転轍器

古き良き時代の鉄道情景

D6071 郡山時代

 郡山から大分へ来たD6071は久大本線を走ることわずか1年足らずで直方へ転属した。小川さんの磐越東線での記録のおかげで郡山時代のD6071の容姿を知ることができた。

 シールドビーム2灯装備の郡山機関区のD60にあって、D6071だけはひとつ目のようだ。 762レ 磐越東線小川郷~江田(信) S42(1967)/9/24

 テンダ上の巨大な重油タンクに圧倒される。運転席窓から飛び出した窓枠は何だろうか。

 D6071〔郡〕が小野新町発郡山行下り列車を牽く。はえたたきと呼ぶには少し横幅が狭い通信線電柱が印象的に映る。 721レ 磐越東線船引~要田 S43(1968)/6/2

 D60重連の下り貨物列車が島式ホームの三春で待機。磐越東線は貨物列車が多く運転されていたので上下本線とは別に退避線が敷設された駅が点在していた。D6071と次位のD60が並ぶと運転席前扉の窓の形状の違いがよくわかる。 磐越東線三春 S43(1968)/6/2

 本務機D6077+貨車+逆後補機D6071+逆向回送D6012 764レ 磐越東線船引~要田 S43(1968)/6/2

 車掌車は前寄りに付いて最後尾はトキで締めくくる編成だ。逆向D6071テンダ上の重油タンクがやけに大きく映る。

 化粧煙突のD6071

 シールドビーム2灯、パイプ煙突のD6012。
 ものすごい列車だと驚愕する。機関車の向きが背中合せや逆向き等の重連、後部補機付は後藤寺線の9600運用と重ねてしまうが、迫力ではD60にはかなわない。

 D6071の運転席、2枚窓の間に付けられた折りたたみ式の窓枠について小川さんより教示いただく。北海道の機関車に装備されていた折りたたみ式の「バタフライスクリーン」で、顔を出す際の雪よけ、凍結防止の防護窓とのこと。
 D6071は、D60当初の投入線区であった根室本線北上線磐越東線紀勢本線山口線筑豊本線久大本線の内、紀勢本線山口線を除く各線区を北から南へ日本列島を縦断した唯一のD60であった。
 また改造総数78輛(浜松62・長野12・土崎4)の内、僅か4輛(D6071・72・74・75)の少数派「土崎工場改造」の1輛と教えられ、私と縁のあったD6071は改めて秋田産罐と認識する。

 写真は全て小川秀三さん

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D6052 郡山時代

 郡山から直方へ来たD6052は煙突の形状が何とも異様な印象を抱いていた。北上線を走っていた横手機関区時代の写真を見ると、山高帽や釣鐘のような形状の郡山式集煙装置を被っていた。集煙装置を外した際、設置の時に切除された煙突がむき出しになったのではないかと思っている。

 平駅6番ホームの情景。D6052〔郡〕率いる平発郡山行727列車が出発を待っている。貨物側線には高荻支区の19678と平機関区の58660が待機している。常磐線は電化直前で本線貨物を牽いていたかもしれない。平の8620・9600・C50は内郷や平の入換に従事していたのだろうか。 平 S42(1967)9/24

 平~郡山間85.6Kmの磐越東線は郡山のD60と平の9600が運用されていた。D60はテンダに載った巨大な3000リットルの重油タンクが特ちょうであった。 平 S42(1967)/9/24

 磐越東線郡山寄りは大越からのセメント列車運用で、郡山から正位、逆向き、背中併せの重連が運転されていた。高い位置から見るとD6052の煙突の形状がよくわかる。三角屋根の貨車は九州では縁のなかったテキ1のようだ。 磐越東線船引~要田 S43(1968)6/9

 福島県はかつての常磐炭田の石炭産出地、また磐越東線沿いのセメント工場の立地は福岡県のそれと似ているように思える。郡山、磐越東線D60が直方、筑豊本線へと転属してきたのはそのような縁を感じずにはいられない。重油タンク、シールドビーム2灯のD6052〔郡〕が咆哮をあげる。 磐越東線船引~要田 S43(1968)/6/2

 小川さんの話によると、D6052は北上線(横黒線)に配属された改造当初からの8輛(横手:51・52・53・54、北上:29・30・35・40)の中の唯1輛の生き残りとのこと。北上線は隣接の釜石線と同時に昭和42年にDD51に置換えられている。その前年秋に奥羽本線不通により北上線D60重連で迂回運転された優等列車の姿は私も趣味誌で善望の眼差しで見た記憶がある。
 郡山式集煙装置は北上線D60釜石線のD50・D51、山田線のC58、米坂線の9600に装備されていた。通常の集煙装置と異なり郡山式は煙突上部を覆う摺動冠が前後する構造とのこと。

 D50192は浜松工場で軸重軽減の改造を受けてD6052と形式が換えられた。運転席窓は重厚な2枚窓でD50時代を彷彿させられる。

 写真は全て小川秀三さん

D60直方の11輛 昭和44年

 昭和44(1969)年3月時点で直方機関区には11輛のD60が配置され、同時期の大分での12輛とはまた違った個性を持ったD60が勢揃いしていた。小川さん撮影の写真から各号機の細部と個性を眺めてみた。

D6022 折尾~中間 S44(1969)/7/23
 改造前:D5085[汽車]
 改造:浜松工場 S27(1952)/6/27
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

 公式側は空気圧縮機と逆転棒が付く。D6022はタブレットキャッチャーを備えている。 鳥栖機関区 S44(1969)/4

D6025 原田 S43(1968)/7/31
 改造前:D50289[汽車]
 改造:浜松工場 S27(1952)/9/24
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧継足
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

 右サイドの眺めは給水ポンプの配管、ボイラ上の発電機とATS発電機の配管が複雑に映る。運転席前窓に庇が付いている。 直方 S44(1969)/3/28

D6026 原田 S43(1968)/7/31
 改造前:D50106[日立]
 改造:浜松工場 S27(1952)/10/30
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧胴伸
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:8-20

 運転席のプレートや銘板からD60の車歴がわかる。D50から改造されて直方に配備されたD6025・26・27・28・31・32・33の7輛は廃車まで直方から動くことのなかったナンバーである。 D6026 直方 S43(1968)/7/31

D6027 直方機関区 S43(1968)/7/31
 改造前:D50237[日立]
 改造:浜松工場 S27(1952)/11/25
 除煙板:標準/点検蓋付
 前照灯:LP403
 煙突:化粧継足
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17

D6028 直方機関区 S44(1969)/7
 改造前:D50306[日車]
 改造:浜松工場 S27(1952)/12/23
 除煙板:標準/点検蓋付
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ長
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:12-17

D6031 原田 S44(1969)/3/31
 改造前:D50302[川崎]
 改造:長野工場 S27(1952)/8/6
 除煙板:標準/点検窓有/前斜め/ステイ湾曲
 前照灯:LP403
 煙突:化粧継足
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

 D6031・32・33・34は何れも長野工場改造機で、除煙板上方前縁の角が斜めにカットされその取付けステイが独特なスタイルをしているのが特ちょうであった。 D6031 桂川 S43(1968)/7/31

D6032 直方機関区 S44(1969)/7
 改造前:D5073[汽車]
 改造:長野工場 S27(1952)/9/2
 除煙板:標準/点検蓋付/前斜め/ステイ湾曲
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ長
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

D6033 直方機関区 S44(1969)/3/28
 改造前:D50317[日立]
 改造:長野工場 S27(1952)/10/11

D6034 門司機関区 S44(1969)/7
 改造前:D50145[日車]
 改造:長野工場 S27(1952)/10/20
 除煙板:標準/点検窓有/前斜め/ステイ湾曲
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ長
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17

 運転席前方の扉と窓の形状がよくわかる。屋根から伸びる雨樋は手摺りを兼ねているようで、その横の鉤状の吊環が良く目立つ。プレート類はキャブ中央にナンバー・製造日・改造工場・換算標記が均等に配置されている。 飯塚 S47(1972)/8

D6046 直方 S44(1969)/3
 改造前:D50157[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/5/25
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧継足
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

 D6046は池田・出水の履歴があり、D6022と共に直方に最後まで残留したナンバーである。 筑前山家 S44(1969)/4/7

 直方のD60で22と46の2輛はタブレットキャッチャーが付けられていた。大分では57にそれがあり、D6022・46・57は何れも出水で鹿児島本線の運用に就いていたのでその際に装備されたのではないかと思われる。縦位置の長い大形窓を備えている。 鳥栖機関区 S44(1969)/4/5

D6052 直方 S44(1969)/3
 改造前:D50192[日立]
 改造:浜松工場 S29(1954)/7/24
 除煙板:標準/点検蓋付
 前照灯:LP405
 煙突:パイプ変形
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:8-20

 写真は全て:小川秀三さん

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門司で出会った客車たち

 門司港筑豊本線経由原田行がDD51のエンジン音高らかに1番ホームから出て行った。編成は門司港客貨車区、門モコのオハフ33・スハフ42・オハ46・オハ47で組まれていた。 2747レ S52(1977)/8/8

 西鹿児島門司港行夜行“かいもん”が6番ホームに到着する。ナハネ20 1000番台は昭和53(1978)年に夜行急行用として12系客車と併結できるように改造されたグループである。 102レ ナハネ201126〔鹿カコ〕 S57(1982)/8/18

 夜行“日南”も10系寝台車と旧形客車の編成から寝台20系+座席12系に置換えられた。ナハネフ22 1000番台は“かいもん”、“日南”用に鹿児島運転所に6輛が配置されていた。 502レ ナハネフ221009〔鹿カコ〕 S57(1982)/8/18

 20系は号車・愛称・行先の3つの窓が特ちょうだ。客車3段式B寝台車は星1個が付けられていた。

 白サボ「長門市―門司」を掲げたオハフ41202〔広セキ〕はスハフ42から改造されたロングシート車であった。 S57(1982)/8/18

 山陰本線に入る長門市行は門司始発で下関までEF308〔門〕が務める。 840レ オハフ50128〔広セキ〕他 S57(1982)/8/18

 オハ46はスハ43の軽量形らしいが台車はTR47を履いている。オハフ45はその緩急車で外観はスハフ42と同じに見える。客室窓のサッシ化とトイレ窓のHゴム化改造で近代的に映る。 オハフ4525〔門モコ〕 S54(1979)/2/7

 「門司港(長与・大村線経由)」行を掲げたオハ4719〔門サキ〕は元スハ43で台車をTR47からTR23に換えてスハ43からオハへ47へ変身している。配置表を辿ると向日町→竜華→大分→長崎と移動していた。 S57(1982)/8/18

 ナハフ10はナハ10の緩急車として48輛が製作された。その約半数は長崎・都城・鹿児島に配置され、全盛期は対本州の急行列車に運用されたものと思われる。 ナハフ102003〔門サキ〕 S57(1982)/8/18

 夜行“ながさき”に連結されたスハネ1662〔門サキ〕 S57(1982)/8/18

 1位側の標記が見える。形式スハネ16/自重37.8t/55-12小倉工。換算標記は積4.0/空3.5。

 EF3010〔門〕が先頭に立つ東小倉発汐留行急行荷物列車が門司を出る。 荷36レ S54(1979)/2/7

 ワキ8761〔名ナコ〕 台車TR203 S52(1977)/8/6

 ワキ8585〔鹿カコ〕 台車TR223 S57(1982)/8/18

 オユ12は郵袋の輸送だけを行う護送便専用車。 オユ122〔門モシ〕 門郵2 S52(1977)/8/6

 オユ11 1000番台は非冷房で製造された11輛を低屋根化して冷房改造された番台である。 オユ111010〔門モシ〕 門郵2 S52(1977)/8/6

 オユ11 100番台は冷房付として製造された。 オユ11105〔南トメ〕 S54(1979)/2/7

 オユ10 1000番台は小倉工場で低屋根化冷房付に改造され、5輛全て門司客貨車区に配置されていた。 オユ101001〔門モシ〕 門郵12 S57(1982)/8/18

 スユ16 2200番台車は「東門線」と呼ばれる東京~門司間特例輸送車で2201~2204の4輛が東海道山陽本線で活躍していた。 スユ16 2200番台〔門モシ〕 門郵1 S52(1977)/8/8

 マニ442102〔門モシ〕 S57(1982)/8/18

 マニ602194〔大ヒメ〕 S54(1979)/2/7

 鋼板屋根のマニ36206〔門サキ〕 門荷3 S54(1979)/2/7

 丸屋根のマニ3682〔門モシ〕 門荷11 S57(1982)/8/18

 マニ37はパレット積荷物車として昭和42(1967)年から43(1968)年にかけて改造された。 マニ372016〔鹿カコ〕 S52(1977)/8/6 

国鉄大井工場高架水槽

 8月7日掲載「大崎支線を行く」の記事の中で、新鶴見方から現れたEF651000番台機が牽く貨物列車後方に写っていたタワー状の構造物は何なのか気になっていた。その写真のトリミングを変えて拡大したのがこの画像である。

 私は独特な形から遊戯施設か商業施設の広告塔かと思っていた。東京都の線路端さんから「ねぎ坊主の正体は国鉄発注により大井工場構内に日立製作所が製作した高架水槽ですよ」の知らせを頂き、思わぬ物が写っていたなと驚愕した。

 「日立ニュース1964年2月号」(1960年代日立論評Web)から

 日立ニュースから一部抜粋する。『日本国有鉄道から受注した大井工場高架水槽が完成した。本高架水槽は、地上約20mのところに設置した球形容器で、支柱は建設費の低減を図って、従来鉄骨構造であったものを円錐状にしたので外観も一段と良くなった。水圧の高い時に本高架水槽に水を張り込んでおくと、水圧が下がった時にもポンプ無しで給水できる。これから供給される水は、車輛の洗浄水、機関車のボイラ用水などとして使用される』。

 「文庫判1/1万東京23区」(昭文社/平成14(2002)年1月刊)から

 EF65貨物列車の写真は交差点名「西品川1」の位置から、大井工場の縁に沿った大崎支線のインカーブから撮ったもので(赤矢印)、件の給水塔は線路脇に建っているように見える。

 「RM LIBRARY193 国鉄工場めぐり(中)」 (ネコ・パブリッシング/平成27(2015)年9月刊) 14.大井工場から

 国鉄工場めぐり3分冊の中に大井工場のページがある。大井工場平面図は昭和51(1976)年頃とのこと、各施設・職場の名称が記されている。図面上方中央に「給水塔」の位置を示す印が付けられている(赤文字)。大崎支線(平面図は品鶴大崎支線と記載)のすぐ脇に工場西門があり、ボイラー室のとなりが給水塔である。これが「高架水槽」ではないかと推測する。

 何でもない写真に写り込んでいた物体は、実は貴重な国鉄施設の構造物ということがわかり、同好の士からの指摘や教示はとてもありがたく刺激を受ける。何か手がかりがないかWebや鉄道書籍を探るのは趣味の醍醐味といえる。