
季刊「のぼろ」 Vol.12 2016 Spring (平成28年/西日本新聞社刊)
書棚に並んだ本の背表紙に「列車で山へ」というフレーズに反応して思わず手にとってみる。その本は登山やハイカーの専門誌で、目次を見ると鉄道誌のようなタイトルが並び、中でも「駅が登山口だったころ。」はかつての豊後中村駅のことを語っていたのでページをめくってみた。
モータリゼーションが進展する前、やまなみハイウエイ開通以前は「登山」は列車で行くのが普通の時代であったことを思い知らされる。
驚きの豊後中村駅前の様子が綴られていたので一部抜粋する。『バスの始発は7時10分。駅前には旅館が6軒ほどあり、夜行で来た前泊組が、始発の便に乗って山へ向かった。一番早い列車の到着が8時ごろ。1960(昭和35)年前後には、朝一の便で800人が駅に降り立ったという』。

記事の朝一到着の列車は何だったのか時刻表で調べてみた。くじゅう連山を目指す登山者は博多から久留米乗り継ぎで3時間半の車中を過ごしたようだ。鳥栖からのD60牽引の大分行は勾配を考えると最大で6輛、オハ61やオハ35で定員88~96人とすると豊後中村まではすし詰めであったに違いない。

時刻表 昭和34(1959)年7月号 (日本交通公社)から
『臨時便が次々に出るので、時刻もあってないようなもんで、駅前は出ていくバスと帰ってくるバスがひっきりなし』や『今の登山口である長者原までバスがあがるようになっても、九酔渓の途中でスイッチバックしないと上がれないカーブがあった』などの記述を読むと賑やかな時代の豊後中村駅に思いを馳せる。
日田バスの時刻表は豊後中村から筋湯行、寒の地獄行の2系統があったことを知る。列車に揺られたハイカー・登山者たちは駅前からさらに1時間強のバス旅が待っていた。
同じページに載った各地の鉄道・軌道線は、自動車が普及する前の時代でどこも活況を呈していたことがわかる。
博多から列車で山へ向かう人々は、豊後森乗換え宮原線宝泉寺から涌蓋山へ、都城行夜行で熊本乗換え、豊肥本線で阿蘇へ、鹿児島行夜行、日豊本線で霧島神宮から韓国岳などと多彩であったらしい。客車に揃う独特なニッカポッカの登山者の姿を想像する。
賑やかだった頃の豊後中村駅の様子が垣間見えて良い本に出会ったとうれしく思っている。