転轍器

古き良き時代の鉄道情景

金田

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 29641〔直〕は継足しの無い短い化粧煙突、放熱管がランボードの下という独特のスタイルをしている。ホキ6800の編成から離れ、機回し線から上り本線に出てきたところ。下り場内信号機が建つこの位置からは広大な金田構内が遠くに見える。 伊田線金田 S48(1973)/3/31

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 発車シーンに見えるこの光景は、外浜から到着した空車のホキ6800編成を到着線から三井セメント専用線のヤードへ転線するため本線を塞いで引上げているところ。ワフの間のホキ6800は実に17輛つながっていた。金田駅常備のホキ6800はセメントクリンカ専用の三井セメントの私有車であった。 伊田線金田 S48(1973)/8/31

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 49688〔直〕牽引の上戸畑発船尾行専用貨物は金田で長時間停車の後、進路を糸田線へと進める。船尾発着、糸田線経由の石灰石編成はセラ1とセキ6000、ホキ8000で組成されていた。 5595レ S48(1973)/3/31

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 金田は石炭全盛時代の伊田線の要衝で構内の広大さに驚くばかりであった。本屋側ホームからはセラ群の列で見通しはきかないが、構内赤池寄りに三井セメント船尾工場からの専用線が入りホキ6800の留置線が広がっている。金田も後藤寺や伊田と同様石炭の集散積出し駅として栄え、そのために備えられた広大なヤードは今はセメント発送用として使われていた。

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 船尾行が発車する。右分岐で伊田線上り線へ出て、さらに右分岐で画面左側寄り糸田線へと歩を進める。本屋側伊田寄りに2線の貨物側線が引かれ貨物上屋も見える。「九州の鉄道100年記念誌鉄輪の轟き」(九州旅客鉄道/平成1年10月刊)に掲載された全盛時代の金田構内の写真を見ると、駅本屋側の配線は変わっていないことがわかる。

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 外浜からの空車返送5291レで11:45金田着の29641〔直〕は休む間もなく次の外浜行ホキ6800の組成作業に取りかかり5294レを仕立てる。駅本屋から離れたヤードから直接出発するので気づかないうちに出てしまう。しかもホキ6800の列が複数並んでいるのでこの位置から見るとどの列が動いているのか一瞬わからなくなる。12:56、外浜行5294レが滑るように動き出した。 伊田線金田 S48(1973)/3/31 

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 金田駅西部構内を見る。線路配置は手前から伊田線下り本線、中線、伊田線上り本線、糸田線、貨物副本線と並ぶ。その外側はセラ群の留置線、さらにその奥にホキ6800のヤードが広がる。往年の長大石炭列車のために駅構内の有効長は驚くほど長い。

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 伊田線の名前は明治42年10月の国有鉄道線路名称制定で直方~伊田間として定められた。開通年月を簡単に振り返ると、明治26年2月筑豊興業鉄道として直方~金田間開業、明治30年10月九州鉄道に合併の後の明治32年3月金田~伊田間開業で全通している。金田までは直方から飯塚までの開通よりも早く、金田からの運炭ルートの重要性が垣間見える。石炭全盛の遠い時代、毛細血管のように炭鉱や貨物支線からの石炭車は金田に集まり、直方の仕分線で若松、戸畑、門司へと送られて行った。前出の「鉄輪の轟き」に載った金田駅で出発を待つ60輛編成の石炭列車は直方の石炭列車仕分線の設計が1600㌧という事とあいまって想像を絶する石炭輸送の時代に思いを馳せる。 伊田線金田 S48(1973)/3/31