転轍器

古き良き時代の鉄道情景

沖代平野の耶馬渓線 昭和45年冬

 八幡前を発車したキハ102“かわせみ”は雪の残る古城の台地を進み、この辺りから沖代平野へ向けて一気に坂を下る。この頃は冬ともなるとよく雪は降ったものだ。年が開けて昭和46(1971)年は野路~守実温泉間25.7Kmが廃止されることになる。 S46(1971)/1/6

 キハ602は国東線廃止の時に杵築から中津へ来ている。前面窓下に貼られていた愛称“しおかぜ”の切抜き文字ははがれているように見える。正月を前に小さな国旗が掲出されている。キハ600形は前面の中心、2枚窓の下に正月飾り用なのかどうかはわからないが、3つのステイが設けられていた。 S45(1970)/12/31

 冬枯れの沖代平野を行く客車列車。大みそかだからだろうか、D31が従えるのは3輛だけだ。客車は窓配置からホハフ32+ホハフ30+ホハフ30ではないかと推測する。 S45(1970)/12/31

  写真:BBSさん 大分交通耶馬渓線中津~八幡前

豊後森機関区

 扇形庫1~3番は宮原線仕業の気動車が占有する。左からキハ20444〔分オイ〕、キハ2069〔分オイ〕、キハ0742〔分モリ〕。 S44(1969)/4/10

 扇形庫には救援車の他に68660〔森〕と78625〔森〕がテンダを背に向けて控えている。 S44(1969)/7/27

 12線のコンクリート製扇形庫。庫には宮原線仕業の気動車と救援車と無蓋車、久大本線運用の8620が納まっている。転車台脇に見える「危険」と標記された塔は「安全の鐘」とのこと。現場で朝礼や作業前などに安全に対する意思統一で鳴らされ、無事故、ゼロ災害を誓い合うシンボル的な鐘と聞いた。

 3番線と4番線の間は衝立で仕切られている。5番線はスエ3118もしくはスエ3135と思われる。転車台は桁の上に線路がある上路式で、線路間は複雑な動きをする鎖錠装置が見える。櫓の両端は「安全第一」と「連絡確認」が掲出されている。 S44(1969)/7/27

 豊後森機関区唯一のC11のバックビュー。3輛のC11はキハ07投入でC11191〔森〕だけになる。

 「森」の区名札が輝かしい。サイドタンク振止めのアングル材が取付けられている。

 78627〔森〕のプレートと標記。 大13川船/S/積8.0空6.0/42-8小倉工

 豊後森駅は久大本線上下本線と副本線、副本線は宮原線も発着し、その外側に上下貨物線がレイアウトされている。場内信号機は上下線に各3基が建つ。豊後森機関区は転車台から機回し線に接続する機関区本屋側2線の間にかなり大きな規模の給炭台が鎮座している。台の高い位置に設置された荒縄で頑丈に巻かれたスポートが印象的であった。そしてその2線を跨ぐ形で左右対称に柄が伸びる形の良い給砂塔がそびえていた。

 転車台から延びる2線の給炭線を跨ぐ「自分を大切に」の安全標語を掲げた給砂塔。給炭台脇にはコンクリート脚で円錐形の屋根が付いた水タンク。右に見える建物は砂乾燥小屋。蒸気のもれる音が聞こえてきそうな機関区風景が描写されている。手前の箱庭風には緑十字と社があしらわれて安全の姿勢が感じられる。 S44(1969)/7/27

 機関区本屋前の大規模な給炭台。転向の後、給炭台に機体を寄せるD6069〔大〕。両側にスポートが備えられている。 S44(1969)/7/27

 給炭2番線で憩う下り方を向いたD6061〔大〕。低い位置から眺めるとボイラがやけに太く見える。後方水タンクはパイプが数本屋根の上まで延びている。 S44(1969)/4

 給炭2番線で憩う上り方を向いたD6071〔大〕。機関区建屋の大きさに圧倒される。 S44(1969)/4

 写真:小川秀三さん

守実温泉 耶馬渓線と森林鉄道

 中津から36.1Km、耶馬渓線終着の守実温泉駅駅舎。瓦ぶき切妻屋根とトタンぶき差掛屋根の造りは、この時代の木造駅舎の象徴的な光景ではないかと思う。森の緑、毛筆書体「守実温泉駅」駅名板、大分交通守実温泉駅前のバス乗場案内の「静」とキハ600形のアイドル音と生活感あふれる人々の「動」のコントラストが感じとれる。 守実温泉 S41(1966)/7/10

 構内は本線と引上線、本屋側と反対側にそれぞれ1線の側線が敷かれている。線路はさらに後方にちらりと見える貯木場まで延びている。「親しみある耶馬渓線」(井上元著/平成25(2013)年9月刊)によると、この位置で槻木森林鉄道で輸送された英彦山国有林の巨木・銘木を耶馬渓線の貨車へ積込んでいたと記されている。 守実温泉 S41(1966)/7/31

 角度をホーム側へ振ると、引上線から分岐する側線がわかる。本線はキハ100形103“ひよどり”が入線している。3つ並ぶ駅名標の内ひとつは「守実温泉」であと2つは「のりかえ CHANGE HERE」案内であった。日田方面が伏木・藤山・日田の標記、福岡県境山国町方面は吉野・草本・新谷・毛谷村の標記。 守実温泉 S41(1966)/7/31

 キハ103の向こう側は石積みホームの上に独特な形の給水塔が建っている。蒸機時代に使われていたようだ。 守実温泉 S41(1966)/7/31

 守実付近の橋脚 中津営林署農林用軌道跡 S41(1966)/7/10
 森林鉄道についての記述を手持ちの資料から抜粋する。

 「親しみある耶馬渓線」(井上元著/平成25(2013)年9月刊)
『槻木森林鉄道 
  守実~槻木新谷12Km
  軌道 762mm
  トロッコ1~2輛運転
  槻木国有林からの木材輸送を行い、守実温泉から耶馬渓線で貨物輸送を行った。
  下り回送槻木行は1輛ずつ犬が牽引する。』

 「鉄道ジャーナル34/昭和45(1970)年4月号」(鉄道記録映画社)に掲載された奈良崎博保著「耶馬渓線を行く 大分交通耶馬渓線」の記事から森林鉄道の部分を抜粋。
 『さらに流れを早くした山国川をさかのぼり、カジカ鳴く杉木立のうっそうとした深山幽谷をぬけたところは大分・福岡県境の薬師峠で、山国川集水地の豊前坊は間近にある。かつてはこの渓流にそって森林鉄道が敷かれ、かなりの木材が搬出されていたが、ポツンと取り残された橋脚や貯木場のヤード跡にかつての面影がしのばれるだけで、今日ではトラックがとって代わり、耶馬渓線の貨物輸送廃止(昭和43(1968)年10月)に大きな影響を及ぼした。』

 「消えた耶馬の鉄道」(耶馬渓鉄道史刊行会/昭和60(1985)年9月刊)
 守実温泉駅から抜粋
 『耶馬渓線の終点で、山国町の玄関口。この町は町内の全面積のうち95%が山林で占められる山どころ。育ちのよい杉、桧材と国有林(官山・官地)の伐採木は駅近くの貯木場に集められた。その中には十数キロ離れた槻木からトロッコに積んで運び出されたのもあった。すごい木材の量である。
 また、7キロ離れた溝部の旭金山が稼働の最盛期で、採鉱石は守実に搬出され、日鉱佐賀関精錬所に貨車で送り出された。』

 加地さんの写真から、そして手持ちの参考文献から今改めて耶馬渓線の、森林鉄道のロマンを味わうことができた。新たな「気づき」は更なる深みへと誘われる。

 写真:加地一雄さん 大分交通耶馬渓線守実温泉

貨物列車よもやま話

 私の小学生時代は、近くの線路を蒸気機関車が牽く貨物列車を見ることは日常の生活の中のひとコマであった。友達と野球をしている時に汽車が通ると、皆手を休めてその貨物列車の数を数えていたものだ。汽車が行ってしまって皆で答え合せをする時に、きまって私は皆よりひとつ(1台)少なかった。それは機関車の次から数えていたからだ。「何台つながっていた?」は私にとっては機関車は外して数え、それが正しい数え方だ、と信じ込んでいた。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S44(1969)/8

 エンドウ(TER)の広告は楽しい貨車がカタログ風に構成されて見るのは楽しみだった。実物編成でワムとワラだけでは物足りなく、この写真のように家畜車・無蓋車・石炭車・ホッパ車などバラエティ豊かな編成が貨物列車の醍醐味であった。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S45(1970)/9

 昭和40年代のクルマのテレビコマーシャルで、自動車はダイハツベルリーナだったような気がする(記憶ちがいかもしれない)が、踏切で待っていると警報機が鳴りだして長い貨物列車が通り過ぎる。汽車が去った後にそのクルマが動き出すといったストーリーだったような気がする。そのクルマのインパクトよりも貨車の流れが何となく記憶に残っている。 久大本線南大分~大分 S45(1970)/8

 貨物列車は長い編成に憧れた。絵本か書籍かはわからないが、集煙装置を付けた蒸気機関車とディーデル機関車が前後に付いて長い貨物列車を押し上げている光景が記憶に焼きついている。後になってあのような峠越えは北陸本線旧線の鉄道模様ではないかと思っている。 久大本線向之原 S45(1970)/5

 九州横断の丙線で見る貨物列車と亜幹線とはいえ東九州を縦断する本線に来ると、貨物列車の重量感は段違いであった。コンテナやタンク車等のボギー貨車は本線でしか見ることはできず憧れであった。 日豊本線大分 S44(1969)/8

 いつも列車接近ぎりぎりにしか線路端に着かないのでカメラを構える余裕がない。学校が休みの時に同じ列車を撮りに行っていたが、結局これといった写真は残せていない。ただ線路脇は道路だったので、高速で駆けるキュウロクの迫力とそれに続く2軸貨車のジョイント音は間近に味わうことができた。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S44(1969)/12/30

 当時は対向列車は何が来るかわからない、という期待感、高揚感が溢れていた。前方の対向列車の場内信号機の腕木が下りていることが何よりも胸が高鳴る瞬間であった。 久大本線筑後草野 S45(1970)/6/5

 踏切で貨物列車の通過を見届けて最後尾の車掌車を見送ると、何とその車掌車は黒色ではない、かといってライトグリーンでもない煤けた緑色をしていた「ヨ」とめぐり会う。書籍で見て知っていたコンテナ特急「たから号」車掌車が都落ちして地方をまわっているのだろうと思っていた。この時ももしやと編成通過を待って最後尾を捉えるも、いつもの黒い車掌車だった。それからというもの、緑色の車掌車と再び出会うことはかなわなかった。 日豊本線徳浦(信)~津久見 S45(1970)/8/15

・写真は一部を除いて過去記事の再掲