転轍器

古き良き時代の鉄道情景

“日南4号”車窓

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 夜行“日南”の全盛時代、昭和40年代は10系寝台と座席車を連ねた、関西と宮崎を結ぶ花形列車であった。新幹線が博多まで開通した昭和50年3月、運転区間は九州島内に改められるも、編成はスハネ16やナハ10、オハ47等で組まれ未だ全盛期の面影をとどめていた。転機が訪れたのは昭和53年3月、驚くかな、座席12系+寝台20系の編成に衣替えし、12系と20系の連結面の高さの違いはまるで模型編成を見るようであった。ナハネ20とナハネフ22は12系と連結するため番号は1000番台となっていた。 ナハネフ221009〔鹿カコ〕

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 “日南4号”の運転区間門司港西鹿児島間で、宮崎~西鹿児島間は普通列車の設定であった。上り“日南4号”は2528レとして西鹿児島19:40発、都城21:37、宮崎から502レとなって23:09発、佐土原23:25-高鍋23:57ー日向市0:14ー南延岡0:33-延岡0:42-佐伯1:50-津久見2:11-臼杵2:23ー大分3:01着、ここで時間調整の長時間停車、機関車交換が行われる。再び大分4:18発、別府4:33-宇佐5:17-柳ヶ浦5:27-中津5:46-宇島5:54-行橋6:12-小倉6:40-門司6:58発、終着門司港7:06着のダイヤで運転されていた。 大分 S57(1982)/8/18

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 夜行“日南4号”はまだ明けやらぬ5時27分、柳ヶ浦に滑りこむ。照明塔に浮きたつブルーの車体、オハ12の車窓から闇に沈む柳ヶ浦構内を見渡す。かつては始発の客車編成が何本も並んでいたが、50系1本の他は421系電車に様変わりしていた。2番線の421系8連は4分後発の門司港・下関行522Mで、扉を開けて待機していた。 柳ヶ浦 S57/(1982)/8/18

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 すっかり明るくなって小倉6時37分着。先頭のナハネフ22から編成後部を見る。上り方から⑦ナハネフ22➅ナハネ20⑤スハフ12④オハフ13③オハ12②オハ12①スハフ12+スユニ50の8輛編成である。電源付のスハフ12は20系と12系それぞれの給電用に2輛が組み込まれていた。小倉駅のホームは、夜行列車の旅人にはあまり関係のない、朝の賑わいが始まっているように見える。 小倉  S57(1982)/8/18

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 小倉を出ると北九州独特の複雑な鉄道地帯に入り込む。車窓を流れるいく筋もの線路群を追って目は釘付けになる。いつのまにか複々線になって旅客列車は外側を走る。写真は東小倉のヤードが収束し、いよいよ門司操車場の入口にさしかかる赤坂海岸付近で、山側の国道3号線上を走る西鉄北九州線の電車が見える。 鹿児島本線門司~小倉 S57(1982)/8/18 

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 内側貨物線を行く長いセメントタンカーの編成に追いつく。門司操車場到着線の信号機が並ぶ。“日南4号”車窓からは操車場の貨車群、機関区の赤やシルバーの機関車群が目に飛び込んでくるともう門司構内である。門司6時47分着。 門司操車場 S57/(1982)/8/18

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 大分からの牽引機はED7686〔大〕で大分運転所配置のED76最終ナンバーである。ナハネフ22の急行サボと愛称名、号車表示の窓が写ったスナップは思い出のカットとなった。夜行列車としては短すぎる乗車時間で、かつての関西夜行列車の車窓ー関門トンネル、徳山コンビナート、瀬野八本松、尾道水道須磨海岸等ーで味わえた「旅情」は過去のものとなったことを実感する。