転轍器

古き良き時代の鉄道情景

小野屋駅の思い出

▮昭和45年

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 昭和45年夏、D60最後の活躍をフィルムに収めようと小野屋を訪れる。小野屋駅西側は大分川に合流する小川を渡る新連川橋梁と小野屋トンネルが見える絵になる場所であった。迎える列車は不定期の貨物列車で、来る、来ないは時の運、小雨降る中ひたすら待ち続ける。きょうは運休かと思った瞬間、トンネルから顔を出したのは何とD60ではなくてDE10、しかも次位にD60が付いているならまだしもDE10の単機牽引ときて愕然とした。DE10の練習運転たけなわの頃で、今もってこの構図がD60であったならと残念でならない。 DE101019〔大〕単機牽引の6691レ 久大本線天神山~小野屋 S45(1970)/8/14

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 小野屋駅河岸段丘の中腹の斜面を切り開いたような格好の地形に位置している。町の商店街からかなりきつい坂道を登って行くと猫の額のような駅前広場があり、その駅本屋の前を堂々と貨物側線が通っている。駅本屋へはその貨物側線を乗越えて階段をあがる構造になっている。通常、貨物側線は駅本屋とは反対側に設けられるのであろうが、小野屋は地形の関係でそうなったのであろう。貨物側線は上下本線とつながる1本と、東側貨物上屋に引込む短い2線が敷かれていた。写真は下り本線から貨車を牽き出して駅本屋前に続く側線に押し込むところである。駅前の農業倉庫は鉄道貨物輸送全盛期を物語る産業遺産といえる。 S45(1970)/8/14

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 小野屋駅へ立ち寄ってはみたが、駅舎の中や駅前の様子にカメラは向けていない。昭和45年のこの時は駅員の数も多く、ホームには入れず改札口から体を乗り出して通過する列車を撮った記憶がある。貨物列車が行った後は雨が強くなり、駅長は雨具を着て急行列車を見送っていた。偶然写った下りホームの看板は小野屋温泉の案内で、地元銘柄の清酒「銀蝶」の書体は郷愁をそそられる。 602D“由布1号”  S45(1970)/8/14

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 駅舎に掲げられた時刻表は写真に残っていないので、大方の雰囲気で作ってみた。昭和45年になると気動車の進出はめざましく、45年春の時点で客車列車は豊後森以東で3往復、豊後森以西では5往復までに減っていた。昭和45年10月のDL化に向けて前年よりDE10の練習運転が始まり、上り640レー下り1635レのスジでD60の前にDE10が付いて訓練運転が実施されていた。

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 小学校低学年時の昭和37年頃、小野屋駅の近くに居住していたので駅の様子はよく憶えている。子供ながら駅前に線路が通る光景は強烈な印象として残っている。そこで黒い貨車や黄色い日通の車を見、入換の様子を眺めていたことで“汽車”が好きになり、私の鉄道趣味の原点は小野屋駅ということになろうか…。

▮昭和38~39年頃

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 他界した父親の遺品から駅で撮ったスナップを発見する。D60が下り列車を牽いて小野屋を出たところである。D6067はいかつい形の大形デフを付け、給水温め器の装飾帯が光っていた。標識灯は円板が付き、リンゲルマン濃度計はこの時すでに装備されていた。後方の丘に上り場内信号機が見える。この時は腕木はひとつで従属の通過信号機は付いていないのがわかる。  昭和38年頃

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 昭和39年正月、小野屋駅下りホームの様子。後方に下り出発信号機、レールを組んだ跨線橋、その横に上り場内信号機が写っている。腕木2本が見え、通過信号機が設置されたのがわかる。小野屋駅の場内信号機に通過信号機が追加された時期は、この2枚の写真から昭和38年夏以降と推測される。貨物側線がある構内東側は何の障害物もなく、河岸段丘の下の川面が見えそうである。正月とあって留置貨車は皆無である。

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 本線から引き込まれた貨物側線の様子が良くわかる。ここに黒いワムが停まっていて、決まったように扉は開かれて中の積荷が見えていたのを思い出す。家族写真の後方に写った光景は古き良き鉄道情景が刻み込まれていた。  昭和39年正月

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 構内西寄りのスナップは転轍器標識が写っていた。青地の円板に白横ラインが見える時は進路は開通している、ということか。通信線電柱は枕木柵の色と比べると黒く見え、コールタール塗りたてのように思える。丘の上の建物は小学校で、そこへ通じる後方の坂道からは駅構内が見渡せる絶好の場所であった。 昭和36年

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 上の位置から少し右に振って撮られた写真に駅構内が写っている。下りホームの待合室が見える。構内西側上り方の上下本線はホームを外れてもしばらく収束せず、有効長が長く感じられる。上り線から右へ分岐する貨物側線の転轍器転換装置は「だるま」と呼ばれる機関区でよく見た装置が設置されている。農協の大きな建物が見え、手前の古い建物は「カクイ綿」や「菅公学生服」の琺瑯看板が列車の乗客に見える位置に付けられているのがわかる。 昭和30年代の駅風景がわかる貴重なネガを発掘した、といった思いを抱いている。 昭和36年

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 昭和39年の時刻表を見る。気動車列車は急行を除き由布院~大分間に1往復が設定されていた。当時この列車に乗車したことのある人から、「客車列車は長かったけどこの気動車列車は2輛編成だったように記憶している」。と聞いたことがある。急行“ゆのか”は上りだけの停車はどういう意図であろうか。上り628レは翌日611レで、上り632レは翌日615レでいずれも由布院からの折返しで逆行運転であった。また当時、機関車の汽笛は「ボーッ」と「ピョー」の2パターンがあり、最終の由布院行は決まって「ピョー」という寂しい音色が響きわたり、その機関車は8620という事を後年になって知る。朝2番の613レは豊後森始発で由布院で客車増結、D60が牽く10輛編成の通勤通学列車は圧巻であったにちがいない。

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 D6067とは写真を撮るようになってからたびたび会うようになった。昭和30年、D50228から改造されたD6067は久大本線で15年間働き、昭和45年10月のDL化で直方に渡り、47年6月に廃車されている。除煙板が小工式に取替えられ、標識灯も円板が無くなって、昭和38年時の写真とは印象が異なって見える。 大分運転所 S45(1970)/3

▮平成18年

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 時は流れ平成の時代、所用で近くを通った際に懐かしい小野屋駅に立寄ってみた。駅舎は窓と出入扉がサッシに変わった以外はあの頃の雰囲気を保っていた。正面、横長い階段の手前に貨物側線が通っていたのを思い出す。小野屋駅の開業は大正4(1915)年10月30日、私鉄の大湯鉄道で大分市~小野屋間が開通した時であった。大湯鉄道はその名の通り大分~湯平を結ぶ予定であったが、小野屋以遠はその後の国有化で大湯線(久大東線)として建設された。 H18(2006)/12/12 

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 小野屋商店街から駅へつながる細い道。商店街は大分川左岸の街道沿いに広がり、駅は河岸段丘の中腹に位置し、町から駅へはかなりの高低差があった。小野屋に鉄道が到達した大正年間、駅を中心に町は賑わい、東西南北から物資が集まる一大集散地であったと伝え聞く。昭和39年頃、駅前の大きな建物は今でいう喫茶店のような造りで、「汽車」に乗る大勢の人が待っていた、という話を聞いたことがある。  H18(2006)/12/12 

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 駅前の線路方向と同じ向きに建てられた農業倉庫。「農林省指定」の標記は政府米の保管倉庫であろうか。大湯鉄道は発電所建設資材や鉄道建設の資材を運び入れ、沿線産地の米穀や農産物、坑木等を発送していたと聞く。  H18(2006)/12/12

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 駅本屋側から東側、小野屋倉庫の反対側を見る。手前は空地になっていて何か建物があったのかもしれない。昭和39年頃の記憶では貨車から降ろした荷物を積む日通のトラックや三輪車が停まっていたのはこの辺りであろうか。 H18(2006)/12/12 

 

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上の写真の反対側にも倉庫が建っている。壁の漆喰は上塗りされて、何かの記号が書かれているが判別できない。 H18(2006)/12/12 

 

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 駅西側より東側鬼瀬方を望む。建物と道路の配置状況がわかる。本線下り鬼瀬方の切通しとそこに架かる跨線橋は昭和39年時の姿と変わっていないようだ。前出の阿南農協の大きな建物はこの位置の後方と思われる。 H18(2006)/12/12 

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 平成18年に訪れた際は、昭和38年頃撮影の写真は発掘前で対比させるような角度では撮っていない。下りホーム後ろの坂道の勾配は昔と同じように思える。道路は自動車が通れるように広くなっているようだ。駅の電柱に青地に白字の毛筆体の昔ながらの琺瑯駅名標が健在であった。 H18(2006)/12/12 

九州鉄道記念館

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 九州鉄道記念館に展示されていた通票閉塞装置。かつて見た小野屋駅の物とは同じかどうかは定かではないが、窓ごしに見えた赤い色、「チン、チーン」と音が鳴るのは克明に覚えている。 H30(2018)/10/14

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 九州鉄道記念館に展示されていた「由布院行」のサボ。茶色の客車に映える青色の標記。毛筆体の「由布院行」は何ともいえない味がある。〇オイの略号も懐かしい。 H30(2018)/10/14

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 九州鉄道記念館に展示されていた九州鉄道のスケネクタデイ8550形の模型。久大本線を走った機関車であろう、とカメラを向けてみた。大分庫には昭和6年、8550ー8輛、8620-22輛、9600-8輛、2120-2輛が配置されていた模様で、8550がいつまで稼働していたか定かではないが、久大本線が全通した昭和9年は8620が主流となったようだ。小野屋駅の熱き思いは私の知らない遠い時代までロマンを追い求める契機となった。 H30(2018)/10/14