転轍器

古き良き時代の鉄道情景

テルハが写り込んだ構図 大分駅

 かつて大分駅のホームでは、手小荷物が積まれた何台もの台車をターレットのような移動機がけたたましい音で動き回り、またその台車は網をかけられ宙を舞うように吊り上げられてホーム間を渡る光景を見ることができた。跨線テルハを意識して写真を撮ったことは無かったが、車輛や列車を撮った画面の端々にテルハが写っていた。

 大分駅のテルハは巻上装置と横行装置を備えた「クラブトロリ式」とのこと。塔の上の覆いに台車を引上げて桁上を移動するようだ。覆いが5つ見え、4面のホームに対して1箇所多いのは本屋側行止まりのクレーン格納用なのかもしれない。
 夕方の豊肥C58、久大D60の通勤列車を貨車の切れ目から撮ろうとした際にシャッターを押したものと思われる。第4ホーム(6・7番)から南口への木造跨線橋も写っている。 S45(1970)/6

 テルハの設置位置は荷物車・郵便車の停止位置に近い所のようで大分駅も下り寄り、終点側に設けられている。DF50の牽く佐伯からの通勤列車が4番ホームに到着、DF50は編成から離れ、下郡に回送するため後部にED7620が連結されたところ。手前左は欠き取りホームで、2輛の荷物車が留置されていた。手小荷物の載った台車はホームとテルハ積込部とを行き来していたものと思われる。 S47(1972)/5

 D5112の牽く下り貨物の後方にテルハが写っている。機関車にしか目は行っていないのでテルハのことなど全く意識していない。塔の覆いはテンダ後方に見えるのが第2ホーム(2・3番)、右が本屋側ホームで、さらにその奥まで桁は続いている。 S48(1973)/3

 蒸機時代最後の夏、鹿児島のC5739が応援に来ていた。D51の貨物しか残っていないと思っていたが、後年になってDF50の応援で宮崎C57や南延岡D51が旅客列車を牽いていたことを知る。テルハは本屋側の起点部分が写っていた。運転所側から見ると本屋から第4ホームまで長いトラスが架かっているのがわかる。 S48(1973)/8/22

 14系客車の急行“くにさき”は新幹線博多開業の昭和50年3月に登場、その後“阿蘇”との併結で運転されたが、惜しくも昭和55年10月改正で廃止されてしまった。上り側から見た構内風景にテルハの覆いが見える。 S55(1980)/9/15

 「門司港」のサボを掲げたオハ4790。近い位置でテルハが写っている。線路を跨ぐ桁の構造は写真のトラス式とプレートガーダー式があるようだ。 S56(1981)/2

 DE101015が客車入換をしている。この頃は豊肥・久大本線とも50系になっていたので旧形客車は日豊本線だけの運用になっていた。後部に見える1輛だけのオハフ50は荷物列車に連結されて宮崎から回送されて来たものと思われる。
 テルハは至近距離でホーム上屋からの囲いと桁上の覆いが、桁下トラスも架線ビームと重なってはいるがよくわかる。 S56(1981)/2

 桁の上を移動するクラブトロリと呼ばれる台車が写っている。液化塩素の黄色いタンク車はボギー台車を履く“タム”で意外であった。 タム12455 形式タム2300 旭硝子株式会社 液化塩素専用 毒(G)26 枝光駅常備 S56(1981)/4

 テルハの終端部分。塔が高く見える。 コキ26491 形式コキ5500 S56(1981)/4

 “富士”の付属編成を大分からの牽引機ED7626が牽いて引上げ線へ向かっている。ヘッドマークがお椀形から山形に変わる頃だ。構内は留置車輛が少なく遠くまで見通せる。いつの間にか南口へ続く跨線橋は撤去されていた。 S60(1985)/3/11

 クハ481-255先頭の“にちりん”7輛編成。テルハが写っているがこの時は役目を終えていた。昭和61年9月30日をもって郵便・荷物輸送は廃止された。国鉄時代も終りを迎えようとしている。 S61(1986)/10