転轍器

古き良き時代の鉄道情景

小野屋駅と庄内駅のこと 昭和37年の記憶

 昭和37年の秋から翌38年春までの約半年間、小学校1年生であった私は学校へ通うのに汽車に乗らなければならなかった。学年途中で家を転居したが転校手続きができなかったので以前の学校まで3駅間の汽車通学となった。朝の登校は小野屋駅から庄内駅まで、下校はその逆向きである。時刻表復刻版から自分が乗車したのはどの列車かを探ってみた。

 乗車列車は黄色、後で話が出てくる列車交換のことは緑色で示している。登校は大分発鳥栖行618列車に小野屋から庄内まで、下校は終業時間に応じて鳥栖発大分行621・623列車と思われる。何分小学1年生、よくこのような冒険ができたと思う。朝の小野屋駅は通勤通学の大分行と同時刻なのでこの列車に乗る親に連れて来てもらい、1年生が乗る上り列車にいつも乗車している行商のおばさんにこの子を庄内駅で降ろしてほしい、と頼んでいたかもしれない。行商のおばさん達はたくさん乗っていたような記憶がある。行きは機関車のドラフト音が庄内駅に着くまで響き渡り、帰りは機関車は絶気で無音、客車のジョイント音だけが聞こえていた。

 車や道路が整備されてなかったあの時代、移動手段はみな汽車であった。人々は朝の下り大分行611列車は「いちばん(1番)」、613列車は「にばん(2番)」、上り最終の由布院行632列車は「しゅうれつ(終列)」と呼んでいた。由布院行632列車の汽笛は「ピョーッ」という頼りない音で、他の列車の「ボーッ」とは明らかに違っていたのを子供ながらに聞き分けていた。後にわかるのはD60と8620の違いであった。

 庄内駅から小学校へ行く途中に踏切があり、そこに2基の腕木式信号機が建っていた。小野屋駅のそれは1基だけなので不思議でならなかった。場内信号機が2基あるということは副本線があり、上下列車の他にもう1本の列車が退避できる配線である。上記時刻表から由布院~大分間で列車交換が行われる駅を探ってみた。当時は天神山と賀来以外は全て交換可能駅であった。旅客列車だけに限ってみると湯平2回、小野屋3回、向之原5回、南大分2回の列車交換が設定されていたが庄内は皆無であった。庄内は貨物列車との交換と他の駅ではできない貨物列車の追抜きに使われていたのではないかと想像する。

 後年何度か訪れた両駅のスナップから当時を思い浮かべる。扉のD6063は乗車列車の窓から対向列車の機関車を他の乗客に遠慮しながら撮ったもの。 南大分 S44(1969)/8

 庄内起点方を見る。“タウンシャトル”のキハ53が入って来る。残念ながら3番線はきれいに無くなっていた。 H2(1990)

 庄内終点方を見る。“タウンシャトル”キハ40が到着。下りホームの向こう側に見える空間はかつての3番線跡だ。 H3(1991)/2

 木造駅舎健在な頃。雪が舞う日の“タウンシャトル”キハ40単行。 庄内 H3(1991)/1

 同級生から聞いた話。伯父さんが庄内駅長で赴任した昭和40年前後、夏休みと冬休みになるときまって庄内駅の駅長官舎に行って過ごしていた。駅前は賑やかでバス通りがあり、商店や医院があって何でも揃っていた。汽車の汽笛は朝から晩まで聞こえていた、とうらやましい話であった。幼い私が乗り降りした遠い時代に思いを馳せる。 庄内 H3(1991)/1

 駅西側は保線区が置かれていた。民営化後もその広大な敷地と建物は残っていた。 庄内 H3(1991)/1

 かつてのバス通りであった踏切から庄内駅上り場内信号機を見る。昭和37年頃は踏切の少し先、画面左側に腕木式信号機が2本建っていた。 庄内~天神山 H30(2018)/6/3

 列車の先に見える体育館が件の小学校である。線路は小学校の校庭を巻き込むように敷かれていた。D60の上り列車は25‰の上り勾配、しかも校庭に沿う右曲線に続くSカーブを苦しそうに喘ぎながらゆっくり進む光景が脳裏に焼きついている。 庄内~天神山 H30(2018)/6/3

 庄内駅下り場内信号機。蒸機時代も同じ位置に腕木式信号機が2本構えていた。駅前のバス通りは駅の両端で線路を渡る配置で、当時のメイン通りはこんなに狭かったのかと痛感する。 湯平~庄内 H30(2018)/6/3

 副本線3番線はいつ頃撤去されたのだろうか。下り線分岐の先で3番線が分岐していたものと思われる。 湯平~庄内 H30(2018)/6/3

 夕方の大分発上りの通勤・通学列車は1輛だけ「庄内行」のサボを付けた庄内落しの車輛があった、と聞いたことがある。輸送力と勾配、牽引定数の関係からとのことであったが、その客車を留置するスペースが考えられなかったのでその話はにわかに信じられなかった。しかしこの写真にその話は本当だったという痕跡が写っていた。下りホームに欠き取りが見える。ここに客車1輛分の側線があれば、上記時刻表の上り626もしくは628列車の1輛目をこの側線に入れ、翌日の下り611もしくは613列車の最後尾に側線から引き出した客車を連結できる。同一編成に「庄内行」や「由布院行」、「豊後森行」などのサボを持ったハコが並んだら楽しいだろうなと思いは膨らむ。

 大分駅第4ホーム(6・7番)は豊肥本線久大本線の発着ホームで用品棚にはさまざまなサボが置かれていたにちがいない。オハ35やオハフ33のウインドシルに下げる鉄板は国鉄書体のすみ丸ゴシックでも毛筆書体でも似合うと思う。「庄内行」はこのようなスタイルをイメージしてみた。裏側は「大分行」なのは言うまでもない。

 小野屋駅の窓越しに見える赤い通票閉塞装置が印象に残っている。駅長さんが受話器を耳にあてた姿、機械から聞こえる「チン、チーン」の独特な音、指差し確認で信号梃子を倒す姿勢等、さまざまな場面が記憶にある。汽車通学に慣れてきた頃、庄内から乗車した列車が小野屋駅ホームに入り速度が落ちてくると客車から身を乗り出した乗客達は停車するのを待ちきれなくて飛び降りる姿を見ていた。自分も大人の真似をして飛び降りたところ推進力が働いて転んでしまい、以後気をつけるようになった。 小野屋 H2(1990)

 自動車が普及していなかったあの時代、朝は時間をかけて歩いて駅に辿り着き改札を通って汽車に乗る。晩は駅舎からたくさんの人が出てきてそれぞれの家路につく。昭和37年頃の駅模様である。汽車が見える所で遊んでいた私はそのような景色を見ていたような気がする。 小野屋 H3(1991)/1

 小野屋駅ではよく汽車見物をした。機関車が2台つながった列車や逆向きで行く列車、戦車が積まれた長物車の貨物列車などが記憶にある。汽車が通らない時間帯は駅前の貨物側線に置かれた貨車を見ていた。画面右側、ホームの植え込みの向こうは貨物側線が引かれ、農産物を積んだ通風車、馬や牛が載った家畜車が並んでいた光景が思い出される。 小野屋 H3(1991)/1

 小野屋トンネル手前で上下線が分岐するのはあの時のままだ。貨車入換を行う機関車はトンネル手前まで出て行ってまるで発車してしまったのか、と思う場面もあった。経年で辺りの様相は一変している。踏切が立体交差になったこと、スプリングポイントになったこと、転轍小屋が無くなったこと、人の姿を見かけなくなったこと等年月の経過を実感する。 小野屋 H3(1991)/1