転轍器

古き良き時代の鉄道情景

電車特急“みどり”の不思議

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 昭和42年10月は日豊本線幸崎電化が開業した時である。当時私は汽車好きの小学校6年生、形式は後年知ることになるが、客車はドームがスマートな動輪3つの機関車(C57)、貨物はこぶが2つ、動輪4つの機関車(D50)の牽く列車を中津駅で見ていた。ある日それらの機関車の頭に赤い電気機関車(ED76)が付いたいわゆる電蒸運転や、初めて見るクリームとブルーの電車(581系)の試運転に遭遇、鮮明な記憶として残っている。生まれて初めて見た電車に憧れを覚えるのは当然のことであった。

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 日豊本線電化の目玉は何といっても「世界で初めてのオール寝台電車」と絶賛された581系のデビューであった。夜は寝台特急“月光”で新大阪~博多間を、昼は座席特急“みどり”として新大阪~大分間を走り運用効率の向上を図り注目を浴びた。大分鉄道管理局発行の記念リーフレット581系と423系があしらわれていた。
 新製ED76形電機機関車18輌と423系(クハ421-26・モハ422-13・モハ423-13)52輌での電化スタートで、かろうじて無煙化は達成できたものの翌年のED74転属まではDF50の残留は余儀なくされたようである。

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  時刻表昭和42年10月号(日本交通公社)から
昼行“みどり”と夜行“月光”は寝台をセットするか否かで同編成ということがわかる。堂々12輌編成、栄光の1M、2Mが与えられている。輸送力は電化前のキハ80系“みどり”(佐世保編成と分割)と“いそかぜ”(宮崎編成大分落し)の合計で変動はない。

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 中津市で電化開業を迎えた鉄道少年は翌年、「ヨンサントオ」の1ヶ月前、昭和43年9月、大分市の中学校に転校していた。新天地は通学路から電車基地が見える絶好のロケーションであった。直線距離にして約1キロは離れていたが遮る物は何もない一面田圃の広がる空間で、通学時間は新大阪行2M特急“みどり”の12輌編成のクリームとブルーの長い車列が待機しているのが見えた。毎日の通学時、あの斬新なツートンカラーの編成を遠目ではあるが、確認して登校するのが日課になっていた。ところがある日、あのクリームとブルーの編成がクリームと赤の編成に変わっていた。その日だけの変則かと思いきや、来る日も来る日もクリームと赤の「こだま形」という電車で、二度とあのクリームとブルーの寝台電車は見ることができなくなった。ある日突然のことでとても不思議であった。後に知るその日は10月1日で、昭和43年10月ダイヤ改正は華々しくデビューした581系日豊特急はわずか1年で485系に置換えられてしまった。何故なのか、鉄道少年の心は傷ついてしまった。

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 時刻表昭和43年10月号(日本交通公社)から
 残念ながらこの改正で“みどり”は485系11輌編成となった。581系ではモノクラス11輌(内自由席4輌)、485系に変わって2等車8輌(内自由席3輌)1等車2輌の布陣は輸送力、サービスの観点から改善されたといえるのだろうか。この改正は581系583系に進化し増備が行われ“明星”・“金星”・“つばめ”・“はと”に投入された。運用効率から“みどり”は置換えられたのであろうが、九州西側と東側の路線の格の違いを思い知らされる。
 何も知らなかった少年時代、ある日突然の581系から485系の交代劇はエポックを画する出来事であった。