転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大分運転所のC58



 C58は丙線区向けの客貨両用の機関車として昭和20年代久大本線豊肥本線に投入されていた。久大本線豊後森に、豊肥本線は宮地に配置されていたが運用の合理化で昭和24年大分へ集約されている。宮地のナンバーは21・33・34・47・48・423・424・426・427の9輛、豊後森のナンバーは59・80・105・112・115・276・277・350・351・420の10輛で大分へ統合された時点で19輛の多きを数えていた。400番台のナンバーは戦後形で船底形テンダーが特徴であった。
 昭和31年4月は久大本線に投入されたD60の稼働が始まり6輛(21・33・34・47・48・80)が他区へ移動し13輛となる。昭和39年3月はいち早くディーゼル化が行われ 一気に8輛(59・276・351・420・423・424・426・427)が転出し、わずか5輛(105・112・115・277・350)となってしまう。この5輛は昭和41年10月の大分国体の際、お召し本務機、予備機として整備される。この時に美濃大田からC58185が応援に駆けつけている。追って昭和42年10月の幸崎電化時に高松から124、和歌山から224が転入、門デフC58群の中に普通デフの罐が加わり、124は背の高い変形デフで異彩を放っていた。昭和46年まで7輛体制で推移するも、C57の転出による補充として米子から86が、新見から262が転入し9輛体制で豊肥本線無煙化を迎える。昭和47年3月に旅客、6月に貨物のDL化が完了し112と277を除く7輛は廃車、112は6月に、277は10月に志布志に渡っている。
 105・112・115・277・350は大分で約23年間在籍し、豊肥・久大・日豊の各本線で活躍した。

C58105
 C58105は昭和13年汽車会社で落成、豊後森を経て大分へ転属してきたのは24年12月であった。以降、豊肥本線無煙化後の47年7月に廃車されるまでの23年間を大分から移動することなく在籍したナンバーである。「門鉄デフ物語」(関崇博著/ネコパブリッシング/平成21年7月刊)によると前方先端下寄りに角度のついた独特のスタイルの除煙板を装備する貴重な罐ということを知る。 S47(1972)/2/11

C58112
 C58112は昭和14年に汽車会社で落成し直方に配置されるも、その後各地を転々とし豊後森に落ちついたのは昭和20年であった。24年12月に大分へ転属後、47年6月の豊肥本線無煙化まで大分で活躍する。その後277とともに志布志古江管理所に移り志布志線が最後の場となった。C58112の除煙板は先端が斜めにカットされ、下部一直線のタイプで105とは形態が異なっている。 S44(1969)/5

C58115
 C58115は昭和14年汽車会社落成、20年豊後森、24年12月大分配置で他の105・112・277・350と同様の動きで、豊肥・久大・日豊の各本線で47年7月の廃車まで大活躍した。105・350とともに大分で廃車されている。除煙板はK-7と呼ばれる幅の広いタイプである。 S45(1970)/9

C58 124
 C58124は昭和42年10月高松機関区からの転属機で、大分運転所C58の中ではシールドビームと「ダンボの耳」と呼ばれた大型変形デフ装備の異端車であった。煙室扉ハンドル・シンダエプロン・標識燈(右側の筒型)とその掛位置も分鉄配置の機関車とは仕様が異なっていた。 S44(1969)/10/4

C58224
 昭和42年、日豊本線幸崎電化の際に大分電車区が開設された。これにともない大分~下郡(信)間に回送運用が発生し、高松からC581214、和歌山から224が転入し大分のC58は従前の5輛から2輛増えて7輛配置となった。当時、電化で蒸気機関車が増えるのは皮肉な現象と思ったものだ。余剰のC57を使わなかったのは豊肥本線運用のかねあいからであろうか。C58224は124とともにシンダエプロンの形状と煙室扉ハンドルの形状が分鉄形とは大きく異なっていた。ランボードに沿って引かれているのは蒸気暖房管と思われるが、旅客のバック運転は大分~下郡(信)間と昭和44年9月まで行われた豊後荻~豊後竹田間の回送があった。 S45(1970)/6

C58277
 昭和47年5月5日こどもの日、玖珠町で開催される童話祭のPRにイベント列車のはしりともいうべき“おとぎ号”が別府〜豊後森間で運転された。牽引機のC58277は大分運転所で入念に整備されてスハニ35改造の教習車オヤ3352を従えて出区を待っていた。フロントデッキのカメラは車内で前面展望を鑑賞するためで、この時代にしてはかなり凝った企画であった。C58277は大分に長期在籍した5輛のうちの1輛で、最後は112とともに志布志古江管理所へ転出した。 S47(1972)/5/5 

C58350
 C58350は昭和18年豊後森に新製配置されて以来47年6月に廃車になるまで豊肥・久大・日豊の各本線を守って大分に君臨した機関車であった。除煙板のステイは同じK-7タイプでもさまざまな形状があるのが確認できる。磨き出しの煙室扉ハンドルが輝いている。 S44(1969)/5

 C58262
 大分運転所のC58は昭和45年時点では7輛体制が続いていたが、昭和46年5月に米子よりC5886が、9月には新見よりC58262が加わって2輛の増加をみている。C5886は無稼動であったが、C58262は本線仕業に加わるようになる。新見時代の集煙装置を装備している姿を一度は見てみたかった。 S46(1971)/12/31 

 C5886
 昭和46年5月、米子機関区唯1輛の配置であったC5886が大分へ転属してきた。偶然扇形庫で見かけたが稼働した様子はなく、庫の外で見ることはできなかった。C58の転属には伏線があり、大分2輛配置のC57とのかねあいであった。昭和46年3月、C5753が若松へ、同10月、C5717が宮崎へ転出し、そのC57の補充としてC58が増備されたものと思われる。大分〜佐伯間の運用は以降C58が就くようになった。この時は大分のC57終焉と思われたが、DF50の予備機が必要で、電化前まで大分にいたC57115が再び宮崎から戻ってきた。 S46(1971)/8