転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大分交通別大線

f:id:c57115:20201118125742j:plain

 別大線の電車は豊州電気鉄道が九州では初めて、日本では5番目の明治33年に5月に別府(南町)~大分(堀川)間が開通し、35年4月南新地(竹町入口)まで延伸した。明治39年1月豊後電気鉄道、大正5年4月九州水力電気となった後の大正6年7月に外堀まで、8年2月に大分駅前まで達している。春日浦の海岸線沿いに軌道を移設し、大正10年4月大分駅前から新川が、11年3月新川~かんたんが開通して別府湾に沿う線形ができあがった。それに伴って堀川~かんたんは大正14年12月に廃止され、新川車庫が開設された昭和4年7月、堀川車庫への引込線も廃止された。
 別府側の延伸は大正11年11月別府桟橋まで、昭和2年7月別府大分電鉄となった後の4年5月に境川、5年12月亀川新川、全線の亀川駅前まで到達したのは17年3月であった。前後するが、境川まで達した昭和4年5月は枝線となる北浜~別府駅前が複線で開通している。この時大分駅前~かんたん、東別府駅前~別府桟橋も複線化が完了し、境川までは複線で開通した。別府桟橋まで延伸した大正11年11月は同時に当初の起点であった別府(南町)までの線形が新線に付替えられている。
 昭和20年4月、別府大分電鉄は耶馬渓鉄道・豊州鉄道・宇佐参宮鉄道・国東鉄道と合併して現在の大分交通となった。31年10月別府駅前支線廃止、33年2月、国鉄大分駅駅舎改築と駅前道路整備に伴って軌道の移設が行われた。車輌の投入や施設の拡充で発展を遂げるかに思えたが、昭和40年代はモータリゼーションの波に押し流されるように各鉄道線が廃止され、軌道線別大線もその例外に漏れることなく昭和47年4月を迎えることとなった。 

f:id:c57115:20201122063332j:plain

 別大電車開業の明治33年が如何に早いかは国鉄線(当時は鉄道院)が別府、大分に達した明治44年(別府7月・大分11月)からすれば一目瞭然で、11年以上前のことであった。明治33年での九州西側を見ると九州鉄道が筑豊唐津炭田の一部と三角・八代・早岐・浦上までが開通しているに過ぎなかった。西日本鉄道の前身、福博電気軌道(福岡市内線)は明治43年3月、九州電気軌道(北九州市内線)は44年6月の開業から見ても突出して早く、当時の別府温泉の存在は絶大なものであったと想像する。
 ちなみに日本の市内電車は①京都電気鉄道(明治28年1月)、②名古屋電気鉄道(明治31年5月)、③大師電気鉄道(後の京浜急行明治32年1月)、④小田原電気鉄道(明治33年3月)と続き、豊州電気鉄道が5番めであった。

f:id:c57115:20201118130147j:plain

 大分駅前には「高崎山別院前まで電車で20分ーただいま100匹ー」の案内を掲げたおさるの看板が目を引いた。100形は8輌在籍し、正面の大形ヘッドライトと深い屋根、大きなパンタグラフが特ちょうの昭和初期製の重厚なスタイルをしている。左に見えるのは昭和31年製の500形で7輌が活躍している。電車は大分駅前を出ると竹町通ー官公街勧銀前ー新川ー浜町ー春日浦ー王子町ー専売公社前ー西大分ーかんたんの順に進み、ここからは別大海岸のシーサイドコースとなる。 107 大分駅前 S44(1969)/4/29

f:id:c57115:20201118130259j:plain

 別大電車がきょうで終わりなど全く信じられなかった。竹町通電停はかんたん行、亀川行電車が続行し活気に溢れている。大分駅方面へは200形がごお~んごお~んと音をたてて通り過ぎて行く。それよりも大分バスと大分交通バスが数珠つながりに通りに溢れ、あすからの電車に変わる主役を主張しているようにも見える。電車通り両側の建物と広告看板は懐かしさがこみあげてくる。 竹町通~官公街勧銀前 S47(1972)/4/4

f:id:c57115:20201118130404j:plain

 昭和38年製の1101は4台車の2輌固定の連接電車。番号は前後とも同じでAとBが振分けられ、亀川向きがB車であった。塗装はグリーンとクリームの電車群の中でオレンジとクリームの塗分けは独特の存在であった。国鉄気動車色にも似て好感の持てるカラーリングであった。架線柱の「南蛮菓ざびえる」の広告看板が目をひく。軌道はこの先、大分港の引込線と並行し大きく右に曲がって専売公社前に至り、そこで大分港臨港線と平面クロスする。 1101 春日浦~王子町 S47(1972)/4/3