転轍器

古き良き時代の鉄道情景

水分峠 野上川の谷間

 久大本線の豊後中村~野矢間は分水嶺の水分峠に向かって25‰の上り勾配が続く。下り列車は日田盆地、玖珠盆地をぬける度に高度を稼ぎ上り勾配は豊後三芳を出た辺りから始まっている。標高607mのサミットまで豊後中村から急峻な上り坂となる。

 標高710mの城山頂上からは野上川に沿った線路を豊後中村の発車から野矢手前までの大パノラマが楽しめる。はるか下を行く機関車のドラフト音は山間にこだまして見えなくなるまで続く絶好の位置だ。この秋に迫るDL化を前に久大本線蒸機時代最後の記念にと、幾度か挑戦して断念した登頂を果たしたとお聞きした。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 昭和45(1970)年の山肌は樹木がまだ育っていないことがわかる。城山山頂には「昭和38年4月~5月植栽」の記念碑が建ち、「大分県九重町」が刻まれていた。眼下の列車の歩みは遅々とし、吹き上げる煙は客車に線路に沿って後に続く。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 豊後中村を出て野矢までの間に野上川を4度渡る鉄橋(第2~第5野上川)と、70mの鋳物師釣トンネルがある。列車は大パノラマの終わりとなる野矢手前の飛川橋梁を渡っている。汽車の前進とともに移り行く絶景に感動した。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 城山中腹から水分峠側を望む。線路は画面右側野矢方から左に流れ、国道210号線は峠から降りてきて線路と並行する。野上川の谷がこんなにも深いことがよくわかる。野矢を出た上り列車が坂を下って来る。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/26

 水分峠西側の下り坂を鳥栖行が掛け降りて来る。牽引機は遠目から見てもエアータンク上のランボードが反り返っているのでD6062〔大〕とわかる。線路築堤の下はその名前が玖珠川に変わる野上川が谷底深くで流れている。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/26

 25‰上りに挑むD6065〔大〕の力強い奮闘が伝わってくる。オハユニ6157〔分オイ〕が続き、郵便マークとなりのサボは青地白抜きの楷書体に見える。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/4/5

 豊後中村を発車、野上川を2度渡り終えて左曲線をしなやかに行くD6060〔大〕。6輛の客車は内側に編成を傾けて続く。 629レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/24

 遠くに霞む由布高原の山々を背景に上り勾配に喘ぐ列車を名残り惜しい気持ちで見送る。D6060〔大〕の639レはR300の左曲線から山影に機影が隠れるまでかなりの時間を要した。

 原野と峡谷が織りなす原風景を汽車が行く。罐はデフの形状からD6069〔大〕と思われる。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/3/31

 写真は全て:小川秀三さん

 津島軽便堂写真館

津島軽便堂写真館のホームページは各地の鉄道情景を魅力的に発信され、これまで閲覧させていただいていた。久大本線のページは豊後中村~野矢間の城山登頂の苦労と雄大な景色の眺望が披露されている。併せて同日撮影の宮原線C11も貴重な記録として心に残る。

文通の写真から 汽車憧憬

 D51499〔福〕+C1232〔舞〕 福知山 S45(1970)/8/20 撮影:MURAさん 所蔵:転轍手
 後藤工場変形デフを持ったD51499はあまりにも有名でその存在は知っていた。C12を従えているので舞鶴線へ歩を進めるのであろうか。福知山は鉄道の要衝で、福知山機関区は山陰本線福知山線舞鶴線宮津線播但線の基地であった。

 C58322〔敦一〕 C12215〔舞〕 西舞鶴 S45(1970)/8/20 撮影:MURAさん 所蔵:転轍手
 京都府の東舞鶴福井県敦賀を結ぶ小浜線敦賀第一機関区のC58が活躍していた。時刻表を開くと山陰と北陸を結ぶルートとして福知山から敦賀まで山陰本線舞鶴線小浜線が連続して掲載され、優等列車も多く設定されていた。西舞鶴宮津線の起点で機関区も置かれC58・9600・C12が配置されていた。

 C56108〔木〕 備後落合 S46(1971)/4/2 撮影:MURAさん 所蔵:転轍手
 木次線管理所のC56が行く出雲坂根の3段式スイッチバックは有名だった。芸備線と接する備後落合はC58やC56が佇む矩形庫がある趣きのある駅で印象深い。短い貨物列車にローカル線には不似合いなワキ1000が連結されている。

 C58190〔奈〕 奈良線黄檗~宇治 S46(1971)/7/17 撮影:乙訓長岡さん 所蔵:転轍手
 宇治川橋梁をC58190〔奈〕の牽く下り貨物列車が渡っている。黄檗(おうばく)は難読駅名のひとつ。宇治は銘茶や清酒の製品輸送やユニチカ(旧日本レイヨン)の専用線があって貨物輸送は旺盛であったようだ。撮影時、奈良運転所には10輛のC58がいて奈良線関西本線で運用されていた。

 C56111〔長〕 飯山線上今井~替佐 S46(1971)/8/6 撮影:乙訓長岡さん 所蔵:転轍手
 飯山線信越本線豊野と上越線越後川口を結ぶ107.5Km(距離は長野から)の路線で、途中長野運転所の支所がある飯山、長野県境の森宮野原、転車台がある十日町の中継点がある。C56111〔長〕のプレートは自慢の形式入でとても大きく見える。長野・金沢管理局管内でのC56配置は長野(転)・中込・上諏訪糸魚川・七尾の各機関区で、飯山線小海線大糸線七尾線で運用されていた。

 C12230〔中〕 明知線岩村~花白 S47(1972)/7/22 撮影:HAYAさん 所蔵:転轍手
 明知線中央本線恵那と明知を結ぶ25.2Kmのローカル線でC12が貨物列車を牽いていた。下り明知行が正位、上り恵那行が逆行運転であったようだ。

 C5820〔俣〕 二俣線波田 S44(1969)/3/27 撮影:HAYAさん 所蔵:転轍手
 静岡県西部の掛川から遠江森、遠江二俣、金指、三ケ日を経て県境の新所原へ至るのが二俣線である。東海道本線の迂回線として使われることは無く、みかんや原木輸送に8620を引継いだC58がその任に当っていた。昭和46年3月にはDE10に置換えられている。

 C11の牽く上井発関金行425レ 倉吉線上井~上灘 S47(1972)/1/4 撮影:YAMAさん 所蔵:転轍手
 上井とは?撮影後の昭和47年2月14日に山陰本線上井は倉吉に改称され、同時に倉吉線倉吉は打吹に改称されている。下り列車はC11逆向きで走る。

 C11の牽く関金発上井行426レ 倉吉線上井~上灘 S47(1972)/1/4 撮影:YAMAさん 所蔵:転轍手
 関金折返しの上り列車が天神川を渡る。

 D51720〔山〕 小郡 S46(1971) 撮影:NOMUさん 所蔵:転轍手
 益田行723レが小郡を後にする。山口線管理所の11輛の集煙装置付D51山口線で働いていた。昭和48年10月でDL化されると、D51720は長門へ移動し活躍の場は山陰本線となった。

 C57134〔佐〕 佐倉 S44(1969)頃 撮影:中原街道さん 所蔵:転轍手
 千葉発銚子行325レが佐倉を出る。手前が総武本線、奥が成田線で撮影時佐倉機関区にはC57・C58・8620が配置されて、総武本線成田線・房総東西線東金線で運用されていた。

キハ58系急行“由布”の終焉

 キハ58系急行“由布”は新しい衣装に衣替えし、一部国鉄色が入っていた編成は全車統一された。5輛編成の内キハ65が3輛組まれている。 由布院 H3(1991)/6

 国鉄時代の窓回り赤の塗分けから裾境のツートンに変わったのでおでこが広くなったように感じる。落ち着いたカラーリングにインパクトのあるヘッドマークが印象的。ナンバーはキハ585002と読める。

 キハ65+キハ58+キハ65+キハ65+キハ58の並びは上掲由布院の時と同じで、新急行色はまだ1輛だけの時を撮っていた。 西大分 H1(1989)/8

 新急行色が揃った4輛編成。先頭はキハ585003と読める。 日豊本線西大分~大分

 シーサイドライナー色塗替え途上の姿だろうか。平成4(1992)年7月改正で、キハ58系急行“由布”はキハ185系特急“ゆふ”に格上げされて終焉を迎えた。 西大分 H4(1992)

民営化後の由布院

 由布院構内を起点側から見る。1番線は民営化直前に投入された軽快気動車キハ31が停車、3番線は上り急行列車を待つ乗客が佇んでいる。「ゆふいん温泉郷」の縦看板がよく目立つ。 由布院 H2(1990)/3

 上り急行列車が雪の積もった盆地を行く。 由布院~南由布 H2(1990)/3

 急行編成は新しい塗色に塗替えが進んでいた。先頭はキハ58607分オイ車であるが、国鉄時代の配置区標記が変わって寂しくなった。  由布院 H2(1990)/3

 中間キハ65 2輛を両端キハ58ではさむ強力編成が紫煙をあげて上り勾配に挑む。最後尾はキハ585003でキハ58の5000番台車があったことに驚く。改めて調べてみると、5000番台は急行“火の山”と“由布”の座席指定席車として改造されたリクライニングシート車で、国鉄時代に行われたとのことであった。

 駅舎が新しく建て替えられ、それに続くホーム上屋や跨線橋も意匠が凝らされていた。温泉地、観光地のシンボルとしての存在感が増していく。やって来る車輛はスタイリッシュなデザインとなって、国鉄時代は遠くになりにけりと痛感する。 由布院 H3(1991)/6

横浜機関区

 新鶴見機関区D51の仕事場は新鶴見操車場から高島貨物線に点在する貨物駅までであったのだろうか。横浜機関区の扇形庫は高島貨物駅ヤードの終端にあったと思われる。上路式転車台に載るD51516〔新〕の後方にとても優雅に映る扇形庫が見える。顔を出したDD13はナンバー192と読める。品川の機関車のようだ。

 転車台の支柱は「確認」の文字が読める。傘の付いた長い煙突が規則正しく並んでいる。D51516の後部標識灯は前後どちらも片側しか付いていない。

 転車台へ進むのはD51130〔新〕、機留線はD51558〔新〕が待機している。テンダの後方に見える三角屋根の塔は何だろうか。まるで路面電車の分岐部やバス転回場に建つ見張り台のようだ。

 写真:juncyan jiiji 故片岡淳一さん 横浜機関区 S45(1970)/2/14

 片岡淳一さんは闘病中、バズ・ライトイヤーに重ねて「もうダメだと思ったりまだイケると思ったり」と笑わせてくれて頑張っているものと思っていた。宣告よりも早く旅立ったことを知り、仏前に手を合わせに新幹線で東上した。

 投宿したホテルから京浜急行鶴見駅が見えた。青春時代の友と会い、半世紀に及ぶお互いの時を語りあう。国鉄鶴見駅京浜急行鶴見駅の間の三角地帯は地平の京急線国鉄引込線があったこと、「ありあけのハーバー」はここ鶴見が発祥の地ということを聞いた。

 重厚感のある鶴見線の乗場に立つ。つい若かりし頃の自分になりきって暗いホームに旧形国電が入って来るのを想像する。「鶴見線80周年までの足跡」が壁面に飾られている。貨物専用鉄道としての開業はつい九州の石炭・石灰石輸送で発足した私鉄と重ねてしまう。

 バスを待つ間、横浜市交通局を始めとした路線バスのLED行先表示を見る。「ここは知っているか」と言わんばかりに、かつての東横線小田急線、国鉄線の懐かしい駅名を掲げて次々と通り過ぎる。 横浜駅西口

 横浜の地図を見て、鶴見・保土ヶ谷磯子・上大岡も、菊名・日吉・長津田上星川二俣川等の知っている駅は皆横浜市にあることを改めて認識した。横浜市は広大だ。ミナトヨコハマ、横浜港はというと、鶴見沖から八景島辺りまでらしい。 横浜駅東口

 横浜駅9・10番線に思いを馳せる。私が知っていた横浜駅東海道横須賀線が同一の線路を使っていたので9・10番線があった所は貨物線であった。

 昭和50年の横浜駅8番線。となりに9・10番の新ホーム建設中の時であった。ここから根岸線桜木町へ行けば高島貨物駅に鎮座する瀟洒な横浜機関区扇形庫へ辿り着くはずである。中学生だった彼はバスを降りて桜木町行の電車に乗ったのだろうか。この度の五感で味わった横浜詣でを彼への鎮魂歌としたい。