日豊本線と豊肥本線が離れる場所に造成された車輛基地は大分電車区で、昭和42年7月に発足している。豊肥本線上に設けられた下郡信号場から分岐しヤードが広がる。地元の人は「下郡の電車基地」と呼び、地域の場所説明の際は「でんしゃきち」の左右、東西と目印となる施設として親しまれてきた。鉄道少年の私は「電車区」という名称の割りにヤードに滞留するのはぶどう色の客車ばかりでいささか不満ではあったが、その客車の送り迎えはC58が担っていたので、まあ良しとしていた。
留置線に並ぶスハフ42とオハフ33の2本の編成は急行列車のようで臨時“べっぷ51号”かもしれない。 大分電車区 S47(1972)/6
開設時は仕業線2、客留線6、洗浄線1のコンパクトな配線で、模型レイアウトには恰好の題材ではないかと思う。配置は421・423系だけで後に南福岡から457・475系が来て少し賑やかになる。留置線と洗浄線はその後拡張されていった。
跨線橋から留置線方を俯瞰する。折しも回送客車を連れてきたC58277〔大〕が単機で戻るため機回しを行っているところ。のどかな田園風景の中に突如として車輛基地ができたことがうかがえる景色だ。 大分電車区 S47(1972)/9/15
回送列車のダイヤなど知る由もないので日々聞こえてくる蒸機の汽笛から自分なりの大方の時刻表を作っていた。単機でやって来たC58124〔大〕が回送客車に連結され発車を待っている。この景色だけ撮って満足し、この場を立ち去っている。 大分電車区 S44(1969)/4
賑やかな留置線風景。C58124〔大〕は配給車代用貨車と回送客車を従えて待機している。回りは電車急行“ゆのか”、急行“日南”増結用の寝台車、423系の顔も見えて活気を感じる基地風景を捉えていた。 大分電車区 S47(1972)/5
当時は時計を持っている訳もなく、日豊・豊肥本線が別れる下郡信号場近くまで自転車を走らせて何か列車が来れば、信号場に列車が居れば撮る、といった撮影スタイルであった。ネガに刻まれた車輛は常に偶然の出会いからであった。421系とED76が並んでいた。 大分電車区 S44(1969)/6
ヘッドマークが取付けられていないクハ481の編成はたぶん“みどり”と思われる。分岐器ナンバーが標記された入換信号機が写っている。「接触注意」標識も見えてこの位置は留置線の始まりということがわかる。 大分電車区 S44(1969)/8
ED7627〔大〕が寝台急行“べっぷ3号”を牽いて客留線に据え付ける。 大分電車区 S45(1970)/3
“べっぷ3号の”寝台車群が車列をくねらせて大分電車区客留線に入って来る。門司からの牽引機はED7618〔大〕であった。 回6217レ 大分電車区 S44(1969)/4
仕業線で待機する421系の方向幕は蛍光灯の光りでよく判読できないが、幸崎を出しているように見える。仕業台の上はパンタグラフ点検のためか「切」、「入」の表示ランプが点灯していたのを思い出す。 大分電車区 S45(1970)/3
新大阪行“べっぷ1号”は475系付属3連だけの編成であった。小倉で博多からの基本7連“つくし1号”と併結して10連で山陽路を走る。一度だけこの列車に乗車したことがあるが、3連だけなので超満員だったのを覚えている。 回8204M 大分電車区 S45(1970)/8
日没前、大分発博多行“ゆのか4号”の回送がテールランプを灯して出区する。 回1506M 大分電車区 S45(1970)/8
回送客車が全て出て行った後は475系、421系各1編成が佇む。 大分電車区 S45(1970)/9
画面右側、客留線6番から11番線は客車編成で埋まり、申し訳なさそうに間に挟まったクハ421の顔が見える。迎えに来たED76は機回しを終え前パンで出発を待っている。 大分電車区 S48(1973)/4/8
下郡信号場入出区線の両渡り線付近から左曲線で編成を傾けるD51485〔延〕の牽く貨物列車を見送る。日豊本線と豊肥本線から分岐した下郡信号場の線群は完全に独立しているのが良くわかる。 591レ 日豊本線大分~高城 S48(1973)/4/8
日豊本線を行くD51456〔延〕の貨物列車。後方に大分電車区の留置線、信号てこ扱い所の建物が見える。 日豊本線大分~高城 S49(1974)/3