転轍器

古き良き時代の鉄道情景

栄枯盛衰唐津線 5700と8550

 鍋島駅の待合室に掲示されていた「唐津線120年」のポスターに目が留まる。機関車の部分を拡大したのがこの写真で、8550とばかり思っていたその機関車は動輪が2つなので5700のようであった。
 このポスターに誘われて小城駅近くの小城市歴史資料館で開催された「唐津線120年」を観覧してきた。左上は登録有形文化財に指定された現在の小城駅駅舎、下両側は明治45(1912)年の小城駅庭園落成紀年、機関車は小城駅に停車する5720号機で年代は不詳とのことであった。

 唐津線の開通年代と国有化までの流れをまず押さえておきたい。
明治31(1898)年12月 大島から山本まで開業
明治32(1899)年12月 多久まで開業
明治36(1903)年12月 久保田まで開業 全線開通

明治31(1898)年12月 唐津興業鉄道
明治33(1899)年4月 唐津鉄道へ改称
明治35(1902)年2月 九州鉄道に吸収
明治40(1907)年7月 国有化 九州帝国鉄道管理局
明治41(1908)年12月 鉄道院 九州鉄道管理局
大正8(1933)年5月 鉄道省 門司鉄道管理局

 唐津線は明治36(1903)年12月に全線開通しているので、令和5(2023)年12月で開通120年を迎えている。5700は九州鉄道時代の形式から明治42(1909)年に鉄道院5700形として改番されているので、小城駅での写真は国有化以降の姿と思われる。

 私鉄時代の唐津線は1400や1500といった小形のタンク機関車が使われていたようだ。8620が登場し九州線に配属されるようになると、九州鉄道時代の機関車、5700や8550は8620との置換えで次の働き場所へと移動する。その流れの一環で西唐津に5700が流れ着いたのは大正10(1921)年頃のようだ。
 5700は軸配置2Bのアメリカ、スケネクタデイ製で明治30年から32年にかけて36輛が輸入され、鹿児島本線日豊本線(全通後の線名)で足跡を残している。

 8550はスケネクタデイ製1Cテンダ機関車で、明治31年から39年にかけて61輛が輸入されている。客貨両用として九州各地で活躍、古い写真に収まった機関車は大概この顔をしていたような気がする。イラストは右サイドに元空気溜や空気圧縮機が付いていないことに気づき、改めて空気制動化前後で仕様が異なることを学ぶ。
 大正10(1921)年頃は主要線区に6760や8620が普及し、置換えとなった8550は西唐津へやって来る。増大の一途をたどる石炭輸送に対応するため、12輛は加熱式に改造されて形式8500となった。西唐津に8620や9600が投入される昭和15(1940)年頃まで活躍していたものと思われる。

D60大分の12輛 昭和44年

 昭和44(1969)年3月時点で大分運転所には12輛のD60が配置されていた。小川さん撮影の写真から各機号の細部と個性を眺めてみた。

D6021 日田 S44(1969)/4
 改造前:D50226[川崎]
 改造:浜松工場 S27(1952)/5/30
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ/縁取り無し
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

D6057 日田 S44(1969)/4
 改造前:D5040[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/10/16
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

 公式側には空気作用管と動力逆転棒が付く。美しい化粧煙突はとても優雅に映る。大分のD60の中で唯一タブレットキャッチャーを装備していた。大分運転所 S44(1969)/8

 1枚窓のすっきりとしたキャブはタブレットキャッチャーも見える。ランボード上の清缶剤タンクの位置は機号によって給水ポンプの前後で異なるようだ。 野矢~由布院 S45(1970)/8

D6058 日田 S44(1969)/4
 改造前:D5097[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/10/20
 除煙板:標準/点検蓋付/背高前斜め
 前照灯:LP405
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:8-20

 運転席はナンバープレートと「大」の区名札、D50時代の「大14 川船」、「D5097」プレート、改造工場「浜松工場」の銘板が整然と並んでいる。積・空換算標記板は積:13.0、空9.5と読める。

 昭和43(1968)年8月に郡山から大分へ転属となったD6058は、当初シールドビーム2灯の郡山装備で稼働していたが、昭和44年の秋頃までにLP403へ換装された。 大分運転所 S45(1970)/3

D6060 日田 S44(1969)/7
 改造前:D50152[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/11/16
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧胴伸
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:8-20

 側窓の肘かけの位置にスティック状のバーが渡されている。非公式側の運転席下部中央に給水配管をつなぐ板状に見える二子三方コックが付けられている。

D6061 豊後森機関区 S44(1969)/4
 改造前:D50282[汽車]
 改造:浜松工場 S29(1954)/11/24
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17 

 D60のサイドビューは美しい。汽車会社製の角ばったサンドボックス、砂撒管の細かいディテールがよくわかる。架線注意標識は砂箱とボイラ梯子上部に、発電機下部にも小さい標識が付けられている。 久留米 S44 (1969)/8

D6062 日田 S44(1969)/4
 改造前:D50229[日立]
 改造:浜松工場 S29(1954)/12/17
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

 D6062は公式側、非公式側ともエアータンク上のランボードが真っすぐではなくて前方に向かって上向きに反り返って取り付けられていた。 田主丸~筑後吉井 S44(1969)/3

 ボイラ周りのクローズアップ。ランボードに沿う暖房管とエアータンク上のランボードとの角度が違うのがよくわかる。 天ヶ瀬 S44(1969)/4

D6063 鳥栖 S45(1970)/7
 改造前:D50351[川崎] 
 改造:浜松工場 S30(1955)/1/10
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

D6064 鳥栖機関区 S44(1969)/8
 改造前:D50283[汽車]
 改造:浜松工場 S30(1955)/2/1
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17

 D6064を正面から見ると非公式側にリンゲルマン濃度計が付き、公式側はまるでリンゲルマン濃度計を撤去した後のような何の用途かはわからないステイだけが上を向いていた。短いパイプ煙突は63・67と同様に縁取りが施されている。

D6065 鳥栖 S45(1970)/7
 改造前:D50191[日立]
 改造:浜松工場 S30(1955)/2/14
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:12-17

 原形2枚窓を持つD6065は元D50191。大正から昭和にかけての優雅な外観を醸し出している。 由布院 S44(1969)/4

D6067 恵良~引治 S44(1969)/4
 改造前:D50228[日立]
 改造:浜松工場 S30(1955)/3/19
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17

D6069 野矢 S44(1969)/7
 改造前:D5033[川崎]
 改造:浜松工場 S30(1955)/9/9
 除煙板:標準/点検蓋付/背高前斜め/ステイ湾曲
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

D6071 豊後森機関区 S44(1969)/4
 改造前:D5095[川崎]
 改造:土崎工場 S30(1955)/10/7
 除煙板:標準/点検蓋付
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20/外観12-17スタイル

 前照灯は郡山から大分転属後にLP403からLP405に換装された模様。フロントデッキのスノープラウ取付け穴は郡山時代の名残りか。テンダ外観は12-17スタイルに見えるが20立方米形である。 大分運転所 S44(1969)/8

 写真は全て小川秀三さん
 (D6058 3枚目のみ転轍手)

向之原

 国鉄時代の向之原駅舎を撮っていたが、残念なことにフィルムをパトローネからあまり引っ張り出さずに巻き込んでしまったからか左半分は感光していた。開業は賀来と同じく大正4(1915)年10月30日であるが、現存の駅舎は国有化された後の大正12年に建てられたとのことであった。
 向之原はこの地域を境に、久大本線は東は河岸平野、西は河岸段丘を行き、平野部と峡谷部のつなぎ目に当る川をはさんで、北の豊前街道と南の肥後街道とをつなぐ交通の要衝であった、と聞く。

 車窓の下に見えた峡谷の大分川は向之原を過ぎると大分平野の穏やかな流れとなる。大分川右岸から向之原へ進入する急行列車を見る。車がやっと通れる道幅の狭い橋は、蒸機時代は確か欄干のない沈み橋だったように記憶している。 久大本線向之原 S61(1986)/5

 2面3線の向之原駅は他の駅と同様にホーム間に平面横断通路が設けられていた。それが横断歩道橋のような跨線橋が架けられたのはいつ頃であっただろうか。上下線とは別のもう1線は貨車の留置線であったが、蒸機時代終焉と共に貨物扱いも終了したようだ。街は大分市ベッドタウンとして都市化が進んでいる。

賀来

 久大本線久留米~大分間は昭和9(1934)年11月15日に全通した。大分側の大分~小野屋間はそれよりも早い大正4(1915)年10月30日に、私鉄大湯鉄道として開通している。その後大正11(1922)年12月1日に国有化され、鉄道省大湯線となった経緯がある。

 国鉄時代末期に賀来駅を訪れていた。片面1線の交換不能の配線であるが、行止まりの貨物側線が画面手前大分寄りから分岐していた。その名残りの貨物ホーム跡がこの時まだ残っていた。貨物ホームの後ろに大きな農業倉庫が建っていたので農産物が出荷されていたものと思われる。 久大本線賀来 S61(1986)/5

 キハ58246〔分オイ〕先頭のキハ53が間に入った4輛編成。 621D 久大本線賀来 S61(1986)/5

 撮影時、50系の客車列車は大分口で3往復、久留米口で4往復が運転されていた。朝の豊後森発大分行客車列車は蒸機時代から続いている。 623レ 久大本線賀来 S61(1986)/5

 賀来駅は大分川に支流の賀来川が合流する辺りにあり、画面右側へ進むと賀来川を渡る。近くにあった豊後国分寺は古代大分の宗教の中心地だったとか。駅周辺はバイパス道路ができて店舗や住宅が建って都市化が進んでいる。逆に駅は無人化されて寂しくなっていくように映る。 久大本線賀来 S61(1986)/5

 大分平野の西の端に下りて来た下り列車は賀来を過ぎると平坦な区間となり、大分市の市街地へと向かう。 久大本線賀来~南大分 S61(1986)/5

玖珠盆地の東端

 久大本線の恵良から引治、豊後中村にかけては玖珠盆地を抜けて飯田高原北の端をさらなる上り勾配が続く。

 野焼きの跡を感じるきれいな築堤をD6057〔大〕が客車5輛を従えてR300の左曲線に姿を現す。勾配標が示す通り引治を出ると鳴子川の鉄橋まで25‰の上り勾配だ。 1635レ 久大本線引治~豊後中村 S44(1969)/4/1

 鳴子川橋梁を渡ると野上トンネルが待っている。鉄橋を渡る轟音は周りののどかな風景で聞こえるひばりのさえずりをかき消す。 1635レ 久大本線引治~豊後中村 S44(1969)/4/1

 引治駅は野上川が玖珠川本流に合流した位置にあり、駅を出るとカーブした玖珠川橋梁が待っている。D6067〔大〕が鹿鉄標記のヨ1輛を連れて鉄橋を渡る。 6696レ 久大本線恵良~引治 S44(1969)/4/1

 郡山装備2灯のD6058〔大〕が引治を発車して玖珠川橋梁に差しかかる。藁小積みときれいな築堤、はえたたきが写る古き良き鉄道情景に心が染みる。 638レ 久大本線恵良~引治 S44(1969)/4/1

 新車キハ45601〔分オイ〕が早くも運用に就いていた。気動車の方向幕に「久留米」と行先が表示されるのは当時画期的であった。キハ45600番台は簡易郵便荷物車として2輛(601・602)が大分運転所に新製配置された。 636D 久大本線引治 S44(1969)/4/1

 引治駅から見た玖珠川橋梁。上り列車はここから高度を下げて玖珠盆地へと下りて行く。 久大本線引治 S44(1969)/4/1

 写真は全て:小川秀三さん