転轍器

古き良き時代の鉄道情景

北九州筑豊

後藤寺

日田彦山線後藤寺駅は新飯塚への後藤寺線、金田への糸田線を分ける分岐駅。広い構内は石炭車や石灰石のセキやホキの長い編成で埋まり、特に1番ホームと2番ホームの間の中線2本は貨物列車の往来で活況を呈していた。船尾からの石灰石列車は苅田港行はスイッチ…

船尾行5493レ

新飯塚発後藤寺行529Dに乗車し後藤寺線13.3㎞を乗り通し、頭端式の後藤寺駅0番線に到着する。勇み足でホームに降り立つと中線に長編成の貨物列車が停車していた。この長い編成がどのように進むのかわかっていたか否かは記憶にないが、発車の汽笛が鳴るのを胸…

中元寺川橋梁

29602〔後〕がトキ編成を牽いて中元寺川橋梁を渡る。セキとホキ、セラばかりの後藤寺線の中では異色の編成のようにも思える。ホッパ車の代用であろうか。列車番号は通常下りが奇数、上りが偶数と決まっているが、後藤寺線の場合船尾へ行く(上り)のも、船尾…

起行貨物駅

後藤寺を出て勾配を下り1㌔も走らないうちにまたヤードが開けてくる。起行貨物駅である。ヤードに溜まる貨車はまばらで、まわりの雰囲気から全盛時代の使命は終えた貨物駅の印象であった。開業は明治30年10月で、豊州鉄道が今の後藤寺線となる起行までを初め…

船尾の印象(2)

船尾駅日鉄鉱業の専用線は本線からスイッチバックする形で弧を描くように敷かれている。遠くで発破の音が聞こえ、近くではベルトコンベアのモーターの音が鳴り響く、とても騒々しい構内であった。白い粉でウエザリングされたセキ6000や独特なスタイルの日鉄…

船尾の印象

船尾は昭和47年春に初めて通った際、車窓から見た工場内の光景が焼きついて忘れられず、翌48年に引き寄せられるように再訪した感動の地であった。上写真は再訪時の船尾の印象、下写真は47年、新飯塚発後藤寺行529D車内からの船尾の第一印象である。船尾は想…

ひたひこ鉄道写真展

門司港レトロで開催された「ひたひこ鉄道写真展」に行ってきた。田川地域全域を総称する“田川まるごと博物館”を運営する田川広域観光協会の主催で、地域に関連する日田彦山線、田川線、添田線の写真が展示されていた。 会場の壁面全面に展開された大パノラマ…

香月線

香月発若松行124レは香月7:46発、中間7:56着8:05発、折尾8:11着8:26発、若松8:42着の時刻で、牽引機の88622〔若〕は朝の仕業を終えて若松機関区に戻る。 筑豊本線折尾〜中間 S47(1972)/8 88622〔若〕の牽く124レはきれいなオハ35とオハフ33の4輛編成…

複々線

88622〔若〕の牽く折尾発香月行125レが朝もやの複々線を行く。若松機関区8620の香月線仕業は朝の3往復、若松〜香月1、中間〜香月1、折尾〜香月1の内訳である。125レは3往復めに入る折尾折返しで、折尾での機回しはあわただしかったにちがいない。 筑豊本線折…

天草

京都発熊本行209レ急行“天草”は門司ー小倉ー戸畑ー八幡と停車した後、筑豊本線内は直方ー新飯塚ー飯塚に止まり、原田は通過して再び鹿児島本線に出て鳥栖へ止まる。豪華な11両編成でスハフ43ースロ54ーオロネ10ースハネ16…と続く。黒崎からの線路別複々線が…

宮田線

宮田線に入る逆向9600牽引の貨物列車を伊田線の線路の手前から見る。この位置は筑豊本線の複線と伊田線の複線が離れる地点で、あと1㌔ほど進むと勝野に着く。宮田線は勝野〜筑前宮田間5.3㎞の支線で、かつては貝島炭鉱の石炭輸送線として活況を呈していた。…

直方

直方駅4番ホームにC5551〔若〕牽引の原田発門司港行1734レがすべり込んで来た。昭和45年4月号の時刻表から筑豊本線の客車旅客の運用区間を拾ってみた。下りは若松〜原田2、若松〜飯塚4、門司港〜直方1、門司港〜原田2、直方〜原田1、飯塚〜原田1の計11本。…

東小倉界隈

鹿児島本線門司〜小倉間は門司操車場や東小倉貨物駅があって多数の線路が収束することなく続く楽しい区間である。その線路沿いの海側を併走する国道199号線を通る車中から、鹿児島本線とは関係ない位置に線路が敷かれているのに気づく。思わず立寄ってみると…

石炭列車

田川線は当時の撮影ガイド本に「石炭列車が走る…」と紹介され、それを読んでこの地を訪ねる。次々とやって来る石炭車を連ねた編成は、よく見ると石灰石やセメント用に改造されたセラならぬホラという形式が連結されていて、石炭よりも石灰石の方が輸送量は多…

石炭列車仕分線

直方駅のホームから駅裏口へ通じる跨線橋が当時直方構内を見渡せる撮影ポイントであった。何気なく構内を撮ったスナップに石炭輸送全盛期に賑わったであろう石炭列車仕分線が写っていた。写真左の群線がそれで、なるほどセフやワフがぽつんと置かれているの…

彦山

日田行列車は添田を出ると釈迦ケ岳をめざす上り坂となって彦山に着く。彦山は霊峰英彦山の最寄り駅で神社のような優雅な造りの駅舎とホームのぼんぼりに目をうばわれる。蒸機時代、C11はここで給水したと聞く。彦山の路線名称の変遷を辿ると、開業時は行橋…

田川線と添田線の立体交差

田川線伊田方面行のセラ返空編成を勾金駅西方で見る。機関車の先の築堤に架かる鉄橋は添田線で田川線はアンダークロスしていた。無意識でただ石炭列車の後追いを撮っただけだがたまたま立体交差が写ってくれていた。田川線は豊州鉄道として明治28年8月に、添…

行橋中線

行橋駅中線は日豊線、田川線を通る石炭列車が入るので有効長が長く敷設されている。露出不足の眠たい写真は毎度の事ながら私にとっては重要な構図なのでスキャンデータを限りなく明るくしてみた。幾度となく訪れた行橋ではあったが中線を撮ったのはこの1枚限…

行橋

昭和46年4月現在田川線は6往復のC11旅客が設定されていて、気動車列車は伊田往復があったが、旅客は伊田折返しはなく行橋と後藤寺・添田・直方まで直通する運用であった。C11162〔行〕は添田16時58分発行橋18時25分着の438レを牽いて行橋3番線に着いたとこ…

中間

昭和48年3月現在、筑豊本線のD60は直方22・46、若松61・69の4輛が健在であった。若松の2輛は47年10月にDD51配置の余波で直方から移ってきている。その後48年7月には直方の2輛も若松へ配置替えとなり、直方からはD60が消えてD60終焉へと向かう。 筑豊本…

複々線

折尾駅の南をかすめる国道3号線の陸橋から複々線を俯瞰する。左2線が若松からの複線、右2線が黒崎からの複線で、中1線は使われているのかわからないが引上線のようである。民家の壁の広告看板が懐かしく時代を感じさせられる。C5552〔若〕はこの後、昭和47…

デゴマル

D50140は昭和45年8月に若松機関区で見て以来2年ぶりの再会で、あの時は機関区構内の立入りが制限されていて遠く柵の外から眺めるしかなかっただけに、本線を力行する勇姿に感激した。46年春に若松機関区を最後に引退したが、梅小路蒸気機関車館のメンバーと…

セメント列車

昭和47年夏の筑豊本線はD50・D51・D60・9600・8620の牽く客貨列車が次々と行き交っていた。次の罐は何かなと待っていると数本に1本の割合で朱とグレイの真新しいDD51がやって来た。ホキ6800清一色の編成は伊田線金田発のセメントクリンカ専用列車で直方…

伊田発苅田港行石炭列車

筑豊炭田の石炭は若松・戸畑・苅田港の各桟橋へ運ばれるのは知っていたが、どの駅で仕立てられた物がどの港へ行くのかは謎のままである。田川線を通って苅田港へ運ばれる石炭は、地理的に伊田や後藤寺、豊前川崎辺りからであろうか。そういえば伊田の構内に…

場内信号機

ピストン輸送の石灰石・セメント列車に魅かれて日田彦山線に足を踏み入れた。石原町までは本数も多く北九州市郊外の平凡な景色の中で次から次へとやって来る列車を待っていた。石田は島式ホーム1面2線の単純な駅なのに構内入口には2本の場内信号機が建ってい…

若松から東折尾への道順

若松からの下り線 若松〜東折尾(操)間には若松機関区9600仕業の小運転が多数設定されていた。折尾構内の折返し線は使えず中間経由で往復していたものと思われる。577レはセフ+ワフ+トラ×18+セフの積荷は何なのか摩訶不思議な編成であった。 49654〔若〕…

朝の小倉駅

小倉駅北側の貨物線を行く専用貨物列車を見るべく第4ホーム(7・8番線)へ駆け上がる。門司操車場方ばかりに目をやって接近する列車を待ちうけていたが、ふと反対側のホームがカーブする戸畑方を振り向くと電車や気動車の長い編成が出入りする活気ある駅風景…

石炭列車

漆生線漆生から戸畑へ向かう石炭列車 新飯塚発後藤寺行529Dは漆生線の分岐する下鴨生を11時32分に発車。迫る対向列車は69632〔直〕の牽く漆生から出た石炭列車であった。後藤寺線沿線も炭鉱の密集地帯で、石炭運搬ルートは遠賀川の流れと同じように漆生線・…