駅の風景
国鉄時代末期は入換を行う貨物列車が無くなり、荷物列車も終わり、馴れ親しんできた気動車や電車の塗装が変わるなどそれまで情熱を注いできた事に興味が薄れ始めていた。それでも子守を兼ねたドライブは気になる所へ進路をとり、新しい国道バイパスからは裏…
季刊「のぼろ」 Vol.12 2016 Spring (平成28年/西日本新聞社刊) 書棚に並んだ本の背表紙に「列車で山へ」というフレーズに反応して思わず手にとってみる。その本は登山やハイカーの専門誌で、目次を見ると鉄道誌のようなタイトルが並び、中でも「駅が登山口…
豊後中村駅の改札口に掲げられた電照式の時刻表。九重山群の登山口として急行列車は全て停車する。下り4本に対して上り5本なのは“由布1号”に併結された“日田”が由布院折返しで“はんだ”となって単独運転するためである。気動車列車が3往復記載されているが、…
全列車が蒸気機関車で運転される線区は、昭和44(1969)年時点では室木線の他に美祢線大嶺支線・日中線・只見線新潟県区間の4線区だけとなっていた。少し遡ると以下の7線区があったが気動車の浸透で「全列車蒸機」はあっけなく崩れ去ってしまった。 ・万字線 …
遠賀川駅早朝の情景。行灯式の番線案内や駅名表示の白色灯と、遠く薄もやに浮かびあがる出発信号機の赤色が旅情をそそる。 鹿児島本線上下線と中線の間は古レールで組まれた味のある跨線橋が架けられていた。2番ホームは鹿児島本線下りで室木線の3番ホームと…
汽車旅は車窓に広がる景色や列車、ヤードの車輛が見えるのが楽しいものだ。東行夜行列車に乗っていると、小倉を出た辺りから車窓右側が気になり始める。小倉から門司にかけて輻湊する線路が不思議に絡み合う“配線の妙”に魅かれるからだ。通るたびに迷路の謎…
太平洋ベルト地帯を成す山口県の瀬戸内海側は山陽本線沿いに岩国・徳山・防府・宇部・小野田と工業都市が連なっている。山陽本線宇部~厚狭間は3線区間で美祢線から宇部港へ運ばれる石灰石輸送に山陽本線の複線とは別に1線が敷設されていた。この1線の道床は…
EF651000番台とはこの時が初対面であった。九州ブルートレインは専ら東京機関区の受持ちと思っていたが、撮影時は下関運転所のEF65500番台、1000番台ともに東京組と共に運用されていたようだ。EF651050〔関〕が20系“あさかぜ51号”を牽いて6番線に入って来た…
国鉄時代の向之原駅舎を撮っていたが、残念なことにフィルムをパトローネからあまり引っ張り出さずに巻き込んでしまったからか左半分は感光していた。開業は賀来と同じく大正4(1915)年10月30日であるが、現存の駅舎は国有化された後の大正12年に建てられたと…
久大本線久留米~大分間は昭和9(1934)年11月15日に全通した。大分側の大分~小野屋間はそれよりも早い大正4(1915)年10月30日に、私鉄大湯鉄道として開通している。その後大正11(1922)年12月1日に国有化され、鉄道省大湯線となった経緯がある。 国鉄時代末期…
新鶴見機関区D51の仕事場は新鶴見操車場から高島貨物線に点在する貨物駅までであったのだろうか。横浜機関区の扇形庫は高島貨物駅ヤードの終端にあったと思われる。上路式転車台に載るD51516〔新〕の後方にとても優雅に映る扇形庫が見える。顔を出したDD13は…
DE10牽引の客車列車を追いかけて一段落ついた際、由布院駅に立寄ってみた。2番線は久留米発由布院終着の4輛編成がひっそりとたたずんでいた。 久留米からの列車は1時間以上待機し列車番号が変わって大分行となる。列車が来ない構内はゆったりとした時間が流…
小倉駅はかつて現在の西小倉駅のところにあった。鹿児島・日豊両本線の列車が相互折返しができる配線に改められ昭和33年3月に現在地に移転した経緯がある。筑豊へ、門司港へ、日田彦山線へ、本州方面への乗換え待合せ時間で列車を撮っていたので時系列でふり…
私が汽車の写真を撮りに大分駅へ通った昭和44年頃は、第4ホーム(6・7番)から南口にかけて長い跨線橋が健在であった。本屋側ホームから第4ホームまでは地下道が整備されて、駅表側は近代的な、「裏駅」と呼ばれていた南側は蒸機時代然とした印象があった。 跨…
かつて大分駅のホームでは、手小荷物が積まれた何台もの台車をターレットのような移動機がけたたましい音で動き回り、またその台車は網をかけられ宙を舞うように吊り上げられてホーム間を渡る光景を見ることができた。跨線テルハを意識して写真を撮ったこと…
東別府は別府扇状地の南端に位置し、別府湾に面したなだらかな丘陵の背後に鶴見岳がそびえている。東別府を発車した客車列車の後追いにうっすらと雪化粧した鶴見岳が顔を見せていた。 522レ 東別府 S59(1984)/1 別府のシンボル「鶴見岳」が扇状地に広がる別…
横浜駅で大形窓のEF58が写ったネガは露出不足で振り返ることなく時は経過していた。たまたま降り立った時にEF58が見えたので思わずカメラを向けたのではないか。大形窓・庇の付いたEF5843〔宮〕が郵便・荷物車を従えて8番ホームに横付けしている。ここまでは…
偶然通りがかった駅の踏切警報機が鳴り出したので建物の脇からカメラを構えたのではないか。当たり前の日常の風景が切りとられていた。 枕木柵で仕切られた構内にあずき色の下り電車が姿を現す。線路脇はもうすっかり忘れ去られた鉄道風景が垣間見える。古枕…
蒸機の時代、冷水峠へ向かうためこの駅に降り立ってから20年以上経過していた。夜明前の乗換えであったので構内の写真は撮っていない。転車台があるうちに再訪したいと思いつつ時は流れて平成の時代になっていた。 訪問時は昭和50年代末期頃の配線と大きな変…
527列車は日豊本線下り門司港発大分行である。この列車に行橋から大分まで乗車し、途中の交換列車や車窓にカメラを向けた。列車内は人が写るので撮ることはなかったが、この時はどういうわけかオハ35の車内を1枚だけ撮っていた。乗客が少なくなったところで…
北陸本線富山駅は富山地方鉄道新富山へ行くのに立寄った時、魚津駅は富山地方鉄道本線から北陸本線に乗換える時、それぞれわずかな時間に偶然出会った列車を撮ったものである。毎度後になって思うことであるが、車輛だけにしかカメラを向けていないので駅構…
昭和37年の秋から翌38年春までの約半年間、小学校1年生であった私は学校へ通うのに汽車に乗らなければならなかった。学年途中で家を転居したが転校手続きができなかったので以前の学校まで3駅間の汽車通学となった。朝の登校は小野屋駅から庄内駅まで、下校…
日豊本線と豊肥本線が離れる場所に造成された車輛基地は大分電車区で、昭和42年7月に発足している。豊肥本線上に設けられた下郡信号場から分岐しヤードが広がる。地元の人は「下郡の電車基地」と呼び、地域の場所説明の際は「でんしゃきち」の左右、東西と目…
下郡信号場は大分川の東、日豊本線と豊肥本線が離れる場所に位置し、豊肥本線から大分電車区が分岐するのに設けられている。上記の場所は少年時代の私にとって蒸気機関車を身近に見ることのできる魅惑の鉄道地帯であった。日豊本線はD51貨物にC57旅客が、豊…
家族旅行で雨に煙る厚狭川に沿った、所々で美祢線の線路と並走する道路を走っていた。その美祢線を乗り越す際にふと目に入った光景は見覚えのある駅風景であった。D51の石灰石ピストン列車と大嶺支線の混合列車を撮りに来たのは昭和47年夏、あれから15年の歳…
青函連絡船は2度の渡道で乗船経験があるが何れも船舶は残念ながら撮影していない。しかも青森・函館構内での車輛航送風景にも目をやっていない。とにかく他の乗客につられて、降車後、下船後はホームを急いだように思う。単なる乗継地点として構内を観察する…
観光旅行で登った函館山。寒さに震えて立った先には函館市街の絶景が広がっていた。すばらしい夜景の先端は函館駅と連絡船の桟橋が海に浮かんでいるかのように見える。さらにそこから続く岸壁はまるで櫛の歯のようなヤードが照明塔に照らされてはっきりと目…
駅北側の跨線橋から活気ある構内を見物する。貨物ヤード・駅・機関区・客車ヤードが一望できた。手前の貨車が雑然と並ぶさまはさしずめ貨物荷捌き所と呼べるような時代を感じる旧態な風景に見える。C56が忙しそうに入換に励んでいる。 宮崎 S47(1972)/1/5 形…
門司(操)からの貨物列車が幡生(操)へと下関構内を通過する。関門専用の機関車はEF302〔門〕+EF3015〔門〕の重連であった。下関は3面6線のホームで番線表示は3番から9番まで振られ、旅客線外側に下り貨物線1番線、上り貨物線10番線が通っていた。一番右は下…
夕方のラッシュが始まる京浜東北線の大井町駅。国電の駅風景は私鉄沿線とはまたちがった雰囲気がある。北行は「大宮」、南行は「大船」を掲げたスカイブルーの103系が並んでいた。複々線の線路を跨ぐ陸橋を支える煉瓦積みの橋台や掘割の壁の造りは歴史の重み…