久保田と西唐津を結ぶ唐津線は筑紫山地の西端に沿って走り、多久と厳木の間に立ちはだかる笹原峠は難所であった。サミット手前の笹原トンネルは石炭輸送の増加を見込んで複線断面で掘られている。 多久を出た下り西唐津行は国道203号線を乗り越すと、笹原ト…
岩屋駅北側のこの広い空地が気になっていた。画面右側から国道(今は山側に高規格道路ができて県道になっている)、駐車場、唐津線1線の岩屋構内、市営住宅(合併前の町営住宅)が並ぶ。 唐津線は唐津興業鉄道が唐津炭田の石炭を唐津港へ輸送するために建設され…
D6069は昭和39(1964)年9月出水から直方へ、翌40(1965)年9月直方から柳ヶ浦へ、42(1967)年9月大分へ移動している。大分から再び直方へ渡ったのは44(1969)年9月で、大分での稼働期間はわずか2年であった。 D6069は昭和30(1955)年9月、D5033(大正13(1924)年12月…
平瀬さんのアルバムを拝見した際、上路式転車台に載ったD6069の写真に目を奪われた。大分か柳ヶ浦かと思いきや、転車台と周りの様子が違うことで一瞬たじろいだこの写真は熊本で撮影されたとのこと。出水機関区のD60は熊本まで運用されていたことを示す貴重…
立石峠は宇佐から立石にかけて25‰の勾配が立ちはだかる日豊本線の難所のひとつであった。電化前は柳ヶ浦機関区のD60が前付けや後押しで補機を務めていた。西屋敷を出た長い編成の貨物列車は前補機D6066〔柳〕、本務機D50341〔柳〕の兄弟機が立石隧道めざして…
DE10牽引の客車列車を追いかけて一段落ついた際、由布院駅に立寄ってみた。2番線は久留米発由布院終着の4輛編成がひっそりとたたずんでいた。 久留米からの列車は1時間以上待機し列車番号が変わって大分行となる。列車が来ない構内はゆったりとした時間が流…
オハニ36は急行用で車内設備はスハ43と同等であった。久大本線に来る前は京都~都城間の急行“日南”や門司港~西鹿児島間の夜行“みやざき”で颯爽と走っていた。 オハニ3615〔分オイ〕 大分運転所 S59(1984)/1/17 私の国鉄時代は蒸気機関車の終焉、路面電車・…
久大本線由布院以東の急行列車は長崎・佐世保と別府を結ぶ“西九州”と博多から別府間“由布”2本の計3往復が設定されていた。昭和55年10月改正以降は“西九州”が廃止されて“由布”3往復体制となり、残念ながら久大本線から長崎本線へ乗入れる列車は無くなってしま…
久大本線のシンボルはやはり由布岳。別名「豊後富士」の双頭峰をバックに走るは名門急行“由布”がよく似合う。“由布”は昭和36年10月に準急として誕生、その後幾多の変遷を経て九州横断ラインの雄として君臨する。昭和56年10月時点で博多~別府間3往復が運転さ…
タキ3926 形式タキ3900 石油荷役株式会社 石炭酸専用(内部ステンレス) 東海道本線豊橋~西小坂井 S51(1976)/3/26 EH10が牽く長い貨物列車を撮影して流れる貨車群を見送っていた時、ふと見慣れないタンク車が現れたので慌ててシャッターを押したものと思われ…
タキ3241 形式タキ3000 日本石油株式會社 ガソリン専用 燃32 下松駅常備(鶴崎駅臨時常備) 大分 S55(1980)/9 タキ3000は昭和22年から1,594輛製造された30トン積ガソリン専用タンク車。タンクは台枠のまくら梁上部のタンク受台に乗り、帯金で締めつけられてい…
九州石油のロゴは濃い青と薄い青の間に白い羽を広げたコウノトリを配したデザインだった。国鉄時代に何度も会っていたのに写真には残せていない。何を撮りたかったのかわからないコマに、もしや九州石油のマークではないか?とおぼしきタンク車が写っている…
貨車移動機がどこかに写っていないかネガフォルダを捜索した際、ふと赤い機関車に目が留まった。ネガの日付は昭和62年1月、国鉄民営化直前の撮影であったが赤いEF81のことは記憶からぬけていた。 赤いEF81が大分に来ていた。しかも区名札は「大」が入ってい…
貨車移動機を意識して撮影したことはないが、運転所の扇形庫で見た記憶がある。機関車を撮った写真のどこかにたまたま写ったコマがないかネガフォルダを捜索した。 偶然にもワラを牽く貨車移動機を撮っていた。とても大きく見える前端梁の連結器や排煙管を高…
夏休みの家族旅行で南阿蘇鉄道のトロッコ列車に乗っていた。家族を撮ったネガはスキャンしていないのでPCのネガフォルダには無く、また汽車を撮りに出掛けたわけではないので記録も無くこの時の記憶は飛んでいた。ポケットアルバムに入ったプリントを見なが…
昭和55年に成立した国鉄再建法は、将来熊本県高森町と宮崎県高千穂町を結ぶ予定であった高森線と高千穂線を廃止対象線とし、新たなローカル新線の中止も決定された。幸い両線とも廃止は免れ第3セクターに移管、昭和61年4月に南阿蘇鉄道として、平成元年4月末…
高森線の終端駅高森は駐泊所が置かれ、小規模ながら車庫や給炭、給水の設備があり、C12が配置されていた時期があったのは驚きであった。列車の終点や折返し駅は機関車や乗務員の駐泊設備や転車台があったり、給水設備だけ備えた駅などさまざまな駐泊所・給水…
C12222〔熊〕の左サイドはコンプレッサーが無いのですっきりとしている。ランボード上の箱は潤滑油を供給する油ポンプの箱だろうか。下回りはちょこちょこと動く加減リンクが見える。「架線注意」標識の上は砲弾形ライトLP405が付いている。 立野 S47(1972)/…
立野駅の高森線ホームは豊肥本線と千鳥配置で本屋寄りに設けられ、のどかな雰囲気が漂っている。端面がきのこ形をしたオハフ33 2輛を従えて出発を待つC12のコンプレッサーの息づかいだけがあわただしく外輪山の壁にこだましていた。 127レ 立野 S47(1972)/3/…
立野橋梁は立野駅近くの急峻な峡谷に架かる鉄橋で、南郷谷から流れる白川を望む絶景が展開していた。トレッスルという鋼製のやぐら状に組まれた橋脚の鉄橋はトレッスル橋と呼ばれ、雄大で美しい構造に魅了される。高森からの混合列車はC12222〔熊〕の牽引で…
小倉駅はかつて現在の西小倉駅のところにあった。鹿児島・日豊両本線の列車が相互折返しができる配線に改められ昭和33年3月に現在地に移転した経緯がある。筑豊へ、門司港へ、日田彦山線へ、本州方面への乗換え待合せ時間で列車を撮っていたので時系列でふり…
豊肥本線内牧駅で見た国鉄軌道バスと全く同じクルマを「由布院駅の側線で見た」と由布院電吉さんから一報があり画像をお借りした。国鉄時代での撮影なので現役の姿かもしれない。ドローバー風の連結棒でトロッコをつないでいる。改めて『保守用車総合データ…
豊肥本線内牧駅の貨物側線に置かれていた「怪しいモーターカー」について、WEBサイト『保守用車総合データベースMCDB』を線路端さんから案内された。それによるとこのクルマは国鉄が開発した軌道バスで、ダイハツライトバスをベースにしたとの事であった。車…
阿蘇谷の豊肥本線は立野から外輪山の切れ目を33パーミルで這い上がると赤水から宮地までは比較的緩やかな道となる。赤水・市ノ川・内牧・阿蘇とカルデラの北側を進む。視界に広がる大パノラマの外輪山と雲に霞む阿蘇五岳の雄大な景色が楽しめる。 新しい色に…
尾張名古屋の市電は京都に次いで日本で2番目の路面電車で、東京、大阪と並んで大規模な路線網が張り巡らされていた。地下鉄工事のため昭和36年頃から一部路線の休止を皮切りに、昭和38年から49年にかけて段階的に廃止されたようだ。手札サイズの写真に刻まれ…
鹿児島本線のC61は全機(12・13・14・31・32・33)鹿児島機関区に配置され、熊本~鹿児島間で活躍していた。この時奥羽本線のC61は6輛(2・18・19・20・24・28)が秋田~青森間で運用されていた。鹿児島電化が成った昭和45年10月は鹿児島の6輛は廃止されてしまっ…
由布院発門司港行上り急行“はんだ”4輛編成が玖珠盆地を快走する。前2輛はキハ58 800番台、後ろはキハ66+67ユニットの組合せであった。撮影時の配置表で直方気動車区を見るとキハ58 800番台は8(801~808)輛、キハ66・67は15(1~15)ユニットが配置されていた…
小倉工場から全検出場したばかりの時に遭遇した。黒光りするサイドビューに圧倒される。 19626〔行〕 行橋機関区 S45(1970)/8/3 末広がりのパイプ煙突はキュウロクには似合わない気がする。LP403形前照灯も大きいので重たく見える。艶々のボイラ周りはさまざ…
出張で訪れた湯田中温泉街、目と鼻の先に長野電鉄湯田中駅があり、記念撮影ができないまま長野紀行は終わってしまった。線路端さんから同時期に湯田中駅で撮った写真があるとの連絡をいただき、見果てぬ夢に終わった湯田中の情景に慕情を抱く。 湯田中駅へは…
平成10年代、出張で複数の会社所属の数名からなる一行に加わり2泊3日で長野県を縦断した。行きは軽井沢まで、帰りは長野から東京まで、まだ「長野行新幹線」と呼称されていた“あさま”で往復した。団体行動なので鉄道風景にカメラを向けることは遠慮し、残念…