転轍器

古き良き時代の鉄道情景

乗車列車の記憶

 学生時代、帰省や旅行で多数の長距離列車に乗車した。写真や記録は無いので乗車列車の記憶はあまり残っていない。最近になって無造作にスクラップした駅弁の掛け紙を見ていたら必ず調整の日付が押印されているのに気づき、その日付を手がかりに回収されないで手元に残った切符の日付と照合してみた。その時の時刻表に書き込ままれたメモやチェックなどから数本の列車が浮かんできた。

 ■つばめ5号

 新幹線が西へ延び博多開業を迎えると、山陽路を走る名だたる特急・急行が全廃されてしまう。瀬戸内海の景色を味わえる昼行特急はこれが最後とばかり、憧れの“つばめ”の指定席を手に入れた。前日の予約で窓際は残っていなかった。

 各駅とも新幹線歓迎ムードが盛り上がっていたと思われる。小倉駅の駅弁は「ひかりライン新幹線東京⇔博多昭和50年3月10日」の帯を入れ、新関門トンネル小倉側出口風景の写真があしらわれていた。

 “つばめ5号”は岡山発熊本行で485系で運転され、小倉まで乗車した。乗車時間約5時間は急行が6時間を要していたので速かったと思う。岡山から広島までは広島弁満開のとなりの席の乗客と盛りあがり、広島下車後は窓際席に移って車窓を堪能する。山陽本線の昼行特急はこれが最後の乗車ではないかと思われる。

 ■あさかぜ3号

 受験移動で乗った“あさかぜ3号”。福岡の試験会場から西鉄市内線で博多駅着。次の戦地目指して東行寝台特急の人となる。博多発“あさかぜ”は20系と14系で、下関発は20系で運転されていた。関門橋の写真を使った駅弁掛け紙に駅名は書かれてなく北九州各駅で扱うものと思われる。門司のホームで買ったのか、はたまた車販で確保したのだろうか。

 翌朝の朝ごはんは名古屋駅の駅弁だ。名古屋城徳川家康の家紋が描かれている。特急券・寝台券と門司駅名古屋駅の駅弁の日付がつながった。

 14系3段寝台の上段に乗っている。博多から東京まで16時間30分の旅であった。

  ■銀河

 夜行“銀河”は昭和50年3月改正で2本から1本になったと思われる。寝台車の編成に2輛だけ座席車がつながれていた。進行方向に席が並んだスハ44だったと思う。急行券300円、指定席券400円には隔世の感あり。

 京都に着いて「平安弁当」を買っている。大文字山と寺社仏閣をあしらったデザインで京都に着いた実感がわく。調整日時25日7時のスタンプで24日乗車の切符とつながった。

 京都まで約8時間半。国鉄ハイウエイバス“ドリーム号”も東京を“銀河”より15分後に出て京都へは7:45に着くダイヤで互角だった。“ドリーム”号も乗ったことがあるがとても窮屈だったのを覚えている。

 ■銀河52号

 大阪発4月7日までと4月13・14・20・21・26日→5月7日まで運転される臨時列車。12系だったか旧形客車だったか覚えていない。

 大阪乗車は車窓から目が離せない。新大阪を過ぎると千里丘辺りまで続く吹田操車場のヤード、向日町運転所の車輛群、梅小路のヤード、山科分岐の開通したばかりの湖西線野洲電車区と興味はつきない。そうこうしていると米原のヤードが近づいてくるがこの辺が限界でうつらうつらとするのではないか。朝は静岡駅の弁当をゲットしていた。DISCOVER→JAPANロゴ入りの賑やかで楽しい掛け紙だ。

 ■銀河2号

 この日は高松で“銀河2号”を予約している。座席指定が取れなかったので泣く泣く中段寝台にしたものと思われる。宇高連絡船で宇野へ出て宇野線からその先大阪までは切符や時刻表のメモがないので全くわからない。“銀河1号”は大阪21:00発。名古屋で紀伊勝浦からの“紀伊”を併結して上京する。“銀河2号”は22:50発。スハネ16だったかもしれない。

 明けて9月6日、“銀河2号”は静岡5:41、富士6:22、沼津6:58、熱海7:28と細かに停車する。沼津・三島・御殿場駅記載の「幕の内弁当伊豆」の掛け紙が残っていた。汽車の背景に富士山と駿河湾を配した旅情あふれるデザインだ。

 ■アルプス54号

 中央本線に夜行の客車列車が健在だった。季節列車“アルプス54号”は小海線信越本線巡りハイクで新宿から小淵沢まで乗車した。新宿駅地下道に整列させられてホームに出たような気がする。その際簡易な急行券を買ったのではないか。小淵沢まで163Kmなので急行券は「200Kmまで300円」でカットされていた。まるでハイカー専用列車のようで超満員だった記憶がある。

 牽引機はEF6436〔甲〕。ホーム柱には「0時30分発松本行」と書かれた鉄板の案内が掲げられていた。中央東線の知識といえば長大な笹子トンネル、スイッチバック駅、低屋根800番台の電車、客車列車に暖房車が付いていたこと等々を持ちあわせていた。 新宿 S50(1975)/6/15

 小淵沢駅国鉄構内営業の駅弁は「6月15日5時調整」のスタンプが押されている。初夏が見どころのレンゲツツジを中心に、八ヶ岳連峰・観音平のイラストと小淵沢音頭の歌詞を周囲に配した盛りだくさんの掛け紙であった。

 ■ばんだい6号

 日中線・只見線の蒸機を撮りに初めて北行の列車に乗る。汽車の写真は撮っているので記憶は残っているが、行き返りの事は全く覚えていない。いっしょに行った友とは年賀状だけの付き合いとなっていたがインターネットが普及した頃からメールのやり取りを始め、この時のことは彼の記録から知ることとなった。

 上野からの編成は前より7連が仙台行“あづま2号”、後方6連が会津若松行“ばんだい6号”の併結列車であった。本来なら後方のハコに乗らなければならないが、満員でしかたなく“あづま2号”の後部運転台デッキに座り込んだと聞いた。私は不覚にも記憶がない。彼のすごさは乗車列車を記録していることで、郡山まではクモハ453-19〔仙セン〕に、分割の郡山で“ばんだい6号”モハ454-27〔仙セン〕に乗換えたようだ。45年が経ってこの時の事があぶり出され、鉄道趣味の友のありがたさを思う。

 編成表を念頭に時刻表で行路を辿る。今の知識を持ってこのルートを辿るとまた新たな発見があるかもしれない。

 前にも後にも汽車の写真を撮るのに苦労して山に登ったのはこの時だけだ。第3只見川橋梁を渡る手前、汽車が見えて慌ててシャッターを押す。 只見線会津宮下~早戸 S49(1974)/6/15

 2通りの柄の駅弁掛け紙が残っていた。磐梯山五色沼のイラストは調整印「6月16日11時」、福島県の花シャクナゲのイラストは調整印「6月16日17時」、いずれも郡山駅であった。上野発は6月14日、日付が変わって会津若松着は6月15日で、6月16日は帰りの日となる。同行の友とは翌日は別行動だったので私の足取りはつかめない。翌日は磐越西線中山宿でED77を撮ったりして郡山へ向かったので17時の駅弁は納得できるが、昼食の11時の駅弁は謎のままになりそうだ。

 今となっては当時の思いを持ってしてももう二度とかつてのルートを辿ることはできない。東海道は“さん・すー・ちー”と呼ばれた大垣夜行、山陽・山陰の海岸沿い、“きたぐに”で通った北陸路、“白鳥”で味わった日本海縦断、関門渡船・宇高・青函連絡船、良き時代の鉄道模様を経験できたのは幸せであったと思う。