転轍器

古き良き時代の鉄道情景

西鉄北方線の思い出

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 西鉄北方線は全線を二度乗車したことがある。今振り返れば二度とも乗車の動機は、終点にある市立北九州大学がらみということに気づく。
 まず一度目は昭和48年3月、高校3年生になる春休みであった。筑豊の蒸機最終の時、田川線の変則3重連を始めとして、伊田線後藤寺線日田彦山線筑豊本線をめぐる遠征計画を立て、その宿泊をどうするか思案していた。クラスの級友T君が「それなら北九州大学に行っている兄が春休みで帰省するので、その空いた部屋に泊まれば」との、まさに棚からぼたもちの誘いで大喜びした。残念ながら暗いうちに帰り、朝夜明け前に出て行ったので連接車にカメラは向けていない。複線の軌道線は終点で1線に収束し、北方は寂しい所だった印象が残っている。魚町からは小倉祇園太鼓像を横目に小倉駅へ速足で向かったような気がする。
 二度目は昭和51年の秋、市立北九州大学に通う友人U君から北方のアパートに招かれた時であった。この時は魚町から歩いて、まるで異国へ迷い込んだのではないかと錯覚した「旦過市場」の独特な雰囲気に呑み込まれてしまった。旦過橋から終点北方まで乗り、北方の夜は盛大な歓待を受ける。当時はまだ焼酎ブーム到来前、独特な香りの芋焼酎“白波”で洗礼を受け、そのあての「豚足(とんそく)」は見た目そのままの驚きの姿、北九州発祥と云われる「焼きうどん」に感銘を受ける。西鉄北方線終点北方の印象はこれらのテイストと連接車が連動して刻まれ、今に至っている。
 その後、撮影できなかったあの北方線を撮りに行きたいと思っていたが日々の忙しさに追われ、ついに廃止の昭和55年11月を迎えてしまった。結局、いつか行こう、後で行こうは叶ったためしはなく、この繰り返しを重ねてきたように思う。

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 昭和53年頃の北方線を中心とした小倉付近の鉄道模様は上図の様であった。日豊本線上りの車窓は南小倉を過ぎると俄然線路が増えて小倉工場や小倉西部に留置された車輛群を見るのが楽しみで、この時西小倉は日豊本線の駅であった。鹿児島本線沿いは門司操車場、東小倉荷物センター、浜小倉コンテナ基地を見て、以東北九州工業地帯に沿った貨物ヤードが延々と続いていた。西鉄北九州本線は小倉の繁華街を東西に横切り、魚町は狭軌の北方線乗換え、大門で戸畑線が分岐していた。北方線はビルの谷間を南下すると、小倉城内の各方面への門があったとされる香春口、国道3号線から10号線が分岐する九州随一と言われた交通量の多い三萩野交差点に差しかかる。日豊本線をアンダークロスして小倉南区に入ると新興住宅街が開け、国立病院や区役所、自衛隊駐屯地、競馬場、大学や高校の最寄りの北方車庫前、北方一丁目と続き、終点北方に至る。

 未練が残る北方線の連接車の写真は大分市の田口雅延さんから提供いただき、私のおぼろげな思い出話は貴重な記録とともに花を咲かせることができた。

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 連接車の331形は昭和32年から39年にかけて製造され、331AB~343ABの13組が在籍していた。正面の角張った車体が独特であった。 343AB 北方線三萩野 S55(1980)/10/27 撮影:大分市 田口雅延さん

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 343AB 北方線北方一丁目~北方 S55(1980)/10/27 撮影:大分市 田口雅延さん

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 341AB 北方線北方 S55(1980)/10/27 撮影:大分市 田口雅延さん

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 336AB 北方線北方一丁目~北方 S55(1980)/10/27 撮影:大分市 田口雅延さん