転轍器

古き良き時代の鉄道情景

西唐津界隈 鉄道全盛時代に思いを馳せる

 「スーパーマップル8九州道路地図」(平成14年刊)から
 昭和58年4月、筑肥線は東唐津スイッチバックしていた線形が改められ福岡市営地下鉄との相互直通運転に伴って姪浜唐津間が電化された。同時に唐津線唐津西唐津間も電化され西唐津103系電車の車輛基地へと変貌をとげた。平成14年の道路地図では西唐津の臨港線と大島までの線路が記載されていた。

 冷蔵車が並んでいたヤードは筑肥線電車の洗浄線が設けられていた。 H24(2012)/7/22

 近代的な管理棟と電車検修庫は煉瓦の矩形庫があった辺りに建てられたものと思われる。 R5(2023)/3/1

 電車留置・仕業線からさらに奥に進むと気動車検修庫と仕業線が見えてくる。 R5(2023)/3/1

 道路地図の「大島通り」交差点付近。いかにも機関区の裏側の雰囲気が出ている。ドラム缶は制輪子の山。唐津興業鉄道が山本~大島間を開業した時、西唐津は妙見の駅名で地図上では“妙見町”の地名が載っている。 R5(2023)/3/1

 上写真のフェンスの切れ目からちらりと転車台が見える。後方の住宅は大島へ向かう路盤に沿って建っている。 R3(2021)/7/25

 唐津鉄工所の煉瓦の建物が残されていた。工場跡地に建設されたホームセンターの屋上駐車場から駅方向を見る。工場内に敷かれた線路跡が見てとれる。 R5(2023)/3/1

 駅舎と反対側、海寄りの鉄道用地の一部は宅地と道路に転用されていた。重厚な煉瓦の建物はひときわ目を引く。 R5(2023)/3/1

 鉄工所の敷地がいかに広大だったのかがよくわかる。跡地は公共施設や商業施設に再開発され、画面左上から右下に続く鉄道用地の一部は宅地化され車輛基地に沿った住宅街が作られていた。 「松浦大艦」(唐津新聞社/昭和54年3月刊)から

 「唐津市ゼンリンの住宅地図 昭和38年」から
 唐津線は終着駅西唐津を過ぎて唐津湾に浮かぶ島のような大島まで陸続きで伸びている。古い写真を見ると「貯炭場」と記載された場所は石炭桟橋で、唐津炭田(多久・岩屋・相知・岸嶽等)から石炭が運びこまれていたと思われる。魚市場の岸壁には2条の専用線が引かれ、鮮魚輸送も規模が大きかったと想像する。東港は後に整備され新たな専用線が敷設されたようだ。

 県道交差点の標記「西唐津駅前」が掲げられてここが西唐津駅とわかる。駅舎の駅名板は小さくてわかりづらい。ヤードを跨ぐエレベーター完備のりっぱな東西通路が都会的に映る。 R5(2023)/3/1

 魚市場の埠頭から大島を望む。唐津炭田からの石炭が積まれていた石炭埠頭はその後のエネルギー革命によって液化ガス基地に置換わったようだ。大形液化ガス運搬船の施設も整備された。 R5(2023)/4/30

 「専用線一覧表昭和58年版」を見ると専用者は佐賀県で1号線0.8Km、2号線0.6Kmの記載があった。埠頭に沿って2筋の線路が埋められた跡が残っていた。冷蔵車が並んでいた光景を想像する。 R5(2003)/3/1

 西唐津構内は魚市場の埠頭まで距離が長く、蒸機時代は見通しの関係もあってか頭を漁港方に向けて冷蔵車の入換を行っていたようだ。 R5(2023)/4/30

 「RM LIBRARY28国鉄冷蔵車の歴史」(ネコ・パブリッシング/平成13年11月刊)によると、高速鮮魚列車“とびうお”・“ぎんりん”に組成される冷蔵車は長崎・西唐津博多港・上戸畑発でそれぞれ東京市場大阪市場へ直行する、との事。鉄道輸送全盛期の市場の活気を想像すると胸膨らむ。その後の冷蔵車のコンテナ化、トラック輸送切替えで市場線は衰退、廃止されていったのは時代の流れとはいえ残念であった。専用線の痕跡を見られたのは幸いであった。

 西唐津の漁港線で鮮魚に氷を打った山積みのトロ箱をレム5000に積み込む光景を想像する。9600がそれを迎えに来て西唐津ヤードで組成、唐津線を走り、久保田もしくは佐賀でD51の牽く貨物列車へ連結、長崎本線から鹿児島本線へと継走されたのであろう。

 魚市場の埠頭と反対側の唐津港東港は埋立の際に新たな発電所関連、農協関連の公共臨港線が敷設されていた。鉄道輸送終焉後は整備が進みかつての面影は全く感じられない中、この光景だけ惹きつけられるものがあった。唐津市農協の専用線は通運事業者が松浦通運であったことから鉄道時代の名残りを見たような気がする。 R5(2023)/4/30

 フェリーターミナル前の公園は鉄道輸送終焉で線路を剥がす際に整備されたものと思われる。たまたま見かけた“冷蔵車が並ぶヤードの写真”は鉄道全盛時代へと誘ってくれた。煉瓦の鉄工所の建物の前で写真を撮っていたら、年輩の婦人が「この先をもう少し進むと機関車を回す設備があるよ」と教えてくれた。蒸機の時代、西唐津構内の活気溢れる状況を見て来た人の生の声を聞いた気がした。