転轍器

古き良き時代の鉄道情景

鹿児島電化 昭和45年10月1日

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 昭和45年10月1日、鹿児島本線熊本(操)~鹿児島間200.6kmの電化が完成し、鹿児島本線全線の電化が完了した。これで青森から鹿児島までが電化でつながることとなり、鹿児島鉄道管理局は「熊本~鹿児島電化記念・日本縦貫電化完成」と「さようなら蒸気機関車」の2つのタイトルで記念入場券が発売された。秋に消えるハドソン達の最後の雄姿を見に行きたかったが、遥かなる南国への旅は時刻表上での話であった。西鹿児島駅に依頼して郵送してもらったように記憶している。

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 裏面:C61形式テンダ機関車/貨物列車用D51形を旅客列車に改造した機関車です。太平洋戦争中は貨物重点の輸送でしたが、戦後は旅客輸送に重点が移ったため、貨物列車用機関車が余って旅客列車用機関車が足りなくなりました。このために33両をこれに改造しました。昭和33年に登場した鹿児島初の特急 「はやぶさ」を牽引した当時の花形機関車です。

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 裏面:C60形式テンダ機関車/C59形機関車(幹線用)を準幹線用に改造したものです。これは線路の構造上、その上を走る線に適応するよう、機関車の車輪がレールにかかる重さ(これを軸重といいます)を軽くする必要があったからです。C59は173両製造されましたが、これからC60に改装した両数は47両です。

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 裏面:C57形式テンダ機関車/均整のとれたスマートな容姿をもつ、いわば美人機関車です。C55形を改良したもので、201両製造されました。

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 裏面:D51形式テンダ機関車<愛称デコイチ>/貨物列車用に作られたもので、耐久力・引張力・姿の3拍子そろったわが国の傑作機関車といわれています。製造両数は1,100両をこえ、戦前・戦後を通じて実質的に同形のものが、樺太、台湾にまで渡っています。国鉄の貨物用蒸気機関車の主力を成しており、むかしから重用しています。

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 裏面:B20形式タンク機関車/この機種は、太平洋戦争中の極度の機関車不足を補うため、資材を極度に節約し、製造工程もごく簡略化して作った戦時設計形の機関車です。戦争末期から終戦直後までを通じて15両つくられました。この10号機関車は昭和21年に製造されたもので、現在は構内入換機として専用しています。
 ビーコロちゃん/この写真のB2010は、B20という種類で10号機関車です。小さくて、かわいい機関車ですので「ビーコロ」と呼ばれています。いま日本で1台しか使われていません。写真は、大きなC55とC12機関車があと押しして走るとこです。

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 記念入場券が4枚入った切符袋は門デフC6113の牽く列車と桜島、ヤシの木がデザインされている。C6113は昭和25年3月、D511115から改造されて鳥栖に配備、その後鹿児島へ移動している。

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 切符袋の裏面には西鹿児島駅のスタンプが押され、うれしいサービスが行われていた。

 電化の4ヶ月前、中学校の修学旅行で鹿児島本線西鹿児島から宇土まで乗車する機会に恵まれた。何という幸運だろうか、これで見たことのないC60とC61に会えると確信していた。当時は何の情報もなく列車の進行方向右側の席から対向の次々と現れるであろうハドソン達を撮ろうと意気込んでいた。結果は次から次に現れたのはD51の貨物列車ばかりで、ハドソンに会えなかった理由は何だったのか、今改めて当時の趣味誌を開きながらその原因を探ってみることとした。

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 C60とC61の配置は表の通りで電化前も昭和44年時点のナンバーと変化はなかった。昭和43年からの変動は東北本線青森電化でC6016・18が鹿児島へ、C6017が熊本に転属している。16と18は煙突両脇に小形デフが付いた東北装備であった。熊本の2輌は定期運用はなく臨時列車に運用されるとのことで“しろやま51号”等を牽いていたのかもしれない。

 C59から47輌が改造されたC60は東北本線28、常磐線8、鹿児島本線11輌の内訳であった。鹿児島は昭和35年から36年にかけて11輌が配置され、以降常磐線電化で鳥栖と熊本に各2輌が移り、昭和38年時点で鳥栖6、熊本2、鹿児島7の15輌が活躍していた。
 D51から改造されたC61は東北本線18、常磐線9、鹿児島本線6輌の内訳であった。昭和23年から24年にかけて鳥栖に6輌が配置され、31年11月に全機鹿児島に転属し電化までそのナンバーは変わることはなかった。C6113だけ前方に傾いた独特のスタイルのデフレクタを装備していた。

 西鹿児島から乗車した上り修学旅行臨時列車と相対する鹿児島本線下りの時刻表を区間ごとに区切って作成したのが以下の表である。

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 川内~鹿児島間の時刻表。黄色はC60の牽くスジである。修学旅行臨時列車は湯之元で“あかつき1号”と交換しているのでその時刻から逆算して西鹿児島は8:30頃の発車と思われる。川内からと出水からの客車列車は発車した後と思われる。複線区間になった木場茶屋串木野間で憧れのハドソンとすれちがう。後で現像してその機関車は東北装備のC6016〔鹿〕とわかる。幸先良い出会いだったのでこの後も当然期待がふくらむ。(赤い印は撮影できた交換列車)

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 湯之元で下り特急“あかつき1号”と出会う。9時頃と思われる。 21レ S45(1970)/6/4

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 初めて見るハドソンC60!ほんの一瞬であった。 荷43レ S45(1970)/6/4

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 出水~川内間の時刻表。修学旅行臨は西方で“そてつ1号”、阿久根で“霧島”と交換する。駅間の所要時間からしてC61の牽く127レとは高尾野ですれちがうのではないかと思われる。しかしネガは折口でD51貨物、次は出水での“有明”しか写っていない。肝心なハドソンを逃していることに気づく。ここは単線区間なので対向列車は必ず駅構内である。撮リ損なったという記憶もないので席についていなかったかもしれない。残念の極みである。

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 DPEのプリント写真なら気動車D51貨物の交換としか見えないが、PCでスキャン画像を拡大すると列車間にもう1個列車キハ58の顔が写っている。“そてつ1号”がそれである。駅本屋は画面左側、修学旅行臨は1番線、D51235〔出〕の下り貨物列車は2番線で退避、下り急行“そてつ1号は”画面右側3番線を通過する。 西方 S45(1970)/6/4

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 阿久根1番線で“霧島”の通過を待つ。 S45(1970)/6/4

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 次の折口でD51貨物と交換する。ホームに乗車待ちの人が見える。ということはこの先間違いなく旅客列車とすれちがうことになる。それはC61の牽く鳥栖西鹿児島行127レで間違いない。列車は出水に接近するので出水機関区が列車進行方向の左右どちら側にあるのか、そればかりに気をとられていたような気がする。 S45(1970)/6/4

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 宇土~出水間の時刻表。八代を過ぎ千丁で“はやぶさ”と交換する。12:50頃であろう。ここは複線区間で、宇土到着までにC60の牽く133レとは松橋辺りですれちがうのではないかと思われる。しかしこれも記憶がなく、ネガも“はやぶさ”が最後であった。車内では降車時の注意とバス乗換えの説明が行われていたのかもしれない。またもや逃した獲物は大きい。改めて時刻表を辿って行くとハドソン3本を仕留めることができる行程であったが、結局約5時間の乗車でC601カットだけの結果となった。私にとっては忘れられない邂逅となった。

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 跨線橋工事真っ盛りの千丁で“はやぶさ”と会う。このまま構えてしばらく待てばC60の牽く鳥栖西鹿児島行133レと会っていたかもしれない。 S45(1970)/6/4

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 電化前は熊本機関区のD51が荒尾~鹿児島間を、出水機関区のD51は熊本(操)~鹿児島間で運用されていた。修学旅行臨で北上中、次から次へと出会う貨物列車に圧倒され、両区のD51達の活躍が見られたのはとても幸運であった。熊本・出水のD51は電化後以下の転属が成されている。
  熊本機関区 176・222・482→南延岡/272・1026→厚狭/655→横手/546・547→酒田
  出水機関区 541→南延岡/94・453・536・589・714→吉松/206・542→若松/235・592→厚狭
 D51はかなりの数が次の働き場所へ移動しているが、C60・C61は適応できる線区がなかったからか全機廃車されている。しかし翌年、奥羽本線電化でC61が宮崎転属の報を聞いて首をかしげてしまう。それなら何故鹿児島のC61を使わなかったのかとても疑問であった。

 かくして鹿児島電化は鹿児島機関区にED76-36輌(内2輌は大分から転属)、鹿児島運転所に457・475系が投入されて昭和45年10月1日スタートした。