転轍器

古き良き時代の鉄道情景

東九州

豊州路の汽車電車

三重町2面3線の上下本線と副本線は列車で埋まり賑わいをみせている。後方の貨物上屋や隣接する規模の大きい農業倉庫はかつての貨物輸送の隆盛を見るようだ。駅長が立つ上り1番線は別府発三角行704D“火の山4号”、下り2番線は熊本発別府行701D“火の山1号”、そ…

豊州路の汽車電車

14時30分頃の豊後豊岡上りホーム。ED7615〔大〕の牽く荷物列車が駆けぬけて行く。日豊本線は大川司信号場から亀川まではまだ単線の時代である。ED7615は昭和42年10月の電化の際に新製配備されたED769~ED7626まで18輌のグループであった。 日豊本線豊後豊岡 …

泉都別府の玄関口 別府駅

別府駅は日豊本線ではあるが、豊肥本線・久大本線の急行や普通の始発終着駅でもあって列車密度は高く、次から次へと特急・急行・普通の電車や気動車が入っては出て行く、忙しくそして賑やかな駅である。中線2線は熊クマと分オイの12系6連2編成が置かれ、高架…

別府湾の風景 昭和50年代の別府~大分間

“彗星5号”と貨物列車の交換 田ノ浦の波打ち際が見える岬で下り“彗星5号”とホキ800を連ねた上り貨物列車が行き交う。 “彗星”は昭和43年10月、新大阪~宮崎間に20系でデビュー、“富士”に続いて日豊本線2本めのブルートレインが誕生した。その後着々と増発が行…

別府湾の風景 昭和50年代の別府~大分間

別府発博多行604D“由布4号” 波穏やかな別府湾を見渡せる岸壁から遠望すると、6連のキハ58系編成がゆっくりと山がせり出す海岸線をなぞって進んで来るのが見える。それは別府発博多行“由布4号”で、先頭からキハ58603〔分オイ〕+キハ65+キハ58+キハ58+キハ…

佐志生越え

日豊本線は小倉から九州東海岸を鹿児島まで縦断する。大分県内の線形は周防灘にせり出した国東半島と、別府湾から豊後水道につき出た佐賀関半島を横切るように描かれている。宇佐から杵築にかけて国東半島のつけ根を越えるのが立石峠、大分平野を直進し幸崎…

14系“くにさき”とキハ80系“にちりん”の終焉 昭和55年10月ダイヤ改正

昭和55年10月ダイヤ改正は概ね特急の増発と急行の削減に終始した内容であった。特急“富士”が宮崎~西鹿児島間が廃止されたのを始めとして、関西対九州夜行急行は全廃された。九州関連は次の通りとなった。 廃止 おおよど 阿蘇・くにさき 雲仙・西海 ぎんなん…

おとぎ号 日本童話祭

日本のアンデルセンといわれた久留島武彦は大分県玖珠町出身で、久大本線豊後森駅が位置する玖珠盆地はメルヘン調のテーブルの形をした山々に囲まれて玖珠町は「童話の里」と呼ばれている。童話作家久留島武彦の功績をたたえ、昭和25年から毎年5月5日のこど…

さようなら宮原線号 大分舞鶴高校34回生文化祭

宮原線廃止まであと1ヶ月となった昭和59年11月は奇しくも豊後森機関区開設50周年の月であった。50周年の式典に備えて再塗装されてきれいになったキハ0741の写真を撮り終えて、さあ次の列車までどう時間を潰そうかと思案していた矢先にヘッドマークを掲げた…

津久見湾を望む

日豊本線を走る583系は昭和43年10月までの特急“みどり”(この時は581系)以来で、寝台特急“彗星”は50年3月、昼行特急“にちりん”は55年10月に復活した。485系中心の“にちりん”の中で2往復の583系は異彩を放っていたが、昭和59年2月改正は鹿児島・日豊特急が48…

D51牽引の旅客列車

C58なき後の大分運転所はDF50の予備機としてC57115が残ったが、その後旅客列車を撮りに出かけることもなくなったので動静は定かではない。蒸機列車は南延岡機関区のD51が牽く貨物列車だけになったので貨物の通過時刻に線路端へ向かい客レを追うことはなくな…

C58最後の日 昭和47年5月31日

昭和47年春、新製DE10落成の都合で豊肥本線・日豊本線と大分入換の無煙化は2段階に分けて行われた。昭和47年3月15日改正は新幹線岡山開業の日、その前日が豊肥本線大分~豊後竹田間旅客列車牽引C58の最後の日であった。DE10が出揃って迎えた6月1日は日豊本線…

柳ヶ浦機関区跡

柳ヶ浦駅は周防灘に面した広大な宇佐平野を流れる駅館川の左岸に位置する。どこまでも続く穀倉地帯の先に駅の跨線橋や建物が見える。「キネマ旬報増刊蒸気機関車2号」(キネマ旬報社/昭和42年10月刊)に掲載された電化前の柳ヶ浦機関区のレポートから右端の…

煉瓦の機関庫が載った2冊

はるか昔の小学生時代、列車の窓から見えた煉瓦の蒸気機関車車庫の光景が目に焼きついている。大きな中継駅にあるその機関区は柳ヶ浦機関区。配置のD50とD60は本線の貨物と立石峠の補機運用に就き日豊本線の要衝を守っていた。昭和42年の電化で機関区は廃止…

電車特急“みどり”の不思議

昭和42年10月は日豊本線幸崎電化が開業した時である。当時私は汽車好きの小学校6年生、形式は後年知ることになるが、客車はドームがスマートな動輪3つの機関車(C57)、貨物はこぶが2つ、動輪4つの機関車(D50)の牽く列車を中津駅で見ていた。ある日それら…

国鉄バス佐賀関線

昭和60年夏、かつて存在していた日本鉱業佐賀関鉄道の廃線跡を巡ってみた。幸崎から佐賀関半島の海岸沿いを走る国道から築堤や橋梁、トンネル跡を撮りながら「東洋一」と詠われた精錬所の大煙突と漁港の街、佐賀関へ着いた。車輌の居ない景色は物足りなく、…

9600の旅客列車

昭和43年秋頃、中学校の部活を終えて帰る頃は辺りは暗闇に包まれていた。上り列車はちょうどその頃にやって来て、機関車のナンバーは「59670」や「79602」等「C」や「D」の付かない数字だけが並んだプレートを不思議に思っていた。汽車の雑誌を読むように…

豊肥本線のC58 昭和44年~47年の記録

辺りが暗くなり中学校の部活を終えて帰る頃、上り列車がやって来る。機関車は5桁数字が並ぶプレートを付けていたがある日アルファベットのCが付いたプレートを発見、以後この時間に現れる機関車はC58ということを知る。当時C58は105・112・115・124・224・22…

碇山のふもと 滝尾周辺

豊肥本線滝尾は大分平野に広がる田園地帯の中、標高の低い碇山のふもとにある大分からひとつめの小さな駅であった。のどかな田舎の景色に朝夕はC58の牽く通勤通学列車が、日中はC58と9600が牽く貨物列車が のんびりと走っていた。 碇山午前7時09分の構図。海…

津久見の汽車風景

臼杵から津久見へ向かうには豊後水道につき出た半島を越えねばならず、昔は半島の稜線に沿って十国峠を越えて津久見湾へ出る難所であった。鉄道は臼杵津久見間9.7km、駅間に徳浦信号場をはさみ8つのトンネルで山を越える。臼津峠は国道の峠名で鉄道にその名…

日本セメント佐伯工場への引込線

海崎駅に立寄った昭和61年から30数年の月日が流れていた。セメント工場の引込線のことは気にはなっていたが時の流れに飲み込まれてしまっていた。そんな折国土地理院のWEBで海崎駅付近の空中写真を見つけ、駅から工場へ引き込まれた専用線の軌跡を確認するこ…

海崎黄昏時

所用で佐伯に行った帰り道、日没時刻にもかかわらず佐伯からひとつめの海崎駅に立寄ってみた。何の変哲のない上下2線だけの普通の駅であるが、そこに立ち止まらせたのには訳があった。駅の近くの海岸沿いに要塞のような日本セメントの工場があり、かつて専用…

DF50ー昭和40年代後半の日豊本線ー

日豊本線上り1本だけの本線通しの長距離鈍行が健在であった。西鹿児島5:11発、大分16:03着16:20発、門司港21:02着で日豊本線全線(一部鹿児島本線含む)476.9㌔を16時間かけて走破する壮大な行路であった。かつての540レのなごりでDF50重連の仕業は続いてい…

哀愁のデロクマル

汽車の写真を撮りに初めて大分運転所を訪れたのは昭和44年春。時すでに動力近代化の波は押し寄せ、日豊・豊肥・久大の各本線でかろうじて残った大分・熊本・南延岡の機関車達を見ることができた。なかでも久大本線はDL化目前の時でわずかな期間でD60を撮るこ…

“富士”と“日南”の交換ー今津以南単線時代の頃ー

今津駅は周防灘に面した中津平野が広がる田園地帯の中にひっそりと佇んでいた。上りのブルートレインが通る時刻がせまってきたので国道から細道に入り通りがかったのがこの位置であった。構内小倉方を望むと上り本線は特急“富士”が通過、カニ24のテールサイ…

鬼瀬 50系客車の頃

九州管内の50系客車の進出は、昭和53年3月門モコ配置で筑豊本線、昭和54年2月分オイ配置で日豊本線・田川線、54年4月豊肥本線、54年10月熊クマ配置で鹿児島本線と続き、55年11月門トス・分オイに順番が回ってきて久大本線が旧形客車から50系客車に置き換えら…

豊後竹田行

昭和44年春、豊肥本線の客車列車は大分~豊後竹田間2往復(内豊後荻発1本あり)と熊本~宮地間1往復が運転されていた。旅客列車のディーゼル化は昭和39年3月と早く、かろうじて朝夕の輸送力列車が客車で残されていた。6輛の客車の先頭に立つC58224〔大〕は…

鬼瀬

昭和45年夏、久大本線の蒸機列車は久留米口で6往復半、大分口で5往復が健在で大分運転所D60-8輛と豊後森機関区8620-5輛が運用されていた。10月のDL化を目前に落成したばかりのDE101000番台も運用に入ってきて、蒸機牽引列車は風前の灯となっていた。 鬼瀬は…

耶馬渓線の思い出

小学生時代の一時期を中津市で過ごしたことから、耶馬渓線を見る機会があり、また乗車する環境にあった。車社会到来少し前のことであろうか、多くの人が耶馬渓線に乗っていた。憧れの的は機関車の牽く列車で、ディーゼル機関車牽引の混合列車と朝夕の長編成…

中津の残影

他界した父親が遺したネガから中津駅で撮ったスナップを発掘する。そこには車輛を撮ったものではないが、キハ105“せせらぎ”+ハフ14の列車が写っていた。当時の耶馬渓線は気動車がトレーラーを牽く、いわゆるD+T、D+T+Dの編成が当り前に走っていた。ハフ1…