転轍器

古き良き時代の鉄道情景

さようなら宮原線号 大分舞鶴高校34回生文化祭

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 宮原線廃止まであと1ヶ月となった昭和59年11月は奇しくも豊後森機関区開設50周年の月であった。50周年の式典に備えて再塗装されてきれいになったキハ0741の写真を撮り終えて、さあ次の列車までどう時間を潰そうかと思案していた矢先にヘッドマークを掲げた列車に遭遇し固唾を飲む。ブルートレインゆうづる」のヘッドマークに見えたその編成は宮原線に入ると聞きチャンス到来、惹き寄せられるように出撃体制が整った。 久大本線豊後森~恵良 S59(1984)/11/1

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 無我夢中で列車の追跡を始める。この得体の知れない列車のことはまだ何もわからない。ただ通常単行の宮原線にこのような長大編成が入れるというのも驚きであった。まるで「ゆうづる」のヘッドマークだ。 久大本線豊後森~恵良 S59(1984)/11/1

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 久大本線恵良~引治間は宮原線分岐点まで2本の線路が並びまるで複線の様相を呈する。宮原線久大本線と離れると雄大にカーブした上路プレートガーダーの玖珠川橋梁を渡る。 宮原線恵良~町田 S59(1984)/11/1

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 宝泉寺で再び追いつく。ここで列車の正体がわかった。乗客は皆高校生で廃止になる宮原線に乗ってみたかったと窓越しに話を聞いた。何とこの列車は高校生が企画した「さようなら宮原線号」だった。
 大分県大分舞鶴高校34回生の文化祭は「宮原線を楽しむ旅」企画でキハ58系6連のイベント列車を走らせた。列車両サイドは異なったヘッドマークを掲げる演出は、列車運用と共に鉄道ファンの仕掛け人とイベントにたけたアイデアマンがいたものと感じられた。また請け負う分鉄局もホロ枠に設けられたヘッドマークステイからもわかるようにかなりの熱の容れようと思われる。肥後小国側のキハ581007〔熊クマ〕は「さようなら宮原線」のタイトルで宮原線6駅を連ねた鉄道地図記号のイラスト入マーク、豊後森側キハ58557〔分オイ〕はローマ字高校名と34回生を表す34と「鶴」のイラスト入マークが付く凝りようであった。 宝泉寺 S59(1984)/11/1

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 キハ58の車番と向きは連続写真から判明した。

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 鶴が舞う「MAIZURU34」の手製のヘッドマークが輝く。列車は宝泉寺を出ると標高670mの高原をめざして高度を稼ぐ。素晴らしい車窓風景を満喫するにちがいない。 宮原線宝泉寺~麻生釣 S59(1984)/11/1

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 車内の楽しそうな笑顔が伝わってくる。高原の風を受けて走る6連の急行形編成は最後の宮原線を彩る惜別の画となった。 宮原線麻生釣~北里 S59(1984)/11/1

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 「さようなら宮原線号」から何と37年の歳月が経っていた。撮影時の私は三十路前、乗車の34回生は五十路に達しているだろう。順番に並べた数本のネガは情熱の追跡劇が残り、遠いあの日がついこの間のような錯覚に陥る。 宮原線麻生釣~北里S59(1984)/11/1

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 笑顔と歓声を乗せて列車は小国盆地へと踏み入れる。肥後小国駅の場内信号機が歓迎のサインを出している。 宮原線肥後小国 S59(1984)/11/1

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 往路の旅を終え生徒たちは小国町散策へ出かけたのだろうか。肥後小国駅ホームは短いが編成が収まる構内は十分な有効長が確保されている。キハ581007は長大編成対応車で昭和41年10月、鹿児島に新製配備された。前面パノラミックウインドウのタイプは1100番台のようだ。 宮原線肥後小国 S59(1984)/11/1

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 「MAIZURU34」を掲げた豊後森側先頭車はキハ58557で反対側のマスクとは架線注意標識や手摺り、ジャンパ栓受やタイフォンカバー等若干異なっている。昭和39年9月に大分に新製配置されて以来「分オイ」一筋の車だったようだ。 宮原線肥後小国 S59(1984)/11/1

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 サボも特製があしらわれていた。この時だけだったのか、廃止時に数多く運転された惜別臨時列車のために作られたものなのか、この区間の営業列車は存在しなかっただけに貴重な逸品であろう。

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 帰路につく「さようなら宮原線号」は肥後小国を後にして沿線名物の竹筋橋を渡る。彼ら彼女らの見た車窓風景は思い出の構図として刻まれていることだろう。 幸野川橋梁 宮原線北里~肥後小国 S59(1984)/11/1

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 町田川の河岸段丘を行く。宮原線復路の行程もあと少し。 宮原線町田~宝泉寺 S59(1984)/11/1

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 陽が傾きかける頃「さようなら宮原線号」は復路最終コースを辿っていた。文化祭でこの旅を企画した大分舞鶴高校34回生の皆さんにエールを贈りたい。 久大本線鬼瀬~向之原 S59(1984)/11/1