転轍器

古き良き時代の鉄道情景

留辺蘂

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 「るべしべ」ー何という名前、何という響きだろうか。聞いたこともない、どこにあるのかさえ知らなかったが、この駅に下車した理由は留辺蘂ユースホステルに泊まるためであった。夜行列車疲れで駅の印象は名前だけ強烈で後はあまり記憶に残っていない。コンクリート駅舎の屋根にこれもまた聞いたことのない「温根湯温泉郷入口」の看板が掲げられている。登別や洞爺しか知らなかった私はその後の北海道の知識として見聞が広まったと自己満足している。一葉の写真が記憶のよりどころとなっている。 石北本線留辺蘂 S49(1974)/9/12

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 駅舎から振り返って駅前風景を撮っていた。温泉郷へは駅からバスが連絡していたのであろうか。山間に位置する温泉地へは国鉄駅からバスや私鉄に乗換えて向かうといった所はあちこちで見られた光景と思う。

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 留辺蘂の構内は広かった。2面のホームと駅舎の間に貨物線があり、D51346〔北〕が入換を行っていた。 1591レ 石北本線留辺蘂 S49(1974)/9/12

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 北見行貨物列車は入換が終わり出発合図を待っている。ここ留辺蘂旭川と網走を結ぶ石北本線の駅ではあるが、鉄道建設の過程で複雑な歴史があることを知る。北見山地を越える新旭川遠軽間が開通するまで札幌から網走に向かうのは滝川、池田、北見を経由し、池北線は以前網走本線と呼ばれていたことを知る。その後オホーツク回りの名寄、遠軽留辺蘂、北見を通る名寄線、湧別線が建設され網走までの距離は若干縮まっている。北見から湧別まで建設される際留辺蘂は重要な結節点であったようだ。名寄ー遠軽ー北見の線形は網走に向かって直進で、その後新旭川からの石北線が北見側から遠軽に接続したため向きを変える必要が生じ、遠軽スイッチバックの理由を改めて知った。

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 札幌から網走まで3通りの道程を顧みる。根室本線、網走本線経由で483.8㎞、名寄、遠軽経由で464.3㎞、石北線経由で374.5㎞と大幅に短縮されている。手持ちの昭和31年の時刻表を開くと函館発網走行列車が設定され約16時間を要していた。大正末期名寄線が全通した際は名寄、遠軽経由で函館網走間は約29時間を要していたようである。昭和49年の時刻表では函館発網走行特急“おおとり”は10時間で結んでいた。留辺蘂駅での写真をきっかけに遠い時代に触れられたことは何よりの収穫であった。ただ蒸機を撮ったあの時代から46年、年をとったからであろう、遠い時代にロマンを感じるようになった。