転轍器

古き良き時代の鉄道情景

夕張線

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 雨上がりの紅葉山へ降り立つ。「安全第一」が掲げられた煤けて歴史を漂わせる跨線橋が出迎えてくれる。2輛編成のキハ22は追分発夕張行729D。後方はセキ6000が長蛇の列を連ねて待機している。本屋につながる上りホームは三々五々人が集まり始めた。駅長が上り追分行の到着を待っている。手前の電柱に「もみじやま」の琺瑯看板がおぼろげに写っていた。 夕張線紅葉山 S49(1974)/9/10

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 セキ6000の長蛇の列の先頭に立つのはギーゼルエジェクタ装備のD51349〔追〕であった。気動車列車の交換を待って発車する。後方の整備された築堤は石勝線の路盤で隧道も完成済のようであった。 5793レ 夕張線紅葉山 S49(1974)/9/10

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 D51565〔追〕が夕張行セキ6000返空編成を牽き出す。北海道の機関車は回転式火の粉止めが付いているので煙突が若干長く見える。 6785レ 夕張線紅葉山 S49(1974)/9/10

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 紅葉山は不思議な駅であった。下り列車で降り立つと跨線橋を渡って本屋側のホームへ出る。普通であればここで改札口を出るのであるが、ここ紅葉山はさらにホームのスロープを下って平面横断でヤードに並んだ幾本もの線路を渡って駅本屋へ辿り着く構造になっていた。訪問時ヤードには貨車はごくわずかであったが、全盛期は滞留貨車で埋まるヤードを横切って乗場に向かう光景が繰り広げられていたのであろう。構内夕張寄りにはアメリカンスタイルの給水塔が鎮座し、木造の跨線橋と共に運炭線全盛時代の面影が漂っていた。

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 紅葉山から楓、登川までの支線は時刻表では夕張線と記載されている。当時この盲腸線は通称で登川支線と呼ばれていたように記憶している。登川からの石炭輸送で敷設された長い歴史があるようだ。キハ22の運用は追分発の編成から分離し単行で往復の後夕張までの併結を繰り返し、最終で追分に戻っていた。 836D キハ22216〔札サウ〕 紅葉山 S49(1974)/9/10

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 D514〔追〕が力行で川端を通過、石炭満載のセキ編成が続いて駆け抜ける。 5782レ 夕張線川端 S50(1975)/9/12

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 D51916〔追〕は前年に宗谷本線塩狩で会った機関車で名寄機関区所属機であった。夕張線蒸機最後のこの年は追分機関区に転属していた。 1792レ 夕張線川端~滝ノ上 S50(1975)/9/12 

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 蒸機終焉のこの年、夕張川沿いを行くD51の貨物列車は石炭輸送をこなす日常が続いていた。夕張川を渡るD51710〔追〕はセキ編成の前にトラ数輛を従えてやって来た。 5797レ 夕張線川端~滝ノ上 S50(1975)/9/12 

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 国鉄蒸気機関車が牽引する営業列車の最後は、旅客列車が昭和50年12月14日室蘭本線のC57135、貨物列車が12月24日夕張線のD51241であった。現地では蒸気終焉の実感は湧かないまま離道したが、最後の走行線区に立ち寄れたのは実に幸運であったと経年とともに思うようになった。