転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大淀川


 パシフィックとハドソンが生息する南国宮崎へ赴く。当時の趣味誌の影響で“宮崎へ行ったら大淀川とフェニックスは欠かせないポイント”として大淀川河畔へ引き寄せられたような気がする。

 昭和47年初頭、大淀川橋梁に架線柱はまだ建っていない。曇り空の下、南延岡発南宮崎普通列車が白煙をたなびかせて鉄橋を渡る。 539レ 日豊本線宮崎〜南宮崎 S47(1972)/1/5 

 宮崎発博多行1116D“えびの1号”はキハ58と65組成の8輛編成で運行されていた。当時の時刻表から停車駅を追ってみる。●日豊本線下りー南宮崎都城吉都線下りー小林ー飯野ー京町ー吉松●肥薩線上りー真幸ー大畑ー人吉ー八代●鹿児島本線上りー熊本ー玉名ー大牟田ー瀬高ー羽犬塚ー久留米ー鳥栖ー博多。宮崎8:28発博多14:51着。  日豊本線宮崎〜南宮崎 S47(1972)/1/5

 南宮崎発宮崎行の客車回送のようなひと駅間の営業列車。南延岡発南宮崎行の折返しで機関車はバック運転となり、テンダの形から4次形の190番台とわかる。  1536レ 日豊本線宮崎〜南宮崎 S47(1972)/1/5

 昭和47年夏の訪問では大淀川橋梁に架線柱がセットされ、電化工事は着々と進んでいた。宮崎発志布志行の列車はキハ17で統一された4連でやって来た。志布志都城の基地にはキハ10・11・16・17が配置され日南線志布志線・古江線・吉都線で運用されていた。 343D 日豊本線宮崎〜南宮崎 S47(1972)/8/10

 夕方の宮崎発都城行は宮崎のC57もしくは吉松のC55が牽引するとのことであった。この日は田野で会った上り貨物がC5557〔吉〕だったので帰りのスジはC55とわかっていた。この年の春、若松のC5552と57が吉松に転属し、吉都線肥薩線、そして日豊本線は宮崎まで顔を出していた。 1527レ 日豊本線宮崎〜南宮崎 S47(1972)/8/10

 門司から鹿児島まで日豊本線を縦断する551レは蒸機区間は南延岡までD51、宮崎までC61、鹿児島まではC57と牽引機が交替する。宮崎で入換の後、一路鹿児島をめざす。日豊本線南部の貨物列車でよく見られたワムフ100が最後尾に連結されている。 551レ 日豊本線宮崎〜南宮崎 S47(1972)/8/10

 日南線気動車を見る。志布志発宮崎行はキハユニ26+キハ25+キハ20+キハ16の4連で運用されていた。蒸機にしか目が向かなかったこの当時、たびたび出会った気動車たちをもっと真剣に撮っておけばよかった、と今後悔しきりである。