転轍器

古き良き時代の鉄道情景

中山宿


 昭和49年初夏、磐越西線中山宿駅に降り立つ。当時この地の知識など何もなく、只見、日中線のC11を撮った帰りに案内人に従ってこれも初めて見るED77を撮るためであった。後年趣味誌でここで奮闘したD50の雄姿を見るたびにこの駅で下車したことを思い出す。磐越西線は郡山〜喜多方間が昭和42年に電化され、訪れたこの時は481系“あいづ”、453系“ばんだい”を始めとして気動車とED77牽引の客車列車が走っていた。スイッチバックは立野や呼野を知っていたが、ここは電化路線で通過列車は駅に入らずスルー運転のできる構造は驚きであった。また電気機関車が長い客車編成を後進させる光景も深く印象に刻まれている。 磐越西線中山宿 S49(1974)/6/16

 ED77は亜幹線用に設計され、その試作機として磐越西線電化の2年前にED931として誕生した。仙山線等で試験の後量産形が登場し、試作機のED931はED77901とナンバーを変えられている。この年の春下関でEF66901を見ていたので、試作機ナンバーのED77901の意味をすぐに理解することができた。ED77901は屋根上に独特のドームが載っていて遠目で見ても量産形と違うのがすぐにわかる。 ED77901〔福〕 中山宿 S49(1974)/6/16

 ED77901〔福〕はモーターを唸らせて急坂を登ってきた。今来た道をはるか下方に見て高度を上げて行く。中山宿スイッチバックは蒸機時代、磐越西線管理所(会津若松)のD50が活躍した名所と知ったのは撮影後ずいぶん後のことだった。 磐越西線中山宿〜沼上(信) S49(1974)/6/16 

 勾配途上の線路端を歩いているとけっこう列車がやって来たように記憶している。気動車急行に遭遇、電化区間ではあるが気動車も走るのか、と思いつつ礼儀の一枚を撮る。後で調べてみて列車は新潟発上野行急行“いいで”とわかる。上野〜新潟間は上越線で約330㎞、磐越西線経由では約420㎞の距離となり、気動車急行“いいで”はこの420㎞を走破する超ロングラン急行であった。東北本線は山形編成“ざおう”と併結して走る。気動車急行全盛期の一場面を切取れたのは今改めて幸運をかみしめる。 1104D“いいで” 磐越西線中山宿〜沼上(信) S49(1974)/6/16 

 磐越西線のED77は旅客は単機で、貨物は重連で運用されていたようである。ここで見た貨物列車は最後部に車掌車や緩急車が連結されてなく違和感を感じたものだ。車掌車は機関車次位に位置し、たぶん磐越西線の線形によるものであろう。この角度でED77を見ると同じ中間台車のあるED76よりはずいぶん短い車体長と感じる。 ED7711〔福〕+ED772〔福〕 磐越西線中山宿〜沼上(信) S49(1974)/6/16 

 磐越西線中通りと呼ばれる郡山盆地から奥羽山脈のかすかな切れ目を進んで高度をかせぎ、中山宿から一気に猪苗代盆地に駆け上がるように敷設されている。ED775〔福〕牽引の郡山発会津若松行1235レは引上線から25‰上り勾配の山越えにかかる。 磐越西線中山宿 S49(1974)/6/16 

 下り列車が駅からスイッチバックの引上げ線へ後退している。手前に建つのは上り場内信号で、通過列車と停車列車への合図を送る。その先に短いホーム状の設備が見える。撮影時は使われている気配はなかったが、たぶんここでタブレット授受が行われていたものと思われる。

 勾配途上の本線から駅を見下ろす。本屋の横に並ぶ2棟の建物は何だろうか。木造は用品庫?石造り風は油庫?中山宿の開業年月は明治31年7月とのこと、たまたま撮った写真は何かを語りかけているのだろうか…。

 駅の上の本線は25‰の勾配であった。駅のホームは電柱、駅名標、植込み、待合室がレイアウトされて古き良き時代の鉄道情景といえる。