2019-01-01から1年間の記事一覧
前回掲載のEF15の記事でこの写真の説明を「押し込み形ベンチレーターが並ぶ80系湘南電車とすれちがうEF15102〔新〕」と記載した。いつも閲覧してくれる東京の線路端さんからこの電車のことでMAILをいただく。 『屋根がフラットに見えます。フラットの具合か…
昭和40年代初頭、周防灘を望む海岸線でデッキ付の機関車が貨物列車を牽く光景が記憶に残っている。あの時の機関車はEF15とわかったのは鉄道趣味誌を読むようになってからである。当時の山陽本線では岡山と広島に配置され貨物列車に運用されていた。古い雑誌…
山手貨物線を撮ったネガに都電のカットが残っていた。ネガの順番からこのカットは大塚駅のガードと思っていたが現在の地図ツールから京浜東北線王子駅のガードということがわかる。都電の知識は何もなく、荒川線のことは鉄道ピクトリアルNo443「路面電車特集…
山手線の電車から見える貨物列車を撮れる場所はないか貨物線沿いを歩いていた。前から角ばった車体の機関車が迫ってきたのでカメラを構えると背後から重々しいモーター音が被さってきてファインダーに一瞬2台の機関車が映って驚く。 ひさしのような屋根が特…
洗浄線に並ぶ茶色のゲタ電たちはどれも同じ顔に見えた。旧形国電については何の知識もなくとりあえずの儀礼的なスナップであった。後年、この電車は73系でクハ79・クモハ73・モハ72・サハ78で構成された一群と知り、3段窓や2段窓、先頭車の顔にバラエティが…
EH1044〔吹二〕 太平洋ベルト地帯を行き来する旧形電機の中で少し毛色のちがうEH10に特段の魅力を感じていた。汐留のヤードにはるばる関西から貨物列車を牽いて来て小休止しているEH10の姿は魅了される構図であった。駿足のコンテナ系はEF65や66で、EH10は2…
千葉駅でたまたまあずき色の機関車と遭遇する。EF80を見たのはこれが最初で最後、まさに千載一遇の機会であった。EF80+DD51重連の貨物列車は新小岩操車場へ向かうのであろうか。EF80は常磐線電化で取手~藤代間の交直デッドセクションを通過するために作ら…
石原町から2キロ弱歩いたところに小森信号場があった。そこは石原町~呼野間で本線からセメント工場への専用線が分岐する地点であった。昭和46年訪問時はこの信号場を廃止すべく、石原町から直接セメント工場へ向かう1線増設工事の最中であった。専用線から…
日田彦山線のD51は石原町付近の住友・三菱セメント、香春の日本セメントから産出される石灰石・セメント輸送を担うため昭和36年10月に投入されている。昭和43年のデータで九州管内の貨物発着㌧数ベスト10は1)苅田港、2)石原町、3)黒崎、4)外浜、5)船尾、6)上…
九州管内の50系客車の進出は、昭和53年3月門モコ配置で筑豊本線、昭和54年2月分オイ配置で日豊本線・田川線、54年4月豊肥本線、54年10月熊クマ配置で鹿児島本線と続き、55年11月門トス・分オイに順番が回ってきて久大本線が旧形客車から50系客車に置き換えら…
緑ナンバー69699〔熊〕が熊本からの貨物列車を豊肥本線全線走破して大分に到着した。到着後すぐ大分運転所に入って向きを変え給水・給炭の後、豊後竹田行748レの機関車となる。 795レ 大分 S44(1969)/3 69699〔熊〕が転車台で向きを上り方へ変え後退するとこ…
昭和44年春、豊肥本線の客車列車は大分~豊後竹田間2往復(内豊後荻発1本あり)と熊本~宮地間1往復が運転されていた。旅客列車のディーゼル化は昭和39年3月と早く、かろうじて朝夕の輸送力列車が客車で残されていた。6輛の客車の先頭に立つC58224〔大〕は…
昭和45年夏、久大本線の蒸機列車は久留米口で6往復半、大分口で5往復が健在で大分運転所D60-8輛と豊後森機関区8620-5輛が運用されていた。10月のDL化を目前に落成したばかりのDE101000番台も運用に入ってきて、蒸機牽引列車は風前の灯となっていた。 鬼瀬は…
三角線は歴史ある路線で、島原や天草への航路連絡として九州鉄道によって明治32年12月に開通、三角駅はその時に開業した駅である。この時期の九州線は現在名で言うと、鹿児島線は八代まで、長崎線は早岐・大村回りで浦上まで、日豊線は柳ヶ浦まで開通してい…
小学生時代の一時期を中津市で過ごしたことから、耶馬渓線を見る機会があり、また乗車する環境にあった。車社会到来少し前のことであろうか、多くの人が耶馬渓線に乗っていた。憧れの的は機関車の牽く列車で、ディーゼル機関車牽引の混合列車と朝夕の長編成…
他界した父親が遺したネガから中津駅で撮ったスナップを発掘する。そこには車輛を撮ったものではないが、キハ105“せせらぎ”+ハフ14の列車が写っていた。当時の耶馬渓線は気動車がトレーラーを牽く、いわゆるD+T、D+T+Dの編成が当り前に走っていた。ハフ1…
キハ101 やまばと 昭和8年に登場した国鉄ガソリンカーキハ40000と同形で、耶馬渓鉄道の自社発注車。キハ101からキハ104までの4輛が存在する。キハ101が“やまばと”、キハ102が“かわせみ”、キハ103が“ひよどり”、キハ104が“せきれい”と愛称が付けられている。 …
鉄道全盛時代、大分県北には私鉄の大分交通4路線が健在であった。それは杵築起点の国東線(杵築~国東/30.3km)、宇佐接続の宇佐参宮線(豊後高田~宇佐八幡/8.8㎞)、豊前善光寺接続の豊州線(豊前善光寺~豊前二日市/15.5㎞)、そして中津起点の耶馬渓線(…
大分電車区脇を通りがかった際、少し毛色のちがう車輛が居ることに気づき近寄ってみた。遠目から南福岡電車区のクモヤ740が遠征に来ているものと思いきや、「分オイ」標記も真新しいクモヤ440であった。クモヤ440は、南福岡のクモヤ740の交流牽引車に対して…
別府市街の高架線を特急“にちりん”が行く。別府駅は昭和41年9月に高架化され、前後の線形は高架に合わせて15‰の勾配がついている。上り列車は東別府を通過すると朝見川の手前で大きく右に曲がる。 日豊本線別府~東別府 S61(1986)/6 東別府界隈を後方の山裾…
10系寝台車やスハ43系座席車で組まれた急行編成に、ひときわ屋根の低い一番最初に目が向く、私の好きなクルマがスロ62である。銀色の低屋根に載った形の良いAU13ユニットクーラー、ウインドシル下淡緑色の帯、下回りで目を引く冷房電源のディーゼル発電機とT…
熊本電鉄菊池線は熊本市街の上熊本から阿蘇外輪山の麓、菊池渓谷で有名な菊池までの路線であった。中学生時代、社会科の地図帳を見ると宮原線肥後小国と熊本電鉄菊池の間に点線が引かれ、他にも高森と日ノ影との間にもあって、それは当時の鉄道建設予定線で…
新ニイ標記のキハ58、発車間際の喧噪が飛び込んできた。名古屋と新潟を結ぶ気動車10輛編成の急行“赤倉”は、463㎞を8時間26分かけて走破する昼行の長距離列車で、その経路は名古屋ー中央西線ー塩尻ー篠ノ井線ー篠ノ井ー信越本線ー新潟と壮大な道のりであった…
C61はD51のボイラにC574次形の足まわりを組み合わせ、従輪を2軸とした軸配置2C2のハドソンである。D51は見慣れているものの、下回りが高いからかボイラがやけに太く感じられる。C6119〔宮〕は青森時代の副灯の後が残り、フロントデッキの穴はスノープラウ装…
どしゃ降りの雨の中、C57109〔宮〕牽引の鹿児島発門司(操)行貨物列車が中線に到着した。牽引機は宮崎からC61に交代し、南延岡から大分まではD51の担当となる。C57109はもと大分運転所所属機で、幸崎電化後も大分に残った7輛のうちの1輛である。昭和43年10…
客車入換をするC57127〔宮〕は昭和46年春の山陰本線京都口のDL化で梅小路機関区から転属してきた。宮崎機関区での在籍は短く、47年10月時点では鹿児島機関区の配置になっていた。 C57127〔宮〕 宮崎 S47(1972)/1/5
昭和46年夏、趣味誌で報じられた「C61が日豊本線へ入線」に大きな驚きを覚える。奥羽本線秋田~青森間の電化完成で青森機関区のC61は昭和46年10月、宮崎機関区へ配置換えとなった。当初は宮崎~鹿児島間で運用と伝えられたものの、ストーカーの関係で南延岡…
向之原駅東側、若宮踏切で下り貨物列車を待つ。鳥栖発大分行の691レを名乗る貨物列車は豊後森から列車番号は6691レと変わり、豊後森以東は物量が少なくなるのか不定期列車となっていた。豊後森を出ると豊後中村、野矢で長時間停車し、野矢では別府行“由布1号…
日豊本線高城から鶴崎にかけての海側埋立地は、昭和39年の新産業都市の指定により石油化学、石油精製、鉄鋼の工場が立地し、大分鶴崎臨海工業地帯が形成された。九州石油専用線はその時に、住友化学は昭和14年の操業で住友化学専用線はその時代の敷設と思わ…
深夜、旭川駅の電光時計は23:38を指している。この時間で乗車できる列車は宗谷本線方面では札幌発稚内行“利尻”23:50着0:20発、石北本線方面では札幌発網走行“大雪5号”0:57着1:02発のいずれも旅情あふれる夜行列車である。「今は走る汽車にこの身をあずけて♪…