転轍器

古き良き時代の鉄道情景

泉都別府の玄関口 別府駅

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 別府駅日豊本線ではあるが、豊肥本線久大本線の急行や普通の始発終着駅でもあって列車密度は高く、次から次へと特急・急行・普通の電車や気動車が入っては出て行く、忙しくそして賑やかな駅である。中線2線は熊クマと分オイの12系6連2編成が置かれ、高架6線が列車で埋まる光景は壮観であった。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 上りホーム4番線は大分発小倉行3514M“ゆのか4号”が到着。この編成はクモハ+モハ+クハの3連3ユニットのモノクラス9輌編成であった。3番線は三角発別府終着の703D“火の山5号”7輌編成が入線中。“ゆのか14号”発車の後、“火の山”編成は亀川始発の豊後竹田普通列車となるため亀川へ回送される。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 “火の山5号”編成は普通列車へ変身、愛称サボは裏返しに、行先は「亀川→豊後竹田→大分」に差し替えられていた。キハ65の折り戸片側の窓が塞がれているのに気づく。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 下りホーム2番線は別府発西鹿児島行505D“日南5号”のアイドル音が響いていた。長駆西鹿児島から504D“日南4号”で北上してきた編成は2時間後に再び来た道を南下する。 キハ5855〔分オイ〕 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 “日南5号”2号車はキハ6513〔分オイ〕。車体はユニットサッシと2枚戸の出入口、上回りはユニットクーラー、下回りはよくわからないが空気ばねの台車、エンジンや冷房用電源装置らしき床下器具がとても格好良く見える。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 下り方の配線を見る。別府から大分寄りは日豊・豊肥・久大各方面の折返しが多数あるため、下り出発信号機は3基設置されている。上り線からの折返しは5番線(3番ホーム)で行う配線に設計されている。中線2線は5番線から下り線への渡り線から分岐しているのがわかり、留置線からの列車引上げは本線を塞いでしまう配線となっている。後年、列車本数が増え、本線を塞ぐ留置仕業は不可能となり別府発着の留置は亀川へ変更となった。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 2編成の12系客車が中線に留置されている。下りホームの駅名標と海ぞいに建つ泉都別府の象徴、別府タワーが見える。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 別府市街の高架線から海側は別府湾と高崎山が、山側は鶴見岳と温泉街の湯煙、別府大仏が望めた。12系は手前が熊クマ車、奥が分オイ車の各6輌編成。

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 別府駅の高架化は日豊本線複線化工事と併せて昭和41年9月に完成している。当時としては画期的な構想の民間商業施設を併設した「民衆駅」として誕生した。九州では門司・西鹿児島・八幡・小倉・博多・戸畑に次いで7番目の民衆駅となった。国鉄の旅客収入番付(昭和42年データ)は、(1)博多(2)熊本(3)小倉(4)西鹿児島(5)長崎(6)大分(7)宮崎(8)別府(9)佐世保(10)久留米と並び泉都別府は観光地の面目を保っているように見える。当時「ハネムーンは九州へ」の流れで急行“ことぶき”を始めとしてオールA寝台車、グリーン車の専用列車が数多く九州入りしていたようだ。別府の留置線はそれらの団体専用列車用として設けられたものと思われる。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

 別府の交通を振り返ると、豊州鉄道が南下をめざすも国有化され別府に鉄道が到達したのは明治44(1911)年7月で、別府港開港から40年後、豊州電気鉄道の別府~大分間軌道線が開通してから11年後のことであった。瀬戸内航路で栄えた別府は鉄道の開通により新たな湯治客・観光客が格段に増加し、北九州からは炭鉱王も訪れるようになったと聞く。