転轍器

古き良き時代の鉄道情景

函館桟橋 冬景色

 青函連絡船は2度の渡道で乗船経験があるが何れも船舶は残念ながら撮影していない。しかも青森・函館構内での車輛航送風景にも目をやっていない。とにかく他の乗客につられて、降車後、下船後はホームを急いだように思う。単なる乗継地点として構内を観察する余裕がなかったのは悔やまれる。3度目の函館桟橋で連絡船にカメラを向けたのは幸いであった。

 “十和田丸”の全景を撮ったつもりがコマの左側は光が入って半分しか写っていない。この角度はどこから撮った構図だったのか思い出せないでいた。

 乗船したデッキで撮った記念撮影の後方に十和田丸が控えていた。函館桟橋は第1・第2バ-スがあって、私が乗船した連絡船はそのどちらからかの出航であったと思われる。残念ながら乗船した船名はわからない。出航時に聞いた銅鑼の音、動き始めて眺めた湾内の景色は何れもこの雰囲気の良いデッキで味わったことをこの写真から思い出すことができた。今改めて国鉄青函連絡船の航路を体験できて良かったと思っている。 函館桟橋 S55(1980)/3/20 

函館駅の夜景

 観光旅行で登った函館山。寒さに震えて立った先には函館市街の絶景が広がっていた。すばらしい夜景の先端は函館駅と連絡船の桟橋が海に浮かんでいるかのように見える。さらにそこから続く岸壁はまるで櫛の歯のようなヤードが照明塔に照らされてはっきりと目に映る。眼下に展開する魅惑の鉄道地帯に感激した。 函館 S55(1980)/3/19

 函館市街の夜景を堪能した帰り道、十字街で市電を見物した後、駅に来たものと思われる。観光旅行なので汽車を撮る時のような記録は無い。駅頭の時計は23時前。青函連絡船はこの後0時台に2便がある。国鉄いい日旅立ち」キャンペーンは「雪解け間近の北の空に~♪」の曲を思わず口ずさむ。 函館 S55(1980)/3/19 

美祢線の白列車

 美祢線の強烈な印象を受けたホキ4700群の白列車。遠目で見るとまるで冷蔵車のような真っ白い貨物列車であった。緑萌える景色をバックに黒いD51とワフ21000、白いホキ4700のコントラストがとてもすばらしかった。

 列車は小野田港発重安行。厚狭川に沿ってゆっくりと進む。乗務員がキャブから身を乗り出して前方を確認しているように見える。

 ワフ21000の煤けた車体に“広”の管理局標記がうっすらと見える。車体は黒を保っているが、下回りの軸受けは白に染まっている。

 ホキ4700の白くかすんだ車体に小野田セメントの社紋とレタリングがうっすらと読める。

 速度が遅いので長い編成をいつまでも堪能できた。

 ホッパ車の列はまだまだ続く。

 ホキ4700の列の後はセキ6000の列が続く。とても長い。ものすごい編成を見送った。 5893レ 美祢線四郎ヶ原~南大嶺 S47(1972)/8/11

 何往復もの石灰石列車をさばくため厚狭~湯ノ峠間に鴨ノ庄(信)、湯ノ峠~厚保間に松ヶ瀬(信)の各信号所が設けられていた。帰りの便ですれちがったD51518〔厚〕の牽く重安行白列車が美祢線で撮った最後の写真となった。 5693レ 美祢線松ヶ瀬(信) S47(1972)/8/11

 平成時代の始め頃、美祢線のネガを六つ切の銀塩写真にしてアルバムを作った。そのキャプションは『その後美祢線の情報は何もなく、前にも後にもこれがただ一度の訪問であったので今でもあの時のまま、白列車が走っているような気がする。』と結んでいた。インターネットの時代になって美祢線の画像は豊富に見ることができるようになったが、雑誌だけが頼りの昭和の時代は美祢線の話題は希少であった。

美祢線 厚狭川に沿って

 厚狭行普通列車が発車した後、美祢行返空の白いセキ編成がゆっくりと始動する。美祢線石灰石の列車本数が多く、この当時すでに小さな駅も道路の横断歩道橋のような跨線橋が設けられていた。道床は石灰石列車の往来の激しさで“白い道”と化していた。 宇部発美祢行5685レ 美祢線四郎ヶ原 S47(1972)/8/11

 小野田セメントの専用車ホキ4700はセキ6000に蓋を被せたような形態で石灰の粉が付着した白い貨車であった。美祢線石灰石輸送は2系統あり、重安発が小野田セメントで小野田港行、美祢発が宇部興産宇部港行であった。小野田セメントの編成は緩急車が付いて列車の体裁を成していたが、セキ6000の編成は緩急車が省略されていた。 D511026〔厚〕の牽く重安発小野田港行5894レ 美祢線四郎ヶ原~南大嶺 S47(1972)/8/11

 厚狭川左岸で下り列車を待つ。

 美祢線が趣味誌で紹介される機会が少なかったのは、それなりの列車本数がありながら積車編成は下り込み、空車返送で力行はするものの逆向きの運転形態がその理由と思われる。そうは言っても厚狭川沿いの河岸段丘を行くきれいに揃った清一色の専用編成は魅力であった。 宇部港発美祢行5687レ 美祢線四郎ヶ原~南大嶺

 厚狭川右岸から上り積車編成を見送る。石灰石満載のセキ6000の列は軽快に坂をかけおりて行く。セキ6000に混じって斜めアングルの入った古豪セキ1000の姿も見える。 5690レ 美祢線四郎ヶ原~南大嶺 S47(1972)/8/11

 煙たなびく編成美が撮れると待っていると、やって来たのはエンジン音を対岸に轟かす真新しいDD51だった。

 鉄橋から辺りに響き渡るリズム正しいボギー貨車のジョイント音が切れ目なく続く。 5689レ 美祢線四郎ヶ原~南大嶺 S47(1972)/8/11

美祢線 カラーフィルムの記憶

 昭和47年の夏休み、夜行列車に2泊して日豊本線筑豊本線美祢線をはや足で駆け巡った。借り物のカメラ2台にモノクロとカラーフィルムを装填して格好は良かったが、「二兎を追う者は一兎をも得ず」で慣れないことをしたおかげて出来上がった写真は皆中途半端な構図となった。

 下関からはぶどう色の旧形国電に乗車したような気がするが、夜行疲れで眠っていたのであろう、気づいたら厚狭に到着していた。厚狭で出迎えてくれたのはD51152〔厚〕の牽くセキ6000編成であった。 厚狭 S47(1972)/8/11

 当時美祢線の情報はほとんどなく、趣味誌に掲載された石灰石ピストン輸送ダイヤが魅力で未知の線へと誘われたように思う。大嶺支線が分岐する南大嶺に立ち寄ってみた。貴重なカラーフィルムをよく駅舎撮影に使ったなと我ながら感心する。願わくば船鉄バスのバス停看板を画面に入れて欲しかった。 南大嶺 S47(1972)/8/11

 屏風のような除煙板を持ったD511080〔厚〕の牽く編成はトラ・セラ・セキの列で、この時石炭輸送は終息していたが往時を彷彿とさせてくれる構図と思う。 重安発厚狭行780レ 南大嶺 S47(1972)/8/11

 機関車の向きは鉱山からの積車が正位で空車返送が逆向きなのは、同じ石灰石輸送の日田彦山線と同じであった。逆行運転の距離も日田彦山線の場合は外浜から石原町まで約30㌔、美祢線宇部港から美祢まで約35㌔とほぼ互角である。 宇部港発美祢行5687レ 美祢線四郎ヶ原~南大嶺 S47(1972)/8/11

 美祢線ローカルは厚狭~長門市間全線通し運用(下り1本のみ渋木~長門市)で厚狭機関区の気動車が運用されていた。仙崎までの直通運用が数往復あり、益田まで足を延ばすのもあった。宇部新川発仙崎行2735Dはキハ26+キハ30+キハ25+キハユニ15の4連で急行形と近郊形の塗色は山の緑と溶けあって眩しく映る。 美祢線 四郎ヶ原~南大嶺 S47(1972)/8/11

 蛇行する厚狭川と歩調を合せるように美祢線は右曲線から積車セキ6000の編成が姿を現した。 5690レ 美祢線四郎ヶ原~南大嶺 S47(1972)/8/11

 この区間で7本の専用貨物列車をやり過ごした。その中でただ1本だけDD51牽引があった。落成したばかりであろうピカピカのDD51が白い粉の付いたセキ6000の列を牽いて行った。 5689レ 美祢線四郎ヶ原~南大嶺 S47(1972)/8/11