転轍器

古き良き時代の鉄道情景

横浜駅で撮った写真から

 横浜駅で大形窓のEF58が写ったネガは露出不足で振り返ることなく時は経過していた。たまたま降り立った時にEF58が見えたので思わずカメラを向けたのではないか。大形窓・庇の付いたEF5843〔宮〕が郵便・荷物車を従えて8番ホームに横付けしている。ここまでは見たままの表現で何の疑問も無いが、画面右にもホームが見えている。横浜駅国鉄線ホームは確か京浜東北線根岸線が1面、東海道本線下り・上りがそれぞれ各1面の3面6線で、山側に貨物線が通っていたと思う。気になったのは画面右のホームと跨線橋からの階段で、ちょうど工事たけなわのように見える。今改めて思うと、この時まさに東海道横須賀線分離のため貨物線を旅客線にする新しいホームの建設中の光景を捉えていたのではないか。ということは同時に東海道貨物別線の工事も背後地で行われていたと思われる。輸送システム変革に伴う途中経過のひとコマが写っていたようで我ながら驚いている。 横浜 S50(1975)/5/11

 EF5843〔宮〕が停車したホームはほんとうに8番ホームなのか画像を拡大して番線表示を確認した際、先頭の荷物車に旗が掲げられているのに気づく。まるで基地に入った検修線で交番検査の旗を出しているような、そんな光景に映る。荷物取り降しのための合図かもしれない(写真矢印)。
 この写真を撮った時のことを当時の時刻表から推測してみた。たぶん手前の7番ホームに私が乗った沼津発東京行898Mが入線した時、EF58が向かいのホームにいたので下車して撮ったものと思われる。898Mは横浜を16:12に発車する。その時間帯の荷物列車は東小倉発汐留行38レが横浜16:17発なので、湘南電車に道を譲る間が荷38レの停車時間でその数分間で荷物が手早く降ろされるのであろう。

 昭和50年代初め横浜駅には何度か降り立っている。京浜東北線京浜急行本線・東急東横線との乗換えの他、工事の最中で雑然とした印象しか残っていない東口に出たこともある。桜木町行の電車があったので京浜東北線桜木町までと解釈していたが、正しくは横浜以南は根岸線で、その複線と東急東横線が並走し複々線の様相を呈していた。東横線は東白楽か、もしくは白楽に古書店があると聞いて“鉄道ファン”のバックナンバーを探しに行く際に国鉄線から乗り換えた記憶がある。東横線国鉄線の上を横断していたのに対し、京浜急行本線は国鉄線と同じレベルにホームがあり乗換えは容易だった。ただ、品川までは京浜急行では駅数が多すぎて湘南電車の方がひとっ飛びで行けるような感覚があった。残念ながら相模鉄道とは縁がなかった。
 収集した硬券切符はほとんど記憶に残っていない。EF5843を横浜で撮った日付の切符がその中から見つかり、熱海駅発行の「普通列車用グリーン券」で驚く。サロ111に乗ったのだろうか。この日付のネガはEF58だけで写真に残っていないと記憶は全く頼りにならないことを痛感する。品川車掌区乗務員発行の品川と横浜にパンチの入った車内補充券もどうような経緯で求めたのだろうか。何れにしても横浜へは何かと赴いていた証しを発見した。

西唐津界隈 鉄道全盛時代に思いを馳せる

 「スーパーマップル8九州道路地図」(平成14年刊)から
 昭和58年4月、筑肥線は東唐津スイッチバックしていた線形が改められ福岡市営地下鉄との相互直通運転に伴って姪浜唐津間が電化された。同時に唐津線唐津西唐津間も電化され西唐津103系電車の車輛基地へと変貌をとげた。平成14年の道路地図では西唐津の臨港線と大島までの線路が記載されていた。

 冷蔵車が並んでいたヤードは筑肥線電車の洗浄線が設けられていた。 H24(2012)/7/22

 近代的な管理棟と電車検修庫は煉瓦の矩形庫があった辺りに建てられたものと思われる。 R5(2023)/3/1

 電車留置・仕業線からさらに奥に進むと気動車検修庫と仕業線が見えてくる。 R5(2023)/3/1

 道路地図の「大島通り」交差点付近。いかにも機関区の裏側の雰囲気が出ている。ドラム缶は制輪子の山。唐津興業鉄道が山本~大島間を開業した時、西唐津は妙見の駅名で地図上では“妙見町”の地名が載っている。 R5(2023)/3/1

 上写真のフェンスの切れ目からちらりと転車台が見える。後方の住宅は大島へ向かう路盤に沿って建っている。 R3(2021)/7/25

 唐津鉄工所の煉瓦の建物が残されていた。工場跡地に建設されたホームセンターの屋上駐車場から駅方向を見る。工場内に敷かれた線路跡が見てとれる。 R5(2023)/3/1

 駅舎と反対側、海寄りの鉄道用地の一部は宅地と道路に転用されていた。重厚な煉瓦の建物はひときわ目を引く。 R5(2023)/3/1

 鉄工所の敷地がいかに広大だったのかがよくわかる。跡地は公共施設や商業施設に再開発され、画面左上から右下に続く鉄道用地の一部は宅地化され車輛基地に沿った住宅街が作られていた。 「松浦大艦」(唐津新聞社/昭和54年3月刊)から

 「唐津市ゼンリンの住宅地図 昭和38年」から
 唐津線は終着駅西唐津を過ぎて唐津湾に浮かぶ島のような大島まで陸続きで伸びている。古い写真を見ると「貯炭場」と記載された場所は石炭桟橋で、唐津炭田(多久・岩屋・相知・岸嶽等)から石炭が運びこまれていたと思われる。魚市場の岸壁には2条の専用線が引かれ、鮮魚輸送も規模が大きかったと想像する。東港は後に整備され新たな専用線が敷設されたようだ。

 県道交差点の標記「西唐津駅前」が掲げられてここが西唐津駅とわかる。駅舎の駅名板は小さくてわかりづらい。ヤードを跨ぐエレベーター完備のりっぱな東西通路が都会的に映る。 R5(2023)/3/1

 魚市場の埠頭から大島を望む。唐津炭田からの石炭が積まれていた石炭埠頭はその後のエネルギー革命によって液化ガス基地に置換わったようだ。大形液化ガス運搬船の施設も整備された。 R5(2023)/4/30

 「専用線一覧表昭和58年版」を見ると専用者は佐賀県で1号線0.8Km、2号線0.6Kmの記載があった。埠頭に沿って2筋の線路が埋められた跡が残っていた。冷蔵車が並んでいた光景を想像する。 R5(2003)/3/1

 西唐津構内は魚市場の埠頭まで距離が長く、蒸機時代は見通しの関係もあってか頭を漁港方に向けて冷蔵車の入換を行っていたようだ。 R5(2023)/4/30

 「RM LIBRARY28国鉄冷蔵車の歴史」(ネコ・パブリッシング/平成13年11月刊)によると、高速鮮魚列車“とびうお”・“ぎんりん”に組成される冷蔵車は長崎・西唐津博多港・上戸畑発でそれぞれ東京市場大阪市場へ直行する、との事。鉄道輸送全盛期の市場の活気を想像すると胸膨らむ。その後の冷蔵車のコンテナ化、トラック輸送切替えで市場線は衰退、廃止されていったのは時代の流れとはいえ残念であった。専用線の痕跡を見られたのは幸いであった。

 西唐津の漁港線で鮮魚に氷を打った山積みのトロ箱をレム5000に積み込む光景を想像する。9600がそれを迎えに来て西唐津ヤードで組成、唐津線を走り、久保田もしくは佐賀でD51の牽く貨物列車へ連結、長崎本線から鹿児島本線へと継走されたのであろう。

 魚市場の埠頭と反対側の唐津港東港は埋立の際に新たな発電所関連、農協関連の公共臨港線が敷設されていた。鉄道輸送終焉後は整備が進みかつての面影は全く感じられない中、この光景だけ惹きつけられるものがあった。唐津市農協の専用線は通運事業者が松浦通運であったことから鉄道時代の名残りを見たような気がする。 R5(2023)/4/30

 フェリーターミナル前の公園は鉄道輸送終焉で線路を剥がす際に整備されたものと思われる。たまたま見かけた“冷蔵車が並ぶヤードの写真”は鉄道全盛時代へと誘ってくれた。煉瓦の鉄工所の建物の前で写真を撮っていたら、年輩の婦人が「この先をもう少し進むと機関車を回す設備があるよ」と教えてくれた。蒸機の時代、西唐津構内の活気溢れる状況を見て来た人の生の声を聞いた気がした。

西唐津機関区

 平成時代、「唐津くんち」見物に訪れた際、唐津駅に隣接する物産館に唐津の街並みを撮った本が閲覧できるようになっていた。「唐津鉄工所」を撮った写真は、私には後方のたくさんの冷蔵車が並ぶヤードに目が奪われた。「二タ子」というカタカナ混じりの地名とまるで幹線のようなヤードがとても気になっていた。
 今になって「二タ子」の地名は西唐津駅の所在地と知り、写真をよく見ると画面左上は片面ホームの西唐津駅、右上は西唐津機関区の煉瓦造りの矩形庫と石炭台が、駅本屋と機関区の間に建つ鉄道官舎、広大な西唐津構内が捉えられていた。この魅惑の鉄道地帯の構図は当時の様子を知りたくなる契機となった。 「松浦大艦」(唐津新聞社/昭和54年3月刊)から

 「わが国鉄時代Vol.11」(ネコ・パブリッシング/平成25年11月刊)に掲載された『明治のクラ、大正のカマ』のタイトルの機関区風景がとても印象に残っていた。幸いにも大森工場の工場長さんからお借りした昭和48年夏に記録された西唐津機関区の写真から往時の情景を知ることができた。

 明治の時代に建てられた煉瓦造りの矩形庫は風格がある。正面の意匠は同時期の熊本・鹿児島・行橋・柳ヶ浦の庫とよく似ている。450立方呎タイプの古いテンダを持つ39659〔唐〕はこの庫にとてもよく似合う。テンダのプレートは格調高い形式入ローマン書体が付いている。 西唐津機関区 S48(1973)/8 写真提供:大森工場

 給炭線には門鉄デフ装備の美しい69665〔熊〕が待機している。69665は豊肥本線でよく会った熊本機関区のナンバーで愛着ある1輛だ。「熊」の区名札のまま西唐津に来ているのは貸出しの最中だったのかもしれない。豊肥本線熊本口と唐津線無煙化はいずれも昭和48年の春と秋に実施されている。 西唐津機関区 S48(1973)/8 写真提供:大森工場

 機関車後方の建屋は冒頭の唐津鉄工所の写真から、矩形庫横、給水塔のとなりに建つ機関区本屋と思われる。39659〔唐〕のキャブに蒸気の様子を確認する乗務員の姿が見える。区名札差しとATS標記、積・空標記がやけに高い位置にあると感じる。 西唐津機関区 S48(1973)/8 写真提供:大森工場

 39659は手持ちの配置表を見ると、昭和25年直方、昭和32年直方、昭和36年直方、昭和43年鳥栖、昭和48年西唐津と記載されていた。煙突こそパイプだが紛れもない北九州筑豊スタイルだ。キャブ裾の点検窓が開いているのは門鉄局のキュウロクの特ちょうであった。
 西唐津機関区の配置機関車を年代ごとに追っていくと、昭和初期3400・8500(8550から加熱式改造)、昭和10年代3400・C12、8500・8620、蒸気動車、昭和20年代C11・C12、8620・9600、キハ41000、昭和30年代8620・9600、昭和40年代9600と変遷している。年度によってC11とC12、8620と9600の数の多少があった。昭和40年代になって9600で統一されたようで8620は伊万里までの筑肥線に入っていたのではないだろうか。 西唐津 S48(1973)/8 写真提供:大森工場

 デフ無し、パイプ煙突、ランボード一直線の59681〔後〕は後藤寺機関区の機関車だ。唐津線無煙化まであとわずかな時、自区だけでの機関車運用はひっ迫していたのかもしれない。西唐津構内に西唐津・後藤寺・熊本の機関車が揃っているのは貴重な記録ではないだろうか。 西唐津 S48(1973)/8 写真提供:大森工場

 上の写真は海側から、左サイドは山側から撮っている。西唐津構内は南北に長く、冒頭の写真の冷蔵車が並ぶヤードから唐津港魚市場の岸壁までおよそ2Kmはあるようだ。画面右が駅寄り、左が漁港寄りで、入換仕業の機関車は頭を港に向け冷蔵車を押込む、引出す作業をしていたようだ。その際構内掛は冷蔵車の屋根に乗って入換指示を行っていたと聞いた。 西唐津 S48(1973)/8 写真提供:大森工場

 「九州鉄道の記憶Ⅳ蒸気機関車の雄姿」(加地一雄編/西日本新聞社)から。
機関区を間に挟む西唐津構内はまるで幹線の操車場を見るようだ。港に続く専用線は図面から荒荷1~2番、県営1~4番と読め、貨物輸送全盛の複数の機関車で入換に当たる光景が浮かぶ。

 59681〔後〕が入換を始める。広大な西唐津構内の仕業は列車の組成と専用線での運用があったと思われる。後方は埋立で建設された発電所の煙突が写っている。 西唐津 S48(1973)/8 写真提供:大森工場

 あの時代の唐津線の鉄道模様が少しずつ見えてきて心弾んでいる。貴重な記録をお借りした工場長さんへお礼申しあげます。

久大本線 筑紫平野を行くD60と8620

 久大本線の久留米側は広大な筑紫平野の東側を通る。東へ向かう線路は北に筑紫山地、南に耳納山地の山なみを望みながら、南久留米ー御井善導寺筑後草野ー田主丸ー筑後吉井筑後千足ー筑後大石と平坦線で進む。

 御井を出てラストスパートにかかるD6060〔大〕の美しいサイドビュー。機関助士の石炭かき寄せが見事に捉えられている。20立方米形テンダ後方の欠き取りがよくわかる。客車の台車のシルエットはTR11のようでオハフ61が続く。筑紫平野を行く躍動感溢れる構図に憧れる。 630レ 久大本線南久留米~御井 S44(1969)/3/21 写真提供:railbusさん

 ハチロクの牽く豊後森行軽量編成が稲作地帯を行く。筑紫平野に点在する駅は米を始めとしてそれぞれの地域特産の農産物や植木等の集散地として賑わっていたと思われる。 629レ 久大本線田主丸~筑後吉井 S44(1969)/7/25

 下り豊後森行を牽く78627〔森〕が力行で筑後吉井構内に入って来た。78627は58625・68623・68660・78625と共に豊後森機関区に最後まで残った5輛のメンバーである。 629レ 久大本線筑後吉井 S44(1969)/4/9

 2基の腕木式場内信号機が建つ駅構内入口の光景は良き時代の鉄道情景といえる。68660〔森〕が6輛編成の上り鳥栖行を従えて筑後吉井を後にする。豊後森機関区5輛の8620の内、68660と78625は少し幅の広い普通デフを付けていた。 626レ 久大本線筑後吉井 S44(1969)/3/31

 D602〔大〕は車体を震わせて一生懸命走っているようだ。客車の扉は振動で開いたり閉まったりしたのか中途半端な位置にある。テンダが震えているのか、それにつられて客車も傾いているのか、かつての乗車体験が画像から蘇る。テンダのリベット・プレート・前照灯、客車の渡り板がとても重々しく映る。

 ホームに建つ「筑後川温泉」の案内看板に目が留まる。温泉街は駅北側の筑後川沿いで少し離れている。D602〔大〕の牽く鳥栖行は右側通行、本屋寄りのホームに停車している。朝の鳥栖からの筑後大石折返しの通勤気動車列車が設定されていた関係で筑後大石上下線はどちらからも入れる配線と思われる。 626レ 久大本線筑後大石 S43(1968)/8/1

 バス窓の気動車から68623〔森〕の牽く下り貨物列車を撮る。機関助士が身を乗り出してタブレットを渡そうとしている。豊後森ハチロク鳥栖豊後森間で運用され、この列車は入換と退避を行いながらゆっくりと東進する。 693レ 久大本線善導寺 S43(1968)/8/1

 D603〔大〕の牽く鳥栖発大分行627レは筑後千足でD6062〔大〕の牽く日田発鳥栖行622レと交換する。駅員は受け取ったばかりのタブレットを肩にしょって上りの機関車へ近づく。 久大本線筑後千足 S43(1968)/8/1

 D6063〔大〕が西日を浴びて鹿児島本線を快走する。夕刻の鳥栖発大分行は9輛編成で日田で後部5輛を落して山を越える。大分のD60が架線下の鹿児島本線を走る構図は希少で貴重な記録である。後方、コンテナヤードに見える古いタイプの国鉄コンテナや日通トラックの独特なフォルムが懐かしい。 645レ 鹿児島本線肥前旭~久留米 S45(1970)/8/1

 パイプ煙突のD603〔大〕は前照灯を点灯させ5番ホームで待機している。1番列車筑後大石行気動車が出た後、2番列車として鳥栖を後にする。早朝の筑紫平野を進むと日田からのD60や8620の牽く上り列車と次々と交換する。残念ながらひと桁ナンバーのD602とD603は昭和43年9月に廃車されたので鳥栖での邂逅は千載一遇の機会ではなかっただろうか。 627レ 鳥栖 S43(1968)/8/1 以上9点 写真提供:小川秀三さん

 「昭和37年社会科中等地図」(三省堂)から
 広大な筑紫平野の中心に鉄道の要衝、鳥栖が位置している。D60と8620が走る久大本線は緑色が広がる筑紫平野の東側というのがわかる。地図を俯瞰すると同じ緑色の範囲の北に甘木線、南に矢部線、西側は長崎本線に沿って佐賀線、唐津線の一部がかかっている。D60と8620が走っていた同時期の各線の鉄道模様に思いを馳せる。表記の地名・町名は当時の名称で郷愁を誘う。

フレートライナーの見える街角

 三ノ宮は雲井通の高架線脇を歩いていたら背後から頭上を機関車の音が通り過ぎて行った。モーター音が小さくなっていくと今度はコンテナ車特有の小気味よいジョイントのリズムが街なかに響きわたる。その音はいつまでも続き、まだ間に合うとカメラを取り出す。コンテナ満載の長い編成が通り過ぎていく。高架下は煉瓦造りのアーチ形が美しい車庫が並ぶバスターミナルで、高速バスが発着していた。

 さらに歩を進めポートアイランド線の下を潜りフラワーロードに差しかかったところで再びあの音が高架線から響いてきた。フレートライナーがひっきりなしに走る日常に接し、東海道山陽筋の大動脈を実感する。 東海道本線三ノ宮 H29(2017)/4/29