転轍器

古き良き時代の鉄道情景

豊後森


 幾度か訪れた豊後森は昭和45年、53年、59年撮影の写真が残っている。撮った写真は車輛ばかりで駅舎や駅の雰囲気が漂うカットはほぼ皆無で今となっては残念でならない。昭和45年は列車の車窓から見た印象、昭和53年は扇形庫に眠るキハ0741を見に、昭和59年は宮原線廃止で通った際に撮った景色である。

 昭和45年春、列車の窓から駅構内をスナップ。駅を出て加速した時、貨車の列が途切れて視界が開け、豊後森機関区が見えてきた。模型レイアウトのような給水塔と給炭台、スポートが見え、パイプ煙突のD60が佇んでいた。

 すぐさま白い御殿のような扇形庫が目に飛び込んできた。一瞬であったが、コンパクトカメラのシャッターを押す。テンダを背にした8620と顔を出したキハ0741が見えた。キハ0741のおでこの大きな前照灯が印象的であった。

 昭和53年夏、白い扇形庫はあの時のままであったが、蒸機時代の終焉とともに給炭台が姿を消していた。豊後森機関区は昭和45年10月で8620とC11の配置機関車は無くなり乗務員区となった。それでも構内は貨物側線も健在でまだ活気があふれていた。

 鳥栖豊後森間に運用される客車編成が留置線に停まっていた。久大本線豊後森を境に西と東で列車体系が分かれ、西側ローカルにはナハ11が組込まれていて驚きであった。ナハ1148〔門トス〕は元長崎客車区配置で本州向けの急行列車に使われていた。

 8年前列車から見たキハ0741はその後も小倉工場へ送られることなく豊後森機関区の扇形庫に留置されていたので写真に収めることができた。キハ07は昭和10年、キハ42000として当時流行の流線形で登場、その後エンジンをディーゼルエンジンに載せ換えてキハ42500に、昭和32年4月の称号規定改正でキハ07となった。昭和32年11月、キハ0741・0742・0743の3輛は豊後森機関区に配置され、宮原線で約11年間活躍した。

 昭和59年秋、扇形庫と機関区本屋は未だ健在。惜しむらくは構内の線路群がすっきりしたこと。貨物側線や機関区構内の線路、テーブル線や扇形庫内のレールが剥がされていた。

 宮原線のキハ40が接近してきたのでシャッターを押したカットと思われる。下りホームに駅本屋から伸びる差しかけと柱がわずかに写っている。柱上部、軒桁にかかる方杖と軒樋が国鉄駅舎の重厚な雰囲気を醸し出しているように思える。

 上りホームは3輛編成の鳥栖行636レが入線している。牽引機はDE101172〔大〕。25分の停車時間は乗務員もひと休みというところ。方面表示に目をやると、「日田・鳥栖」の他に「博多・小倉」、「長崎・佐世保」が標記されている。「博多・小倉方面」は急行“由布”、快速“あさぎり”、“はんだ”がこの時期まだ健在であった。「長崎・佐世保方面」は既に姿を消した急行“西九州”の名残りであろうか。

 機関区側から見た豊後森駅構内全景。線路配置はすっきりとし、あちこちに積まれた剥がされたレールに心が痛む。下り線は博多発別府行急行「由布1号」+直方発鹿児島本線日田彦山線経由由布院行快速「日田」が入線、先頭には宮原線運用を終えて大分に回送されるキハ40が連結されて発車待ち。上り線は先発の別府発博多行「由布2号」が入っている。留置線は鳥栖豊後森着の50系と宮原線のキハ40、その向こうにDE10が待機している。一瞬華やいだ駅風景に安堵した。

 長い編成が上下本線の分岐器を1輛1輛車体を傾けて渡って行く。エンジンの唸り、排気の香り、ジョイントのリズムが伝わり、車列の後方で見送る駅長の姿も重なってとても感動的シーンに遭遇した。