日豊本線はトンネルの多さと急勾配の連続で九州ではいち早くディーゼル機関車が投入された線区である。昭和33年には大分に姿を見せ試運転を始めている。本格的配置は昭和34年の新製車7輛で始まり、漸次35年6輛、36年3輛、37年1輛と増備され17輛までになった。41年、立石峠複線化の際にできた新下り線の立石トンネル無煙化の補機として秋田から8輛が加わって最大25輛となる。電化後は補機運用の解消で4輛が米子へ移りヨンサントオ以後21輛体制に落ち着き大分以南の無煙化に貢献した。48年10月には予備車だったC57のマイナスを補うため米子から502が転入し、宮崎電化まで22輛で推移する。ナンバーは新製大分配置組16輛(530・531・532・533・534・543・544・551・552・553・554・555・556・561・562・563)、転入車組6輛(502・503・509・523・542・560)の内訳である。
DF50503 大分運転所 S47(1972)/2/20 奥羽、羽越本線の拠点秋田機関区の罐で、昭和41年8月、立石峠の無煙化補機として大分に転属してきた。8輛の転属車( 503・ 508・ 509・ 521・ 522・ 523・ 5 41・ 542)は幸崎電化後米子へ移動した4輛( 508・ 521・ 522・ 541)を除き南宮崎電化まで大分のナンバーとなる。
DF50509 大分発南延岡行1526レ 大分〜高城 S49(1974)/1 DF50大分時代の最後の写真である。昭和49年4月24日幸崎〜南宮崎間が電化開業、大分運転所配属のDF50ー22輛全機は宮崎機関区へ転出する。昭和33年から始まった大分での活躍は16年で終止符が打たれた。
DF50531 鹿児島発大分行540レ 大分 S44(1969)/3 鹿児島5時発大分15時35分着の長距離鈍行が2番ホームにすべりこんで来た。客車4輛、荷物車5輛の編成で、荷物車は夕方の門司港行に引き継がれるのであろう。この列車は、常に重連のスジで運用されていたと思われる
DF50532 佐伯発大分行1522レ 大分 S47(1972)/5/3
DF50533 宮崎 S47(1972)/8/10
DF50534 大分運転所 S48(1973)/3/15 前面の手摺は長短2タイプがあり、534は短い手摺が付いている。貫通扉窓のHゴムは白と黒の2タイプがあった。
DF50542 大分運転所 S48(1973)/3/15 534とは対照的に前面手摺は長いタイプが付いている。側面エアーフィルターの模様は十字と縦3列の形があるようだ。
DF50543 大分運転所 S44(1969)/5
DF50544 1207レ“日南2号” 高城 S47(1972)/10/9
DF50551 大分運転所 S49(1974)/1 前面窓Hゴムが3つとも黒で顔がしまって見える。乗務員扉の窓とその後ろのフィルター枠はタブレットプロテクタという防護板が取り付けられている。
DF50553 大分運転所 S49(1974)/1 前面貫通扉は上部がRのない板状の形をしている。
DF50554 大分発都城行543レ 津久見 S47(1972)/12/29
DF50555 大分運転所 S47(1972)/2/11 貫通扉は553と同じく上部Rのない形。手摺は長いタイプが付いている。黒いスノープラウが精悍な面構えを作っていた。
DF50556 大分運転所 S45(1970)/10 昭和35年9月の日立製。南宮崎電化による宮崎移動まで大分から離れることなく日豊本線で活躍した。屋根上の信号煙管の輪郭がわかる。
DF50560 西鹿児島 S45(1970)/6/3 大きなラジエターカバーが目にとまる。水タンクカバーに書かれた“水”の文字が見える。形式プレートのC5749〔宮〕と鹿児島機関区への重連回送と思わる。
DF50561 荷1043レ 大分〜高城 S48(1973)/3/21
DF50563 1596レ 大分〜高城 S46(1971)/9/25 大分配置のラストナンバー。区名札は窓下から少し低い位置に付いているように見える。