転轍器

古き良き時代の鉄道情景

思い出の風景 大分交通別大線

 私が出会った路面電車の書籍は各地で撮影された写真はもちろんであるが、巻頭のプロローグで語られた言葉に読む人それぞれの思い出や忘れえぬ情景が浮かんでくるのではないかと魅了される。「わが心の路面電車」(小林茂著/プレスアイゼンバーン/平成1年6月刊)は『かつては、この国にも路面電車は各地に沢山走っていた。町ばかりではなく、野にも山にも海辺にもその姿が見られた。』と綴られ、「故郷の風景 路面電車」(神達雄著/トンボ出版/平成5年4月刊)は『人にはそれぞれ心に描く故郷の風景があり、東京生まれの人には、そこに都電が走り、私の心の風景には、別大電車がゆったりと走り続けています。眼を閉じて浮かぶ故郷には、それぞれの電車や汽車が走っています。』と別府市出身の著者が語っている。「鉄道ジャーナルNo.53」(鉄道ジャーナル社/昭和46年9月号)所収「日本の路面電車」からは『国際観光都市別府と大分を結ぶ都市間電車の別大線は、別府毎日マラソンのテレビ中継にときおり顔をのぞかせており、別府湾ぞいの専用軌道を走る姿は国鉄の列車からも見られる。』と、それぞれの記述を読むと私の思い出の風景がこみあげてくる。

 

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 パンタグラフ側の大分寄りマスクは丸いおでこから引き紐が出て表情が少しちがう。張り上げ屋根の上に見える一直線のラインは雨樋のようだ。正面窓の上、両サイドの突起は100形に付いていたのと同様で国旗差しかもしれない。迫る山側から見える別府の街並みは思い出の構図となった。 203 別院前~両郡橋 S47(1972)/4/4

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 200形は昭和24年日立製作所で別大線初の総括制御車で製作された。製造当初はポール集電方式で落成時の写真を見ると、トロリーポールがフロントから突き出たインターアーバンここにありの凛々しい姿であった。ヘッドライト下にジャンパ栓受が見える。 202 仏崎~田ノ浦 S47(1972)/4/4

 

 ■鶴崎延伸の話
 歴史に“もしも”はないが、「大分県史近代編」(大分県/昭和61年3月刊)に別大電車の鶴崎延伸の話を見つけたので、その“もしも”について思いを巡らせてみたい。別大電車は豊州電気鉄道によって明治33年5月に開業したが、その後の経営は明治39年1月豊後電気鉄道に継承され、大分~鶴崎間の電気鉄道延長の特許を出願している。国道使用の諮問に対して、設備、車輌、電力供給の不備を理由に国道使用は不認可の答申がなされている。

 もし鶴崎延伸がかなっていたら本線との分岐はこの昭和通り交差点であろう。南北方向の本線から東向きにデルタ線が敷かれ、運転系統は大分駅前から高城駅前・鶴崎駅前行が、また亀川駅前と鶴崎駅前の往復もあったであろう。線名は大鶴線であろうか。鶴崎までは4つの川があり大分川を越える舞鶴橋は両岸の勾配がきつい。高城駅から先は土佐電気鉄道伊野線のようなイメージの単線、専用軌道で乙津川を渡って鶴崎駅前に至る。鶴崎駅前ロータリーで折返し電車が待機する光景を想像する。「もしも」の物語は楽しく膨らむ。

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 大分交通別大線の車輌は大分駅前、昭和通り交差点、別院前、白木、仏崎、田ノ浦、両郡橋で撮影していた。車輌32輌のうち100形は106・110以外6輌、150形は151・153以外6輌、200形全車、300形301、500形505、1000形1001、1100形1102の計20輌と出会うことができた。思い出のナンバーとして心に刻んでおきたい。