転轍器

古き良き時代の鉄道情景

日豊本線大分川橋梁


 鉄道写真を撮り始めた昭和44年当時、日豊本線大分以南はC57・C58・8620・9600・D51が走り、それらを撮りに大分川付近へは足繁く通った場所である。大分川に架かる大分川橋梁は煉瓦の橋脚とプレートガーダーの蒸機列車の似合う趣きのある鉄橋であったが、経年が進み架け替えの計画が進められていた。当時の視点は車輛中心で鉄橋の事など全く無意識であった。結果的にプリントした拙い写真には鉄橋の架け替えとそれに伴った両岸の線形の変化が写っていて、当時の鉄道風景をふり返ってみたい。写真は堂々12編成の別府発宮崎行急行“南風1号”で旧鉄橋を渡る。 6505D 日豊本線大分〜高城 S44(1969)/4

 大分市街図昭和56年から
 日豊本線大分川橋梁架け替え後の地図は2本の鉄橋が離れて架橋されている様子を表している。大分川左岸西側に大分駅があり、南東方へ分岐しているのは久大本線、単線並列の川を渡って分岐するのは豊肥本線である。分岐位置には下郡信号場が置かれ、大分電車区豊肥本線へ接続している。北東方へ進む日豊本線とは渡り線は設けられていない。鉄橋架け替えによる線形の変化は地図Aの地点からB辺りまでで、橋脚位置の移動に伴って既設線路から北側へ移設されている。右岸の堤防から大分電車区脇までは新しい築堤が造成された。地図上の番号は撮影位置である。

 日豊本線の開通年代は小倉〜大分間は明治44年までに、大分以南宮崎、吉松までは大正12年に開通している。大分〜幸崎間は大正3年4月の開通で、大分川橋梁はその時の架橋であり、撮影時の昭和44年で経年約56年となり架け替えの時期を迎えていた。列車は制限速度40キロ以下の徐行運転で、手ぶれ写真でわかりにくいが制限40の標識が写っている。この後画面右側に新大分川橋梁の工事が始まり、昭和46年3月に完成している。列車はC5753〔大〕の牽く佐伯行である。大世帯を誇った大分運転所のC57は幸崎電化で一気に数を減らし、ヨンサントウのED74転入でついに2輛(17・53)を残すのみとなってしまった。 1523レ 日豊本線大分〜高城 S44(1969)/4/29 【地図1】

 南延岡行の車内から何気に撮ったこの位置は、大分川橋梁を渡り終えて右側に下郡信号場を見、2本めの跨道橋にさしかかった所である。よく見ると線路左側、道路を跨ぐ鉄橋の橋台が出来上がっているのがわかる。新大分川橋梁に接続する新しい路盤はまだ工事は始まってはいないが、DF50が走る現線路からはかなり北側に建設されることになるようだ。大分川橋梁架け替えプロジェクトは着々と進んでいたのであろう。 日豊本線大分〜高城 S44(1969)/8 【地図2】

 大分川は湯布院盆地から下流域へ東向きに流れ、大分平野から別府湾へ注ぐ一級河川である。河口から約4kmの位置に日豊本線豊肥本線2本の橋梁が架橋されている。20系“富士”の行く日豊本線の大分川橋梁は大正3年の建設で老朽化が進み、架け替え工事が急がれていた。撮影時は橋脚の工事が進み、やがて3本めの鉄橋が姿を現すようになるが、完成はこの時から1年半後の昭和46年3月であった。 一級河川大分川の標識と旧大分川橋梁 S44(1969)/10/6 【地図3】

 昭和45年8月は大分川右岸に新鉄橋の橋台が姿を現し、川の土手から旧鉄橋へは近づけなくなっていた。ちょうどこの時は橋桁落下事故の後で、事故現場の写真となってしまった。煉瓦のピーアとプレートガーダーの美しい鉄橋が姿を消すのは心残りであった。 23レ“彗星” 日豊本線大分〜高城 S45(1970)/8

 昭和44年8月に車内から見えた道路橋は画面右側のそれで、新しい築堤と路盤は撮影時完成したばかりであった。新橋梁はまだ未完であるが旧橋梁と新路盤はどの辺りで仮接続されていたのだろうか。画面からわかるのは道路橋まではコンクリート構造、手前側は盛土の築堤と思われる。長い貨物列車を牽く罐は煙突と給水温め器に金帯の装飾を施しているのでD51485〔延〕とわかる。長物車に国鉄バスを積んでいるのが印象的。 565レ 日豊本線大分〜高城 S45(1970)/10 【地図4】

 昭和46年2月12日 大分合同新聞 記事全文
 生まれ変わる老朽鉄橋─日豊線─  順調に進む新設、改修 「大分川」も来月完成
 日豊線の各鉄橋は明治末から大正時代の初めにかけて同線が建設されて以来の古い鉄橋が多く、老朽化のため、通過する列車は徐行運転しなければならない。分鉄局ではこれらの老朽鉄橋の改修と新鉄橋の建設を進めていたが、県内主要鉄橋である大分川、駅館川両鉄橋の工事が三月に完成、すでに山国川鉄橋は新設鉄橋を使用しており、これで大野川鉄橋を除き、主要鉄橋は全部、生まれ変わる。残った大野川鉄橋も三月から新鉄橋建設工事にかかり、四十八年に完成する見込みで、やっと幹線にふさわしい鉄橋となる。
 日豊線の鉄橋は大野川以北については大正三年ごろまでに建設されたもので、すでに六十年前後を経過した老朽橋ばかり。このため橋脚や橋ゲタがもろくなっており大分川、大野川両鉄橋をはじめ主要鉄橋を通る列車は軒並み四十キロ以下の徐行運転を行っていた。山国川鉄橋については複線化工事と合わせてもっと早くかけ替え工事を行い、四十四年末から新鉄橋に切り替えていた。
 四十五年度工事として始められた大分川鉄橋のかけ替え工事は昨年八月、橋ゲタ部分の工事で下請け作業員二人が死亡するという事故があり、一時、工事が中断していたが、鉄橋本体工事はすでに完成し、現在、軌道敷き工事にはいっている。このまま順調にいけば三月十六日に新旧両鉄橋の切り替えが行われる見通し。
 また昨年十一月から工事が始められた駅館川鉄橋の橋ゲタ改修工事も三月末には終わる見込み。同鉄橋は全部で十四基ある橋ゲタのうち強度の弱っている九基を新しい橋ゲタと交換するもので、完成後は大分川鉄橋とともに徐行運転区間の指定からはずされる。
 三月から新鉄橋の建設にかかる大野川鉄橋は長さ四百十メートル、鉄橋そのものの強度は特に問題ないが、川の流れの変化によって橋脚の基底部が洗われるため危険になるという。このため、いまでは同鉄橋に洗掘計という記録装置を取り付けており、橋脚が掘り起こされるのを自動的に観測、近くの鶴崎駅に記録装置が設置されている。工費約五億円をかけるこの新鉄橋工事は四十八年八月をメドとしており、この工事の完成で、日豊線主要鉄橋は近代的でスマートな列車にふさわしい鉄橋にやっと生まれ変わることになる。

 コンクリートで固められた新しい軌道を幸崎行小運転列車が行く。まるで新設路線のようだ。3月に新旧鉄橋の切替えが行われているので、晴れて新線を快走する構図である。この時の撮影意図は夕方の幸崎運用が大分のハチロクか、熊本のキュウロクか、確かめるためであった。69680〔熊〕は高崎第一からの転属車で煙突の短いのが特ちょうであった。ヨ+客車2輛の編成は今もって謎のままである。 69680〔熊〕の牽く幸崎行1591レ 日豊本線大分〜高城 S46(1971)/7/25 【地図5】

 新大分川橋梁への高城側アプローチ部を見る。日豊本線と奥に見える豊肥本線との間隔が広くなっているのがわかる。この間隔の間に旧大分川橋梁の橋台が残っている。新線を行く列車は佐伯発大分行でC5717〔大〕が牽いて来た。大分運転所のC57は1仕業2輛配置であったものを予備機をC58に置換え、C5753は46年3月に若松へ転出した。唯1輛のC57となったC5717もこの年の10月には宮崎へ行くこととなり、この夏はC5717〔大〕大分時代最後の夏の記録となった。 1532レ 日豊本線大分〜高城 S46(1971)/7 【地図6】

 大分川下流側に3本めとなる新大分川橋梁が完成し、列車はこれまでの速度制限から開放されて轟音を轟かせて渡る。新鉄橋は下路式のプレートガーダーなので車輛の下回りは見えなくなり、迫力に欠けるのは残念であった。日に一度だけ見られるC57牽引の列車を待つも、この日はC58124〔大〕の代走であった。 1523レ 日豊本線大分〜高城 S46(1971)/9/25 【地図7】

 豊肥本線側、上流方から大分川橋梁を見る。3列の橋脚が整然と並んでいる。 7レ 日豊本線大分〜高城 S46(1971)/9/19 【地図8】

 大分川橋梁へ向かう日豊本線豊肥本線が大きく袂を分かつ位置から下り貨物列車を見る。旧大分川橋梁時代は日豊・豊肥各線がほぼ等間隔で進んでいたが、下流側に架けられた新大分川橋梁へ取り付くのに大きな弧を描いている。日豊旧・新線の接続はこの位置と思われる。川の土手へは16‰勾配というのがわかる。 D51567〔延〕の牽く1593レ 日豊本線大分〜高城 S47(1972)/4/22  【地図9】

 新大分川橋梁から高城寄り道路橋の橋台を見る。旧橋梁の石積みから頑丈なコンクリート仕様に強化されている。直見〜直川間ひと駅だけ貨物列車に客車1輛をつないだ営業列車(4592レ)が設定されていたが、まさにその光景を彷彿させる構図となった。 D51361〔延〕の牽く1592レ 日豊本線大分〜高城 S47(1972)/5/2 【地図10】

 C57115〔大〕牽引の佐伯行が大分電車区脇を快走する。電車区の群線が開き始めるこの辺りから日豊本線も左曲線から直線コースとなる。線路は石積みされた築堤の上にあり、この辺りが線路移設の東側の接続位置ではないかと思われる。 1523レ 日豊本線大分〜高城 S47(1972)/4/23 【地図B】

 日豊本線豊肥本線各大分川橋梁の間隔を見る。この間に旧大分川橋梁が架設されていたが、新橋梁はかなり下流側に架けられたのがよくわかる。旧橋梁のピーアはこの時期撤去が終わっていた。豊肥本線を行く列車は下郡(信)から出てきたC58277〔大〕牽引の8輛編成の回送であった。手前の信号は下郡(信)の場内信号機である。西日を浴びた煙の流れは蒸機終焉間近を思わせる哀愁の構図となった。 豊肥本線下郡(信)〜大分 S47(1972)/5/3 【地図11】

 大分川左岸から下郡(信)方を望む。新鉄橋西側の1スパンはトラスが架けられている。真正面は旧鉄橋の橋台の位置と思われる。接近する上り列車はヘッドマークも誇らしげな9輛編成の“青島”である。 404D 日豊本線大分〜高城  S47(1972)/8/31 【地図2】

 ワーレントラスを間近で見る。構造はよくわからないが、プレートガーダー橋にアングル材で組んだトラスのカバーを載せただけのようなまるで模型の橋に見えてくる。豊肥本線の鉄橋を朝の通勤通学列車が渡る。 725レ S47(1972)/8/11

 朝もやの中、幸崎発別府行の2ユニット8連が行く。新鉄橋は下回りが隠れるのが難点であった。橋脚は6本を数えることができる。 2544M 日豊本線大分〜高城 S47(1972)/10/9 【地図13】

 県道寄りの土手から宮崎行貨物列車を見送る。川の堤防に接続する築堤はかなりの高さがある。D51の牽く宮崎行貨物列車は高架上を走っているように見える。  591レ 日豊本線大分〜高城 S47(1972)/5/27 【地図14】

 土手から続くコンクリート壁の真新しい築堤は県道の立体交差まで続く。逆向C58112〔大〕の牽く回送列車は下郡信号場で発車を待っている。夕刻の通勤通学列車を日中留置の大分電車区へ迎えに来て大分へ戻る途中のひとコマである。 下郡(信) S47(1972)/5/31 【写真15】

 下郡信号場側から日豊本線を見る。電車区入出区線と日豊本線の間はかなり広く開いていて、旧線の道床が真ん中に見える。この下を横切る道路から上を見上げると確かに3本の鉄橋が架かっていた。ED76の牽く回送列車は豊肥本線へ合流し、急行“青島”は日豊本線の、それぞれ大分川橋梁を渡る。 下郡(信) S47(1972)/8 【地図16】

 附属編成3連だけの大阪行“べっぷ1号”が下郡信号場で出区待ちしている。小倉で博多からの基本7連の“つくし1号”と併結し10連で大阪へ向かう。手前に日豊本線の線路が見える。 クハ455-22〔門ミフ〕 下郡(信) S47(1972)/6/11

 国道の跨線橋から大分川の土手にかかるアプローチ部を俯瞰する。日豊本線豊肥本線、各大分川橋梁の間隔の広さが実感できる。正面に見える2線を跨ぐ架線ビームは幅が広がって3線分の長さがあるように思える。 D51714〔延〕の牽く591レ 日豊本線大分〜高城 S47(1972)/8/31 【地図17】

 川の土手、旧線跡から大分側を振り向くと、正面に2線を乗越える国道が見え、そこから2線は間隔を開けて土手へ向かってくる。下り貨物列車は左に大きく迂回しているように見える。旧線は一直線に土手に向かい、まるでつい最近、線路を剥したばかりのように道床とバラストはくっきりと残っていた。 D51361〔延〕の牽く1593レ 日豊本線大分〜高城  S47(1972)/8/31 【地図18】

 国土地理院地図空中写真閲覧サービス 大分 昭和50年から
 大分川左岸から始まる日豊本線(上)と豊肥本線(下)2線の間隔の開き具合は空から見てもよくわかる。右岸の下郡信号場から分岐する豊肥本線、写真16で見える日豊本線電車区入出区線との間隔も一目瞭然といえる。

 国土地理院地図空中写真閲覧サービス 大分 昭和41年から
 新鉄橋架け替え前は日豊本線豊肥本線2線の線間は狭く、まるで複線のように架橋されている。