転轍器

古き良き時代の鉄道情景

鉄道への憧れ 鉄道ジャーナル23号

 小学校高学年になって鉄道の雑誌があることを知る。親に買ってほしいと頼むも「まだ早い」と話にならず、中学生になって「鉄道ピクトリアル214号(昭和43年9月)」を手に入れたのが初めての鉄道趣味誌である。その後、「鉄道ファン」と「鉄道ジャーナル」の3誌を本屋でじっくりと吟味するようになる。

 そんな時に出会った「鉄道ジャーナル23号(昭和44年7月)」は表紙から強烈な印象で、半世紀以上経過した今でも記事内容が浮かんでくる衝撃的なものであった。単なる汽車好きから鉄道趣味への憧れに踏みこんでいく契機となった。

 扉の「列車追跡シリーズ」は新たなブルートレインとして登場して間もない特急“彗星”のレポートであった。新大阪から宮崎までの臨場感溢れる車内模様、機関車とブルートレインの運転、運用の専門用語に魅了される。鉄道への、国鉄への憧れはこの本からの影響が大であった。

 直方でのD50と9600、折尾・門司港でのC55の写真は、彼の地(北九州・筑豊)への憧れとなる。蒸機走行路線の解説は牽引機形式・運転区間と本数、沿線状況が記載され、その後の撮影計画の参考書となる。

 なかでも「後藤寺線への招待」は鮮烈な印象を受ける。石灰岩むき出しの山を背景にC11が短いセム編成を牽いている。蓋が付いたセム編成は車掌車・緩急車が付いていない、まるで専用線を走っているような光景で、未知の世界を見る思いであった。船尾とはどんな所だろうか。実際に訪れてみて、この記事を改めて認識する。「船尾の町は白ダイヤと呼ばれる石灰石で活況を呈している」、「空のセム群を牽いて登ってくる9600、単機回送と称しながら次位を逆向にした2機回送」、「重連列車が後から後から現れて、息つくひまもないほど、鉱業所のガラガラ鳴る音が一日中聞こえ」の表現はまさに現地で体感したそのままであった。そして田川線で有名になった3重連石灰石列車の始発駅はここ船尾、ということを知る。

 鉄道ジャーナル23号のこの写真を脳裏に焼きつけて半世紀、時はインターネットの時代となり気軽に鉄道趣味のウェブページを閲覧できるようになっていた。ウェブサイトからのご縁でこの写真の作者から“憧れ続けた”写真を頂戴し天にも昇る夢心地となった。

 私が後藤寺線を訪れた時は、後藤寺のC11は居なくなり9600だけの運用となっていた。撮影時の後藤寺機関区C11の受持ちは、添田線の客貨と船尾の補機として運用され、さらに日田彦山線の貨物を添田から日田まで、その間合いで豊後森に出向き宮原線肥後小国往復の不定期貨物の運用も担っていた。
 この写真は筑豊でのDC化直前の、縦横無尽に張り巡らされた支線にC11が活躍していた貴重な記録である。 C11341〔後〕の牽く661レ 後藤寺線船尾~後藤寺 S44(1969)/3 撮影:railbusさん

 線区別の紹介で唐津線の石炭列車が気になっていた。同じく石炭輸送の松浦線臼ノ浦線世知原線ともその後趣味誌で取り上げられることもなかったので私のなかでは大切なページとなった。筑豊地域ではさまざまな露出があったのに対し、唐津炭田に関しては何の記述にも出会うことがなかったのでその後の探求心へとかりたてられる。

 唐津線多久~厳木間は笹原峠が立ちはだかる有名な撮影地であった。多久の炭鉱の閉山が早かったこともあってこの峠を越える後補機付石炭列車の写真はあまりお目にかかっていない。多久、東多久で組成された石炭列車は山本を通り、西唐津を抜けて石炭桟橋のある大島まで向かうものと思われる。その視点からも「鉄道ジャーナル23号」に掲載されたこの写真には畏敬の念を抱いていた。また早くから厳木(きゅうらぎ)の難読駅名が理解できていたのは自慢であった。 唐津線多久~厳木 S44(1969)/3/31 撮影:railbusさん

 今振り返ると、私が「鉄道ジャーナル」に魅かれたのは、紀行文や風土記、ドキュメンタリーやルポルタージュに感動や共感が味わえたからであろうと思う。