転轍器

古き良き時代の鉄道情景

構内立ち入りができなかった若松機関区

 昭和45年の夏休みは初めて筑豊に足を踏み入れる。心踊らせて若松機関区の門をたたくも、事故防止のため構内の立入は曜日と時間を定めて制限しているとのこと、遠路から申し訳ないが出直してほしいと告げられ、構内に駐機する機関車を指をくわえて見るだけで退散するしかなかった。

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 門司鉄道管理局総務部広報課長名の文書を機関区事務所で渡される。前年の鉄道少年の事故は報道で知っていたかどうか記憶は定かではないが、ここまで厳しいとはと泣く泣く機関区を後にした。今改めて読み返すともっともな文面であり、「折角訪れる方の心情を察すれば忍びないものがあります」の譲歩で次のスケジュールが救われる結果となる。当局のせめてもの心意気であろうか。 「動力車区の見学ならびに機関車の撮影について」のB4文書左側

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 当時中学生の私は注意事項3が該当し、今後の機関区での対応は数人を集めて機関区の助役や構内掛同伴で撮影を行ったように記憶している。SLブーム加熱のこの時期は撮影者のモラルや安全意識が問われた時でもあった。 「動力車区の見学ならびに機関車の撮影について」のB4文書右側

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 駅へ向かう道の枕木柵の間からC553〔若〕が見えた。残念ながら廃車された後で本線上を駆ける元気な姿を見ることは叶わなかった。C55は昭和44年の配置表では3・15・19・46・51・52・53・57の8輌が揃っていたがこの時は3・15が退いて6輌体制になっていた。 若松機関区 S45(1970)/8/3

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 転車台の向こうは廃車されたシールドビームのD50231〔若〕が置かれていた。D50は90・140・205・231の4輌が配置されていたがこの時の稼働機は90と140だけだったようだ。手前に転車台のおもしろい形の操作室と電動機が写っている。 若松機関区 S45(1970)/8/3

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 D50140〔若〕は蒸気をあげ今にも動きそうな鼓動が伝わってくる。逆光に浮かぶ前照灯と化粧煙突、砂箱がやけに大きく感じる。元柳ヶ浦のD5090〔若〕に会いたかったが本線仕業に出ているのであろうか。 若松機関区 S45(1970)/8/3

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 庫の中はC5557〔若〕が見える。C5557は大分から宮崎を経由せず直接若松へ移動している。この後C5552と共に吉松へ渡り肥薩線吉都線日豊本線で蒸機時代の最後を飾っている。 若松機関区 S45(1970)/8/3

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 若松機関区のキュウロクはデフレクタが無い罐ばかりであった。そのかわりフロントデッキに大きな手摺りが付いて入換仕業に都合の良い措置であろう。 49693〔若〕 
S45(1970)/8/3