568貝塚行は循環線祇園町で千鳥橋方へ進路をとる。画面右は呉服町へ向かう。後方は国鉄博多駅ビルがそびえている。
西新行68は博多大丸を背景に呉服町から貫線に入る。
千代町は貫線と循環線が交差する。手前が循環線千鳥橋方で、2054貝塚行の後方に貫線が横切る。画面右が天神方、左が九大前方である。
城東橋電停は大牟田線の平面交差を挟んで画面手前左に西新方面乗場、電車が停まっている所が渡辺通一丁目方面乗場で離れていた。城南線で体験した鉄道線と軌道線のクロスする重たい音と振動が蘇ってくる。
貫線大手門電停近く。木々の向こうに平和台球場の照明灯が見える。あの西鉄ライオンズはこの時は太平洋クラブ・ライオンズだったかな。
西新は貫線と城南線が合流する。雪でぬかるんだ軌道を連接電車が行く。『北に札幌あれば南に福岡あり、どちらも日本で連接電車を重用した主要都市』は「わが心の路面電車(上)(小林茂著/プレスアイゼンバーン/平成6(1994)年1月刊)のキャプションから。
写真は全て田口雅延さん 昭和49年撮影
半世紀前、博多駅前の電停に向かって行った私は何もわからないまま、たまたまやって来たマルーンとベージュの路面電車に飛び乗ったものと思われる。福岡市西方の街、西新に向かうためである。循環線や貫線、城南線の名称を聞いたがどの線がどの経路という事はよくわからないままであった。天神のクロスが印象にあるので8系統(博多駅前―呉服町―天神―西公園―西新)に、大牟田線との平面交差が衝撃的だったので10系統(西新―六本松―薬院大通―渡辺通一丁目―博多駅前)に揺られたのではないかと後付けで想像している。当時の運転系統図は1回乗車35円と記されていた。50年の時を経て「あの頃の九州の中心地、商都博多の街」を見ることができた私は幸せである。