転轍器

古き良き時代の鉄道情景

木材輸送


 日田地域は阿蘇九重山系から流れる大山川や玖珠川が三隈川に合流し筑後川となって有明海に注ぐ川の道があった。かつて、日田地域で産出される木材は筏に組んで筑後川を流す「筏流し」が行われていたと聞く。筑豊の石炭を鉄道開通まで遠賀川で川艜と呼ばれる川舟で運んでいたのと似ているように思える。日田地域の鉄道は、大正5年に筑後軌道、昭和9年久大本線が開通し、久留米方面への木材輸送はこの時点で鉄道に切替わっている。しかし大川方面の「筏流し」は昭和27年の夜明ダム建設工事まで続けられたらしい。木材輸送を調べるのに「筑後川を道としてー日田の木流し、筏流しー」(不知火書房/平成19年刊)に目が留まる。日田から筏を大川まで運んだ帰りの記述を抜粋する。「鐘ヶ江の渡しを渡ると、大川鉄道に乗って久留米まで出よった。大川鉄道はね、大川から久留米まで通じちょって、大川の榎津や若津、鐘ヶ江、それから城島やら久留米の大善寺にも駅があった。久留米の終点の駅は国鉄久留米駅の近所じゃった。だからね、あたしたちは大川に筏を持って行ったときも、これで久留米まで出よった。久留米に着いたら、千本杉で筑後軌道に乗って、日田まで帰ってきよった。」とある。大川鉄道(西鉄大川線の前身)と筑後軌道の乗継ぎは昭和8年以前のことと思われる。
日田玖珠の100年-日田市・日田郡玖珠町-(郷土出版社/平成13年刊)から
 話に聞いた「駅前に積まれた木材の山」の写真がないか調べた際に発見したのが「日田玖珠の100年-日田市・日田郡玖珠町-(郷土出版社/平成13年刊)」で、まさに探していた風景であった。キャプションは「昭和初期の豊後中川駅周辺」で、駅本屋寄りの現在の国道210号線が通っている辺りに木材が積まれているものと思われる。側線に長物車チキが停め置かれている。魚腹形の梁と短い6本ポールから昭和初期形のチキ300ではなかろうか、などと勝手な想像で当時を偲ぶ。上下線の両側に敷かれた貨物側線は木材輸送の重要度を物語っているといえる。
古典的なチキは年代とともに荷重が増し、チキ1000、チキ1500、チキ3000と進化した。

片面ホーム1線の無人駅となった現在の姿からは過去の栄華の痕跡は何も残っていない。チキがあった位置は本屋寄り下りホーム側の側線なのでこの辺りではなかろうか。 久大本線豊後中川

大きな丸太が載った長物車は見たことはあったが写真には撮れていない。トキ25000も木材輸送に使われていた。 オトキ25811 大分港 S56(1981)/2

オトキ26549 都城 S49(1974)/3

トラ31047 大分 S47(1972)/8