転轍器

古き良き時代の鉄道情景

東九州

おとぎ号 日本童話祭

日本のアンデルセンといわれた久留島武彦は大分県玖珠町出身で、久大本線豊後森駅が位置する玖珠盆地はメルヘン調のテーブルの形をした山々に囲まれて玖珠町は「童話の里」と呼ばれている。童話作家久留島武彦の功績をたたえ、昭和25年から毎年5月5日のこど…

さようなら宮原線号 大分舞鶴高校34回生文化祭

宮原線廃止まであと1ヶ月となった昭和59年11月は奇しくも豊後森機関区開設50周年の月であった。50周年の式典に備えて再塗装されてきれいになったキハ0741の写真を撮り終えて、さあ次の列車までどう時間を潰そうかと思案していた矢先にヘッドマークを掲げた…

津久見湾を望む

日豊本線を走る583系は昭和43年10月までの特急“みどり”(この時は581系)以来で、寝台特急“彗星”は50年3月、昼行特急“にちりん”は55年10月に復活した。485系中心の“にちりん”の中で2往復の583系は異彩を放っていたが、昭和59年2月改正は鹿児島・日豊特急が48…

D51牽引の旅客列車

C58なき後の大分運転所はDF50の予備機としてC57115が残ったが、その後旅客列車を撮りに出かけることもなくなったので動静は定かではない。蒸機列車は南延岡機関区のD51が牽く貨物列車だけになったので貨物の通過時刻に線路端へ向かい客レを追うことはなくな…

C58最後の日 昭和47年5月31日

昭和47年春、新製DE10落成の都合で豊肥本線・日豊本線と大分入換の無煙化は2段階に分けて行われた。昭和47年3月15日改正は新幹線岡山開業の日、その前日が豊肥本線大分~豊後竹田間旅客列車牽引C58の最後の日であった。DE10が出揃って迎えた6月1日は日豊本線…

柳ヶ浦機関区跡

柳ヶ浦駅は周防灘に面した広大な宇佐平野を流れる駅館川の左岸に位置する。どこまでも続く穀倉地帯の先に駅の跨線橋や建物が見える。「キネマ旬報増刊蒸気機関車2号」(キネマ旬報社/昭和42年10月刊)に掲載された電化前の柳ヶ浦機関区のレポートから右端の…

煉瓦の機関庫が載った2冊

はるか昔の小学生時代、列車の窓から見えた煉瓦の蒸気機関車車庫の光景が目に焼きついている。大きな中継駅にあるその機関区は柳ヶ浦機関区。配置のD50とD60は本線の貨物と立石峠の補機運用に就き日豊本線の要衝を守っていた。昭和42年の電化で機関区は廃止…

電車特急“みどり”の不思議

昭和42年10月は日豊本線幸崎電化が開業した時である。当時私は汽車好きの小学校6年生、形式は後年知ることになるが、客車はドームがスマートな動輪3つの機関車(C57)、貨物はこぶが2つ、動輪4つの機関車(D50)の牽く列車を中津駅で見ていた。ある日それら…

国鉄バス佐賀関線

昭和60年夏、かつて存在していた日本鉱業佐賀関鉄道の廃線跡を巡ってみた。幸崎から佐賀関半島の海岸沿いを走る国道から築堤や橋梁、トンネル跡を撮りながら「東洋一」と詠われた精錬所の大煙突と漁港の街、佐賀関へ着いた。車輌の居ない景色は物足りなく、…

9600の旅客列車

昭和43年秋頃、中学校の部活を終えて帰る頃は辺りは暗闇に包まれていた。上り列車はちょうどその頃にやって来て、機関車のナンバーは「59670」や「79602」等「C」や「D」の付かない数字だけが並んだプレートを不思議に思っていた。汽車の雑誌を読むように…

豊肥本線のC58 昭和44年~47年の記録

辺りが暗くなり中学校の部活を終えて帰る頃、上り列車がやって来る。機関車は5桁数字が並ぶプレートを付けていたがある日アルファベットのCが付いたプレートを発見、以後この時間に現れる機関車はC58ということを知る。当時C58は105・112・115・124・224・22…

碇山のふもと 滝尾周辺

豊肥本線滝尾は大分平野に広がる田園地帯の中、標高の低い碇山のふもとにある大分からひとつめの小さな駅であった。のどかな田舎の景色に朝夕はC58の牽く通勤通学列車が、日中はC58と9600が牽く貨物列車が のんびりと走っていた。 碇山午前7時09分の構図。海…

津久見の汽車風景

臼杵から津久見へ向かうには豊後水道につき出た半島を越えねばならず、昔は半島の稜線に沿って十国峠を越えて津久見湾へ出る難所であった。鉄道は臼杵津久見間9.7km、駅間に徳浦信号場をはさみ8つのトンネルで山を越える。臼津峠は国道の峠名で鉄道にその名…

日本セメント佐伯工場への引込線

海崎駅に立寄った昭和61年から30数年の月日が流れていた。セメント工場の引込線のことは気にはなっていたが時の流れに飲み込まれてしまっていた。そんな折国土地理院のWEBで海崎駅付近の空中写真を見つけ、駅から工場へ引き込まれた専用線の軌跡を確認するこ…

海崎黄昏時

所用で佐伯に行った帰り道、日没時刻にもかかわらず佐伯からひとつめの海崎駅に立寄ってみた。何の変哲のない上下2線だけの普通の駅であるが、そこに立ち止まらせたのには訳があった。駅の近くの海岸沿いに要塞のような日本セメントの工場があり、かつて専用…

DF50ー昭和40年代後半の日豊本線ー

日豊本線上り1本だけの本線通しの長距離鈍行が健在であった。西鹿児島5:11発、大分16:03着16:20発、門司港21:02着で日豊本線全線(一部鹿児島本線含む)476.9㌔を16時間かけて走破する壮大な行路であった。かつての540レのなごりでDF50重連の仕業は続いてい…

哀愁のデロクマル

汽車の写真を撮りに初めて大分運転所を訪れたのは昭和44年春。時すでに動力近代化の波は押し寄せ、日豊・豊肥・久大の各本線でかろうじて残った大分・熊本・南延岡の機関車達を見ることができた。なかでも久大本線はDL化目前の時でわずかな期間でD60を撮るこ…

“富士”と“日南”の交換ー今津以南単線時代の頃ー

今津駅は周防灘に面した中津平野が広がる田園地帯の中にひっそりと佇んでいた。上りのブルートレインが通る時刻がせまってきたので国道から細道に入り通りがかったのがこの位置であった。構内小倉方を望むと上り本線は特急“富士”が通過、カニ24のテールサイ…

鬼瀬 50系客車の頃

九州管内の50系客車の進出は、昭和53年3月門モコ配置で筑豊本線、昭和54年2月分オイ配置で日豊本線・田川線、54年4月豊肥本線、54年10月熊クマ配置で鹿児島本線と続き、55年11月門トス・分オイに順番が回ってきて久大本線が旧形客車から50系客車に置き換えら…

豊後竹田行

昭和44年春、豊肥本線の客車列車は大分~豊後竹田間2往復(内豊後荻発1本あり)と熊本~宮地間1往復が運転されていた。旅客列車のディーゼル化は昭和39年3月と早く、かろうじて朝夕の輸送力列車が客車で残されていた。6輛の客車の先頭に立つC58224〔大〕は…

鬼瀬

昭和45年夏、久大本線の蒸機列車は久留米口で6往復半、大分口で5往復が健在で大分運転所D60-8輛と豊後森機関区8620-5輛が運用されていた。10月のDL化を目前に落成したばかりのDE101000番台も運用に入ってきて、蒸機牽引列車は風前の灯となっていた。 鬼瀬は…

耶馬渓線の思い出

小学生時代の一時期を中津市で過ごしたことから、耶馬渓線を見る機会があり、また乗車する環境にあった。車社会到来少し前のことであろうか、多くの人が耶馬渓線に乗っていた。憧れの的は機関車の牽く列車で、ディーゼル機関車牽引の混合列車と朝夕の長編成…

中津の残影

他界した父親が遺したネガから中津駅で撮ったスナップを発掘する。そこには車輛を撮ったものではないが、キハ105“せせらぎ”+ハフ14の列車が写っていた。当時の耶馬渓線は気動車がトレーラーを牽く、いわゆるD+T、D+T+Dの編成が当り前に走っていた。ハフ1…

大分交通耶馬渓線の車輛たち

キハ101 やまばと 昭和8年に登場した国鉄ガソリンカーキハ40000と同形で、耶馬渓鉄道の自社発注車。キハ101からキハ104までの4輛が存在する。キハ101が“やまばと”、キハ102が“かわせみ”、キハ103が“ひよどり”、キハ104が“せきれい”と愛称が付けられている。 …

大分交通中津車輛区

鉄道全盛時代、大分県北には私鉄の大分交通4路線が健在であった。それは杵築起点の国東線(杵築~国東/30.3km)、宇佐接続の宇佐参宮線(豊後高田~宇佐八幡/8.8㎞)、豊前善光寺接続の豊州線(豊前善光寺~豊前二日市/15.5㎞)、そして中津起点の耶馬渓線(…

東別府界隈

別府市街の高架線を特急“にちりん”が行く。別府駅は昭和41年9月に高架化され、前後の線形は高架に合わせて15‰の勾配がついている。上り列車は東別府を通過すると朝見川の手前で大きく右に曲がる。 日豊本線別府~東別府 S61(1986)/6 東別府界隈を後方の山裾…

若宮踏切にて

向之原駅東側、若宮踏切で下り貨物列車を待つ。鳥栖発大分行の691レを名乗る貨物列車は豊後森から列車番号は6691レと変わり、豊後森以東は物量が少なくなるのか不定期列車となっていた。豊後森を出ると豊後中村、野矢で長時間停車し、野矢では別府行“由布1号…

鶴崎駅・住友化学専用線・九州石油専用線の記憶

日豊本線高城から鶴崎にかけての海側埋立地は、昭和39年の新産業都市の指定により石油化学、石油精製、鉄鋼の工場が立地し、大分鶴崎臨海工業地帯が形成された。九州石油専用線はその時に、住友化学は昭和14年の操業で住友化学専用線はその時代の敷設と思わ…

湯平 その後

宮原線撮影の帰途に湯平駅に立寄ってみた。客車は50系に置換ったもののDE10牽引列車の本数は昭和53年10月時点と同本数で運転されていた。駅はかつての面影は消え失せ、すっかり変わり果てていた。信号機が自動化される前にはなかった中継信号機や出発反応標…

湯平 昭和39年頃

父親が遺したネガに鉄道ものがないか捜索した結果、昭和39年頃に撮られた人物写真の背景に湯平駅の様子が写っているものを見つける。煤煙が付いたトンネルポータル、山を越える多数の通信線電柱、腕木式信号機、枕木で組まれた倉庫などは鉄道全盛期の構図と…