転轍器

古き良き時代の鉄道情景

修学旅行電車“わかば”

 修学旅行電車155系・159系は「東海形」と呼ばれる153系の顔で、後の167系とは表情が大きく異なっていた。黄色とオレンジの独特な塗り分けは、レモンイエロー(後にカナリヤイエロー)とライトスカーレットと呼ばれるらしい。愛称名は“きぼう・ひので・わかくさ・こまどり”等々地域によってヘッドマークとともに用意されていた。 12輛編成“わかば” 東海道本線大府~共和 S45(1970)/5/24 写真:HAYAさん

 異彩を放っていた塗色の修学旅行電車は後に湘南色に塗り替えられ、定期列車の運用に就くようになった模様。塗り替えは単に修旅色から湘南色へ移行したものとばかり思っていた。しかしよく見ると湘南色の塗装ラインは153系に準じて元々の155系の塗り分けと異なっていることに気づく。その違いはイラストから納得する。当時そんな塗り分けのことなど意識したこともなく、大垣夜行体験では、友人のメモからクハ155-1〔名カキ〕に乗車していたようで、153系に乗ったものと思っていた自分は実は155系トップナンバーに乗車していたことに驚きを禁じえない。国鉄新性能電車各形式の流儀があったことにもほほえましく思えてならない。

鉄道風景懐古 天ヶ瀬

 D6062〔大〕牽引の鳥栖発豊後森行が長角トンネルから顔を出し、第7玖珠川橋梁を渡った先に下り天ヶ瀬遠方信号機が建っている。豊後中川から天ヶ瀬にかけて上り勾配が続くので下り列車は力行する。 635レ

 天ヶ瀬で635レを待っていたのは由布院発門司港行“はんだ”2輛編成。直方発由布院行“日田”の折返しは“はんだ”と名を変えて来た道を戻る。 705D 久大本線豊後中川~天ヶ瀬 S44(1969)/4/10

 タブレットを駅長から受け取って天ヶ瀬発車。D6062〔大〕のキャブとテンダのリベットが夕日に照らされて浮き出ているように映る。

 じわりと動輪が動き出し迫力ある排気音は対岸の山へ響き渡る。右曲線で側線と合流し構内が収束すると25‰上り勾配となる。前方に温泉街の街並みが見える。 久大本線天ヶ瀬 S44(1969)/4/5

 由布院発日田彦山線経由博多行急行“ひこさん”の先頭車はキハ55だろうか?フロントガラスから天ヶ瀬駅の情景が捉えられていた。待っていた列車はD6021〔大〕率いる鳥栖発大分行639レで6輛の客車が連なっていた。きれいな弧を描くホームに多数の乗客の姿が見える。本屋へ続く横断通路の角に信号梃子扱い所が置かれ、上り出発信号機へ向かうワイヤが線路沿いに伝っているのがわかる。側線脇に建つ不釣り合いな橋脚は、温泉街の細道を避けて駅の上を大胆に跨ぐ国道バイパス工事が始まっていたこともこの写真からうかがえる。 久大本線天ヶ瀬 S44(1969)/4/1

 鳥栖発大分行639レは由布院発博多行1706D“ひこさん”の発車を待って始動する。パイプ煙突21号機のキャブから乗務員の凛々しい視線が熱く感じられる。

 天ヶ瀬出発信号機は進行現示。ブロアー音をかき消す汽笛吹鳴で巨体がミシミシと始動する。機関助士は21号機にカメラを構える撮影者と合せた視線を離さないで見送りに応える。上り勾配に備えた豪快なドラフト音を残して遠ざかる。 639レ  久大本線天ヶ瀬 S44(1969)/4/1

 冒頭縦構図の遠方信号機の写真は、私の記憶に刻まれている鉄道の原風景と感じている。駅でもない野の中にぽつんと建つその形は、駅にあるのとは腕木の形状、色も違った特別な存在であった。腕木が下がっているともうすぐ汽車が来る、という期待感が膨らむ。そんなあの頃の場面を捉えた記録に郷愁を覚える。

 写真:小川秀三さん

山陽本線と山陰本線の立体交差

 下り夜行列車は本州の西の果て、一路九州を目指して快走している。周防灘に沿って小月、長府、新下関を走りぬけた辺り、響灘に面して南下してきた山陰本線が山陽本線上下線の谷間に割り込んで来るドラマチックな展開に心躍る。駅でもない郊外や山間で線路が交差したり分岐する光景は模型的でもあり興味がそそられる。EF58が牽く列車は大阪発長崎・大分行“雲仙52号・べっぷ52号”で春休み期間に運転される臨時列車であった。 6217レ 山陽本線新下関~幡生 S48(1973)/3 写真:BBSさん

東中津の引込線跡

 東中津駅からしばらく日豊本線と並走しその先で見えなくなる謎の線路があるのは早くから知っていた。ただその存在に興味を魅かれることなく長い年月が過ぎていた。

 ある日、日豊本線上り列車に乗車する機会があり、右側座席で東中津駅を過ぎた辺りから目を凝らして線路跡を追っていた。本線と並走する路盤、本線から離れていく地点の鉄橋は健在であった。 日豊本線中津~東中津 H23(2011)/11/13

 下路プレートガーダーの桁、橋台、きれいな弧を描く築堤は時間が止ったようにそのままの状態で残っている。 H23(2011)/11/13

 それから13年後。鉄橋に柵が取付けられている。 R6(2024)/4/5

 中津市住宅地図昭和41年版索引ページから
 引込線は日豊本線東中津駅から上り方向へかなり長い距離を並走し、小川を渡る地点で北西に離れその先に「三機工業」の表記が見える位置まで敷かれていた。左下にちらりと見える鉄道線は中津から分岐する大分交通耶馬渓線である。
 「昭和42年版専用線一覧表(トワイライトゾーンMANUAL5/ネコ・パブリッシング/H8(1996)/11刊)」によると、所管駅:東中津/専用者:富士三機鋼管㈱中津工場/第三者使用:日本通運㈱/作業方法:国鉄機・私有機/作業キロ:2.3と記載されている。

 重い腰を上げた時はすでに橋台、橋桁は撤去されていた。何故もっと早く動かなかったのか。 R8(2026)/6/10

 列車から見えたカーブの先へ消えていった引込線跡を反対側から眺める。複線の日豊本線は右が中津方、左が東中津方で橋台跡はコンクリートで埋められている。 R8(2026)/6/10

 線路跡は道路として使われている。築堤の切れ目は石積みで築かれ、小川を渡る橋台になっている。左がかつての道路跡と思われる。 R8(2026)/6/10

 築堤の切れ目。線路が敷かれているような錯覚を覚える。

 築堤を辿った先が工場跡と思われる。画面奥が東中津駅方。【地図右矢印】

 上の位置から振り返えった所が専用線終点方と思われる。この辺りは開発が進み宅地化、大形商業施設の立地で様変わりしている。【地図左矢印】

 中津市住宅地図昭和41年版から
 東中津駅から延びてきた線路は「富士三機引込線」と記されている。住宅地図の上部はつながりのページが上被せになって工場の全景はつかめないが、たぶん工場敷地跡が商業施設ではないかと推測する。踏切跡と思われる位置から両方向見た景色が上写真である。

 昭和40年代初頭は私は小学生であった。冒頭の地図右下辺りに当時住んでいたので大分交通耶馬渓線大貞公園駅や国鉄日豊本線東中津駅へは自転車で行ける距離であった。東中津駅で見た貨物列車はD50牽引(形式は後年に知る)で、耶馬渓線とは別格の貫禄があったのを感じていた。D50やD51が「富士三機引込線」に入り貨物を牽引していたのだろうと今になってロマンを味わっている。