転轍器

古き良き時代の鉄道情景

日本セメント佐伯工場への引込線

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 海崎駅に立寄った昭和61年から30数年の月日が流れていた。セメント工場の引込線のことは気にはなっていたが時の流れに飲み込まれてしまっていた。そんな折国土地理院のWEBで海崎駅付近の空中写真を見つけ、駅から工場へ引き込まれた専用線の軌跡を確認することができた。

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 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス MKU656X-C4-11 昭和40(1965)年 臼杵

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 空中写真と現在の配線、当時の鉄道線路が忠実に描かれた佐伯市住宅地図をもとに駅と専用線の配線を書いてみた。駅構内は下り線山側に側線が敷かれ、セメント工場内は場内の一番奥まで引き込まれていた。

 佐伯市史によるとセメント工場は大正15年に操業開始。鉄道は豊州線が大正5年佐伯まで、大正12年に重岡~市棚が開通し日向路へ進み線名は日豊線と変わっていく。海崎は大正12年に開業している。

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 現在も引上線の跡は確認できる。 海崎佐伯寄り構内 R2(2020)/2
 海崎駅で花壇の手入れに余念のないボランティア駅長のお母さんに昭和40年頃の様子を聞くことができた。「当時は海崎駅から佐伯駅まで列車通学していました。大分から来る下り列車は超満員で駅員が乗客を無理やり押し込む光景が毎朝の風物詩でした」。私の頭によぎるのはその列車、C55、C57、それともDF50が牽いてきたのだろうか。

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 セメント工場へ向かう引上げ線側の橋台。
  ボランティア名誉駅長は「セメント工場への引込線で蒸気機関車が行き来していたのは見たことあります」と。さらに「駅は十数名の駅員さんがいて官舎もありました。駅前は賑やかで商店も建ち並んで活気がありました」と話は続いた。

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  工場側の橋台もついこの間まで鉄橋が架かっていたような雰囲気が漂う。頭を赤く塗られた標柱は境界を示すものだろうか。

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 本屋寄りの側線はそのまま残っている。
  「私の身内もセメント工場に勤めていました。工場のおかげで町は潤い、人の数も多かった。当時は学校のクラス数も多く、工場脇、岬の神社のお祭りは大勢の子供で溢れていました」。良きあの時代の光景を想像してみる。

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  駅前はバス停がぽつんのあるだけ。商店や建物が歯抜けのように無くなっていた。
  以前、国鉄機関士OBの方から「海崎と津久見専用線は直接本務機が入って行った。セメント積の貨車をつなぐととたんに重たくなった」話を聞いていた。日田彦山線を走っていた日本セメントのホキ3500等のホッパ車は日豊本線では縁がなく、セメント積の貨車は何だったのか、テム300しか思い浮かばない。
  鉄道輸送の記述がないか「80年の歩み1883ー1963日本セメント株式会社」(昭和38年刊)を探してみた。佐伯工場関連では「昭和27年4月、回転窯増設工事の完成で生産力が増強された。海上バラ輸送を行う為の出荷設備の拡張が行われた」とあり、製品輸送は鉄道よりも沿岸立地を生かした船舶が主であったことがわかる。

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 数年前に図書館で発見した貨物統計年表は駅別石炭到着実績の数値が記載されていた。まるで鉄道愛好者のためにと思えるような無蓋車と石炭車の区分、15トン積2軸貨車が到着した状況がよくわかる。各工場の燃料は石油に変わる前の時代と思われ、筑豊からの石炭が到着していたものと想像する。年度ごとに増加する津久見に対して海崎は一気に減少に転じているのは、陸路から海上輸送になったものであろう。(津久見のトム車数が空欄なのは分厚い本のコピーでとじ部が写っていなかったため不明)

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 昭和40年度のベスト20で海崎駅を見ると発送トン数にランクインするものの到着はなく、日本セメントの製品出荷で貨物収入を稼いでいることになる。発送トン数上位の宇島よりも貨物収入が多いのに驚く。ベスト20はほとんどが日豊本線、細島線で豊肥、久大本線はごくわずかである。昭和32年版全国専用線一覧表に記載された豊後森や日ノ影線槇峰、日ノ影は登場していない。

 佐伯市の図書館で日本セメントの鉄道輸送の何か手がかりがないか調べた際、逆にもう既に鉄道輸送は終了している、といった資料しか発掘できなかったのは残念であった。佐伯市小学校社会科部編「わたしたちの佐伯市昭和58年度版」(3・4年生社会科資料)から

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 海崎駅となりに立地する日本セメント工場へはもう鉄道線は描かれていない。線路が剥された時期はいつ頃であろうか。佐伯からの興国人絹への専用線はまだ健在であったが昭和59年秋頃には廃止されている。

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 セメントの原料は石灰石やねん土、けい石や鉱さいということがよくわかる。いずれも近隣から調達ができ鉄道に頼らなくても良かったこともうかがえる図である。福岡県の香春や船尾のような内陸立地は鉄道輸送が必須であったが、その点で海崎は海上輸送によるところが大であった。

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 製品出荷も一目瞭然、船舶とトラックである。我々が習った社会科は必ず鉄道が登場し、それがまた憧れの的となった。現在の社会科で産業にふれる時、鉄道が登場する場面は少なくなっているであろう。残念ながら時代の流れはそうなっている。