深い屋根とHゴム支持の大きな固定窓と小窓が配置された車体はブルートレイン20系のナロネ21とよく似ていた。番号標記の位置にある床下の大きな箱は何だろうか。 オロネ1030〔大ミハ〕 大分 S52(1977)/9/8
「特集模型と工作 鉄道模型工作ハンドブック」(技術出版株式会社/昭和42(1967)年2月刊)から
「急行用軽量1等寝台車オロネ10形の製作」の記事に載った簡単な床下のイラストから蓄電池箱手前の大きな箱は冷房装置ということがわかった。記事の床下の記述は、蓄電池箱、エアータンク、ブレーキシリンダー、水タンクは市販品を使いその他は角材や白ボールで作るとある。TR60台車は各社発売のものを、カプラーはドローバー形、とありとても懐かしく読む。
“日南2号”に組まれたオロネ10は宮原客車区の所属であった。オロネ10の配置区を配置表で探すと、札幌・函館・盛岡・青森・秋田・仙台・新潟・尾久・名古屋・福井・金沢・向日町・宮原・新宮・下関・竹下・長崎・早岐・大分と全国にまたがって97輛を数えることができた(オロネフ10含む)。各地を走る急行列車の愛称名を想像するのは楽しいものだ。 オロネ105〔大ミハ〕他 高城 S47(1972)/10/9
スハネ16106〔分オイ〕 大分 S48(1973)/3/15
昭和48(1973)年3月時点で大分運転所にはオロネ10-3、スハネ16-5輛が配置されていた。夜行急行“日南”で寝台車の大分落しがあるのは以下の列車である。
【日南3号京都発都城行1211レ/日南1号都城発京都行1212レ】
京都~大分間 ①A寝台車②B寝台車③B寝台車
【日南2号大阪発宮崎行1207レ/日南3号宮崎発大阪行1208レ】
大阪~大分間 ⑧A寝台車⑨B寝台車⑩B寝台車⑪B寝台車
想像ではあるが下り“日南3号”上り“日南1号”の大分落しオロネ10+スハネ16+スハネ16は「分付」大分受持ちと思われる。京都~大分間は編成は2組必要で、オロネ10-2輛、スハネ16-4輛の他に1輛の予備を勘定して配置数と合致する。
上り“日南1号”に連結する大分からの3~1号車、スハネ16+スハネ16+オロネ10をDE10が引出している。 大分 S47(1972)/10/8
急行“べっぷ”は新大阪・大阪~大分間で3往復が設定され、内1往復が電車急行、2往復が運転日指定の季節寝台列車であった。“べっぷ2号”は新大阪~大分間を12輛で、“べっぷ3号”は大阪~大分間6輛の寝台車で運用されていた(佐世保往復の下り西海1号・上り西海2号と併結)。
下郡で撮ったオハネフ12の号車札は「12」が入り、編成全体が見渡せないので2号か3号かの編成の区別はつかない。 S48(1973)/4/8
複雑な形をした冷房用電源のディーゼル発電機は当時冷房車だけにしか無い特別な床下の存在として憧れのまなざしで見ていたような気がする。
TR50系台車に付いた車軸発電機。軽量客車登場の際に小形化したKS22A発電機なのかもしれない。
日頃見ることの無い妻面の様子を観察する。形の良いエンドビーム、解放テコ、ジャンパ栓にエアホース等のディテールがとても格好良く見える。
妻面はリブと配電盤の出っ張り、幌枠と幌吊の形状がよくわかる。手摺りの上は「架線注意」標識も付けられている。銘板が4つ並んでいる理由を考えてみた。左上は幡生工場もしくは松任工場のように読める。その下は長野工場、右上が日本国有鉄道、その下が川崎車輛である。オハネフ12はナハネ10で落成、その時の銘板が日本国有鉄道と川崎車輛と思われる。その後ナハネフ10に緩急車改造され、さらに冷房改造による重量増加でオハネフ12と変身していったのでその際の国鉄工場の銘板が追って貼られたのであろう。
裾を絞った幅広車体はデッキのステップに向かって優美なラインを描く。奥まったドア上に設置された「B寝台」の行灯が旅情をそそる。「べっぷ」のサボが入った12号車は下りは最後尾、上りは機関車の次に連結されて車体を揺らす。
“べっぷ2号”は大分到着後直ちに下郡へ回送される。。12輛連なる寝台車の列は圧巻だ。編成の向きは1号車と12号車のオハネフ12は通路海側で、2号車から11号車のスハネ16は通路山側で揃っているように見える。 回7213レ 大分 S48(1973)/3