駅の風景
上熊本は九州鉄道の時代、明治24年の開業で長い歴史を持つ。当初は池田停車場と呼ばれ後に上熊本に改称され、夏目漱石ゆかりの駅でもある。大正ロマン漂う風格に満ちた駅舎は熊本の北の玄関口として重要な地位を物語っている。松本清張の映画「霧の旗」は主…
「西千葉」と聞くと気動車王国千葉県、千葉気動車区、コルゲート板を纏ったキハ35等が思い浮かぶ。千葉気動車区が見えるのではないかと立寄ったのかもしれない。気動車王国は既に過去の話となっていた。気動車区はこの当時、加古川・岡山・松山・徳島・直方…
昭和47年秋、高城駅で下り寝台急行“日南2号”と上り貨物列車の交換を撮っていた。写った列車のことを趣味誌や時刻表、WEBページで調べてみると当時は何も思わなかった、知らなかった事柄があぶり出されてアルバムの整理・編集は楽しいものだ。 D5146〔延〕の…
前記事「京浜急行高架化完成新馬場駅開業記念によせて」に関連して東京都の線路端さんから旧駅の北馬場駅・南馬場駅、新馬場駅の写真をいただく。地上駅時代の高架工事の様子がよくわかり、新駅しか知らない私は思わず唸ってしまう変遷の記録であった。 前出…
九重連山の西側、大分県と熊本県の境に標高1500mの涌蓋山がそびえている。地熱地帯のふもとに展開する温泉郷のひとつ、宝泉寺温泉は町田川の渓間に位置する。久大本線恵良から線路が伸びて来たのは昭和12年。太平洋戦争の金属供出で一時営業停止となるが昭和…
祝日の朝、汽車見物に大分駅へ赴く。目当てはC57の牽く佐伯行であったがこの日はC58の牽引で残念と思いつつせっかく来たのでしばらく駅の様子をスケッチしてみた。時間の経過とともに写真を並べてみると、旅客列車はED76・DF50・DE10・C58、貨物列車はED74・…
下ノ江駅駅前広場の一角に赤い鳥居が並び、お稲荷さんが祭られている。開業は臼杵まで開通した時の大正4年8月で、開通後たびたび発生する鉄道事故を防いでもらおうと交通安全を祈願しお稲荷さんを祭ることになったと伝えられている。瓦葺き板張りの素朴な木…
新宿ー小淵沢ー清里ー小諸ー高崎ー上野のひと筆書きハイキングの帰路、初めて碓氷峠を通り国鉄最急勾配の66.7‰を経験する。80系電車の先頭にEF63重連が付きそろりそろりと坂を下る。車窓からこれが鉄道の坂なのかと驚嘆の思いで線路を見ていた。降り立った横…
当時の列車撮影は通過時刻ぎりぎりに線路端へ行くのが常で、前もって構図を決めるなど皆無であった。一連の入換作業を記録できたのはたまたま早めに駅へ行き、また交換列車の待ち時間があったからではないかと思っている。入換を撮ろうと意識していたわけで…
九州には「寺」のつく駅が6つある。日豊本線豊前善光寺、久大本線善導寺、日田彦山線後藤寺、筑肥線周船寺、宮原線宝泉寺、そして豊肥本線水前寺。ここ水前寺を訪れたのは9600重連の宮地行を撮るためである。水前寺の構内はとても広く隣りの南熊本とともに…
所用で佐伯に行った帰り道、日没時刻にもかかわらず佐伯からひとつめの海崎駅に立寄ってみた。何の変哲のない上下2線だけの普通の駅であるが、そこに立ち止まらせたのには訳があった。駅の近くの海岸沿いに要塞のような日本セメントの工場があり、かつて専用…
「小樽築港」と聞くとC62がいた小樽築港機関区を思い浮かべる。呉線が電化された昭和45年10月、糸崎のC62が遠路小樽築港へ回送されるルポを「鉄道ジャーナル」で読んだことが頭をよぎった。昭和50年は小樽築港区に蒸気機関車の配置はなく、特別な名前のよう…
「るべしべ」ー何という名前、何という響きだろうか。聞いたこともない、どこにあるのかさえ知らなかったが、この駅に下車した理由は留辺蘂ユースホステルに泊まるためであった。夜行列車疲れで駅の印象は名前だけ強烈で後はあまり記憶に残っていない。コン…
当時の札幌市は人口約120万人の大都市で、その玄関口の札幌駅は鉄筋5階建の威容を誇っていた。駅前に出て儀礼的に撮った唯1枚のスナップは遠いあの時代の良き思い出となった。 札幌 S49(1974)/9/16 「弘済会の道内時刻表」の札幌駅案内図。国鉄バスのりばの…
天塩中川は旭川から約161㎞、音威子府からは4つめの駅で天塩川中流域の木材集散地に位置する。夕方の上り貨物列車と下り旅客列車の交換を撮る目的でこの駅に降り立ったと記憶している。静かな山あいの駅に貨物列車が先に到着、旅客列車はあわただしく出て行…
三角線は歴史ある路線で、島原や天草への航路連絡として九州鉄道によって明治32年12月に開通、三角駅はその時に開業した駅である。この時期の九州線は現在名で言うと、鹿児島線は八代まで、長崎線は早岐・大村回りで浦上まで、日豊線は柳ヶ浦まで開通してい…
新ニイ標記のキハ58、発車間際の喧噪が飛び込んできた。名古屋と新潟を結ぶ気動車10輛編成の急行“赤倉”は、463㎞を8時間26分かけて走破する昼行の長距離列車で、その経路は名古屋ー中央西線ー塩尻ー篠ノ井線ー篠ノ井ー信越本線ー新潟と壮大な道のりであった…
深夜、旭川駅の電光時計は23:38を指している。この時間で乗車できる列車は宗谷本線方面では札幌発稚内行“利尻”23:50着0:20発、石北本線方面では札幌発網走行“大雪5号”0:57着1:02発のいずれも旅情あふれる夜行列車である。「今は走る汽車にこの身をあずけて♪…
網走は石北本線、釧網本線、湧網線が集まるオホーツク海沿岸の鉄道の要衝で、石北本線旭川からは237.7㎞、釧網本線釧路からは169.1㎞、湧網線湧別からは97.4㎞の所に位置している。趣きのある駅舎に魅了されて撮ったスナップは駅前広場の車と人の動きがあっ…
宮原線撮影の帰途に湯平駅に立寄ってみた。客車は50系に置換ったもののDE10牽引列車の本数は昭和53年10月時点と同本数で運転されていた。駅はかつての面影は消え失せ、すっかり変わり果てていた。信号機が自動化される前にはなかった中継信号機や出発反応標…
父親が遺したネガに鉄道ものがないか捜索した結果、昭和39年頃に撮られた人物写真の背景に湯平駅の様子が写っているものを見つける。煤煙が付いたトンネルポータル、山を越える多数の通信線電柱、腕木式信号機、枕木で組まれた倉庫などは鉄道全盛期の構図と…
湯平駅は大分川河岸段丘の急峻な谷間のわずかなスペースに設けられた湯平温泉の玄関口で急行停車駅である。本屋寄り下りホームから広がる風景は、背後の細道脇に建つ道路案内と「警笛鳴らせ」の道路標識、構内の電柱兼用の外灯、線路沿いに這う信号連動ワイ…
「鉄道ジャーナル昭和44年9月号」は西武鉄道のE851電気機関車が表紙を飾っている。この表紙と連動して記憶しているのがD50・D60の記事で、久大本線の事を調べる際はこの表紙の本に手が伸びるくらいに当時の記憶が未だに継承されている。筑豊本線と久大本線の…
▮昭和45年 昭和45年夏、D60最後の活躍をフィルムに収めようと小野屋を訪れる。小野屋駅西側は大分川に合流する小川を渡る新連川橋梁と小野屋トンネルが見える絵になる場所であった。迎える列車は不定期の貨物列車で、来る、来ないは時の運、小雨降る中ひたす…
奈良駅で途中下車した際に撮った写真が残っている。奈良の印象は、関西都市圏でありながら地方都市のような閑散とした駅前風景が記憶に残ってはいるものの、寺院風の駅舎や奈良運転所の大規模な扇形庫は鮮明に浮かんでこない。団体行動でゆっくり構内を観察…
少年時代、駅に停まった貨車の車票を見ていて「安治川口」と書かれた札が目に入り、そこはどの地方のどこにあるのかとても気になっていた。いつ解決したかは覚えていないがそこは桜島線の西九条からひとつめ、ということがわかりいつかこの目で見てみたいと…
日豊本線の開通年代を見ると、明治28年4月行橋(九州鉄道)、明治30年9月柳ヶ浦(豊州鉄道)、明治40年7月に国有化の後、明治42年12月宇佐、明治43年12月中山香、明治44年3月日出、明治44年7月別府、明治44年11月大分に達している。大分以南は大正12年12月大…
昭和40年代中頃、筑豊からの撮影の帰り、行橋から乗車する下り急行“ゆのか”の最初の停車駅が宇島であった。幾度かの通過で宇島構内は強烈な印象が残っている。宇島は2面3線の配線で、列車が海側3番線に入ると進行方向左側の車窓は広大な貨物ヤードを見ること…
44年前に訪れた会津若松駅の情景は初の東北で強烈な印象が残っている。当時の記憶が時の流れに埋没する前に駅頭スナップを懐かしんでみたい。写真は跨線橋から磐越西線郡山、新津方面を望んだ景色で、モハ454の屋根上の賑やかな碍子やユニットクーラーに目が…
只見線は福島県は磐越西線会津若松から新潟県は上越線小出まで135㎞の路線である。只見川沿いにダムを建設する為の電源開発路線として建設され、小刻みに線路を延ばし、昭和46年に全線が開通している。会津宮下は昭和31年までは終着駅で、機関車の駐泊所が置…