配の66.7‰を経験する。80系電車の先頭にEF63重連が付きそろりそろりと坂を下る。車窓からこれが鉄道の坂なのかと驚嘆の思いで線路を見ていた。降り立った横…

9600の旅客列車

昭和43年秋頃、中学校の部活を終えて帰る頃は辺りは暗闇に包まれていた。上り列車はちょうどその頃にやって来て、機関車のナンバーは「59670」や「79602」等「C」や「D」の付かない数字だけが並んだプレートを不思議に思っていた。汽車の雑誌を読むように…

豊肥本線のC58 昭和44年~47年の記録

辺りが暗くなり中学校の部活を終えて帰る頃、上り列車がやって来る。機関車は5桁数字が並ぶプレートを付けていたがある日アルファベットのCが付いたプレートを発見、以後この時間に現れる機関車はC58ということを知る。当時C58は105・112・115・124・224・22…

滝尾入換一部始終

当時の列車撮影は通過時刻ぎりぎりに線路端へ行くのが常で、前もって構図を決めるなど皆無であった。一連の入換作業を記録できたのはたまたま早めに駅へ行き、また交換列車の待ち時間があったからではないかと思っている。入換を撮ろうと意識していたわけで…

153系

153系はカワイモデルのカタログでしか知らなかったが、この時初めて実物を見る。検修線のクハ153には交番検査の旗が掲げられていた。列車番号標記にある312Mは下関発岡山行“山陽7号”で、急行“山陽”は下関・小郡・南岩国・広島と岡山を結ぶ8往復が設定されて…

165系

東海道筋の2つ扉は80系と153系があって近郊形113系とは違った客車的な趣きがあって好感を持っていた。この年に80系は終焉を迎え、前面がオレンジ一色の153系が急行に各停に運用されていた。165系急行は中央本線や上越線のイメージがあったが三島で偶然見か…

69616

夕方の宮地行の補機を務める69616〔熊〕が給炭線脇でスタンバイしている。石炭満載のテンダのプレートは形式入が付いている。テンダ輪郭の縁取りやキャブの屋根と下回りの曲線が優雅に見える。 熊本機関区 S47(1972)/3/29 熊本機関区の給炭設備はアメリカン…

D6071 旅立ちの日

いつものように大分運転所に行くと、日頃まず入ることのない電留線にD60がいるのに驚いた。近づいてみるとキャブの札差しに機関車の転属を告げる票が差し込まれていて、D60減少の現実に愕然とする。今夜半の貨物列車で北上するとのこと。「D6071よ、大分での…

夕暮れの水前寺

九州には「寺」のつく駅が6つある。日豊本線豊前善光寺、久大本線善導寺、日田彦山線後藤寺、筑肥線周船寺、宮原線宝泉寺、そして豊肥本線水前寺。ここ水前寺を訪れたのは9600重連の宮地行を撮るためである。水前寺の構内はとても広く隣りの南熊本とともに…

39680

39680〔熊〕が家畜車や無蓋車、石炭車の入った12輌の貨車を従えて米良川の土手に向かう上り勾配をゆっくりと進む。黒色の編成の中で石炭車の黄帯がひときわ引き立ち、上り場内と遠くに見える出発信号機の赤色もよくわかる。後方右手に農業倉庫が見える。 795…

タキ1900

津久見のヤードに小野田セメント所有の私有貨車が止まっていた。以前国鉄機関士の方から「海崎と津久見からつなぐセメントの貨車はとても重たかった。またチップを積んだ貨車をつないだ日に雨が降るとそのチップが何倍もの重さになってこれもつらかった」と…

碇山のふもと 滝尾周辺

豊肥本線滝尾は大分平野に広がる田園地帯の中、標高の低い碇山のふもとにある大分からひとつめの小さな駅であった。のどかな田舎の景色に朝夕はC58の牽く通勤通学列車が、日中はC58と9600が牽く貨物列車が のんびりと走っていた。 碇山午前7時09分の構図。海…

69665

私が知っている熊本機関区のキュウロクのうち、69665と79602の唯2輌が門デフ装備車で目立つ存在であった。69665〔熊〕とは対面の確立が高く一番多く出会った機関車で思いもひとしおである。 貨物列車と旅客列車の交換に偶然出くわす。通常ダイヤであれば熊本…

幸崎小運転で使われた機関車

昭和44年当時、日豊本線大分~幸崎間に夕方1往復の貨物列車が設定されていた。「小運転」という用語は当時の趣味誌に国鉄マンが執筆した機関車の現況を伝える記事で目にし、短区間の運用は自然とそのように呼ぶようになった。国鉄に「小運転」の定義があった…

79653

豊肥本線の9600はねぐらを宮地機関から熊本機関区に移して同ナンバーが継続して使われていた。79653は当初のメンバーではなく廃車補充として昭和44年4月に香椎から転属して来た機関車であった。約4年間豊肥本線で働いた後、昭和48年の無煙化の際遠く北海道へ…

79608

小鳥のさえずるのどかな日、一面れんげ畑の向こうからお目当ての貨物列車はやって来た。石炭車とバラスト散布のホッパ車が編成にアクセントを添えてちょうどよい長さである。79608〔熊〕はコンプレッサーの排気音をリズミカルに鳴らして通り過ぎて行った。 7…

79602

79602は「蒸気機関車No.55(昭和53年5月号)」の9600番号順配置表によると、昭和8年鳥栖ー昭和22年佐賀ー昭和36年宮地と記載され、一貫して九州内を回っていたようだ。宮地機関区は昭和39年の豊肥本線DC化の際に熊本機関区に統合され、79602は昭和48年の無煙…

59670

阿蘇ドライブの途中の山腹に機関車が置かれているのに気づく。近寄ってみると何とついこの間まで貨物列車を牽っぱっていた熊本機関区の59670であった。とりあえず記念撮影をしてそのままになっていたネガを発見、忘れ去っていた高原の機関車のことを思い出し…

熊本機関区で出会ったC11達

熊本機関区のC11は伝統的に数多く配置され、矢部線・三角線と熊本・川尻・八代・大牟田・荒尾の入換運用に広く使われていた。昭和30年代は熊本機関区に荒尾と八代に機関支区が設けられて数輛のC11が配置されていた。またそれ以前は矢部線黒木にも駐泊所があ…

ヨンヨントオ前夜

汽車の写真を撮り始めて初の10月がやってきた。10月は国鉄のダイヤ改正の月、鉄道に対して何の情報もなかったあの時代、地元新聞の「蒸機また消えるー」の見出しに踊らされて昭和44年9月30日の放課後は一目散に蒸機基地へと自転車を走らせた。 【写真①】手前…

キユニ191

益田構内は山口線と山陰本線の気動車列車が入線し、慌ただしい時を刻んでいた。これまで見たことのない切妻形スタイルの郵便荷物気動車に魅せられた。 キユニ191〔広コリ〕 山陰本線益田 S52(1977)/8/7 キユニ19誕生までの変遷を辿ってみると昭和28年に登場…

クモハ40061

クモハ40の顔はさまざまなタイプがあるらしいが、この青梅駅電留線で休むクモハ40061〔西トタ〕は丸妻半流の顔でシル・ヘッダーのリベットと深い屋根のカーブが重厚な面構えを醸し出している。 青梅線青梅 S52(1977)/12/2 左サイドは運転室扉横と運転室窓上…

五日市線

青梅・五日市線の旧形国電が風前の灯ということを聞き、旧国ファンに連れられて多摩川の川原にやって来た。五日市線は豊田電車区のクモハ73+サハ78+モハ72+クハ79の4輛編成で運用されていた。朝夕のラッシュ時にはクモハ40が増結される。この時すでに103…

津久見の汽車風景

臼杵から津久見へ向かうには豊後水道につき出た半島を越えねばならず、昔は半島の稜線に沿って十国峠を越えて津久見湾へ出る難所であった。鉄道は臼杵津久見間9.7km、駅間に徳浦信号場をはさみ8つのトンネルで山を越える。臼津峠は国道の峠名で鉄道にその名…

日本セメント佐伯工場への引込線

海崎駅に立寄った昭和61年から30数年の月日が流れていた。セメント工場の引込線のことは気にはなっていたが時の流れに飲み込まれてしまっていた。そんな折国土地理院のWEBで海崎駅付近の空中写真を見つけ、駅から工場へ引き込まれた専用線の軌跡を確認するこ…

海崎黄昏時

所用で佐伯に行った帰り道、日没時刻にもかかわらず佐伯からひとつめの海崎駅に立寄ってみた。何の変哲のない上下2線だけの普通の駅であるが、そこに立ち止まらせたのには訳があった。駅の近くの海岸沿いに要塞のような日本セメントの工場があり、かつて専用…

夜行からまつ

北海道撮影旅行の夜はほぼ夜行列車で過ごし、すずらん4号、大雪5号、利尻等に乗車した。帯広、池北線を訪れた際は夜行の各駅停車“からまつ”に乗車した。寝台車を連結した各駅停車は寝台券を発行する際に愛称が必要とのことで、からまつの他南紀、山陰、なが…

北海道鉄道記念館

手宮貨物駅の山側にひっそりと3線の扇形庫が建っていた。当時、歴史的価値のあるものとの認識はあまり持ち合せていなかったように思う。庫の中の古典機にも興味は湧かず儀礼的に撮ったネガだけが残っていた。 北海道鉄道記念館 S50(1975)/9/14 旧手宮機関庫…

小樽築港

「小樽築港」と聞くとC62がいた小樽築港機関区を思い浮かべる。呉線が電化された昭和45年10月、糸崎のC62が遠路小樽築港へ回送されるルポを「鉄道ジャーナル」で読んだことが頭をよぎった。昭和50年は小樽築港区に蒸気機関車の配置はなく、特別な名前のよう…

早朝の帯広

帯広5番線に停車しているのは広尾行の貨物列車のようだ。道外禁止の黄帯を巻いたワフ21000はステップの手摺りは白く塗られている。所属標記は釧オロと読める。後方に煙突が長い二段屋根の矩形庫が見える。 帯広 S49(1974)/9/18 朝もやのかかる広い空の下、6…