転轍器

古き良き時代の鉄道情景

ノスタルジックトレイン

 本を読む機会はめっきり少なくなった今、病院や歯医者の待ち時間に気ままな汽車旅を綴った内田百閒の「阿房列車」(新潮社刊)シリーズを読んでいた。「第三阿房列車」に収められた「長崎の鴉 長崎阿房列車」の頁をめくっている時に私の汽車の壺をくすぐられたというか、琴線に触れたようで趣味的深みにはまってしまった。話は東京から長崎と八代を巡って帰京する汽車旅の道中記で、気軽におもしろく読みながらふと立ち止まった箇所は次のくだりであった。

 『武雄駅で後部に補助機関車をつけた』
 『大村駅から、今度は前部に補助機関車をつけた』

 長崎行急行“雲仙”が佐世保線大村線を経由すること、西谷峠や終着長崎手前の山越えのことに触れているかのような描写に俄然興味が膨らんできた。

 改めて東京駅からの旅情を味わってみたい。

 『今度の汽車は、長崎行二三等急行、第三七列車「雲仙」である』
 『二等寝台であるが、 コムパアトになった特別室がついている』

 思わず手持ちの時刻表復刻版に目をやるが37レは見つからず、見つかっても“雲仙”は長崎本線経由であるし、いつ頃の時代を語ったものか気になってきた。しかし解説を見ればわかってしまいそうなのでそれは伏せて思いを巡らせることとする。

  『雲仙は初めの内、寝台車がなかったが、一年余り前から連結する事になった様である』
  『二三等急行だから、寝台も二等寝台であるが、この「雲仙」と東北本線の「北斗」には、コムパアトになった特別室がついている』

 列車運行について随分と詳しい表現で、内田百閒は単なる汽車旅を楽しむだけではない車輛運用の知識をも持ちあわせているのだろうかと思ってしまう。

  『すでに這入っている列車の最前部二等コムパアトに神輿をすえ』
  『今夜の特ロネ、二等コムパアトは四人室である』

 寝台車が何なのか気になって寝台車特集の本を開いてみるが該当しそうな車に行き当たらない。

 時刻表復刻版の国鉄寝台車案内を見ると、物語の表現にある解放寝台と4人用コンパートメントがあるのはマロネ38のようだ。

 マロネ38は3軸ボギーでぶどう色の車体に2等車の青帯が巻かれていたと思われる。区分室のある優等寝台車は連合軍の接収を受けたと聞いたことがあり、詳細はわからないがマロネ38もその前身にモニター屋根の高級車があったかもしれない。

  『漸く発車時間になって、電気機関車の曖昧な汽笛が鳴り響き、それは郵便車と荷物車とを隔てただけですぐに機関車だから、よく聞こえる』

 機関車の汽笛で旅が始まり胸が弾む。機関車はぶどう色のEF58しか思いつかないが、EF57もあるだろうか。

 『小田原を出て熱海へ行く中間の、いくつもある隧道を丁度抜け出した所で、同じ「雲仙」の上り第三八列車と行き会い、お互いの電気機関車が嘶き交わして擦れ違った』

  『つい半年ばかり前まで、浜松駅で電気機関車蒸気機関車につけ換えたが、この頃は名古屋まで電気機関車の儘で行く事になっている』

 汽車好きにはたまらない表現だ。改めて名古屋電化が昭和28年7月、東海道全線電化が昭和31年11月ということを知る。

  『いつの間にか窓が真暗になり、窓硝子に響く汽笛の音が、蒸気機関車C62の複音に変わっている』

  『悠久六時間、道のりにして三百数十粁を居座った挙げ句にコムパアトへ帰ったら、もう大阪が近い』

 物語はいつの間にか食堂車での話となり、天竜川を渡るあたりから大阪に着く手前まで食堂車に長居したことをおもしろく語っている。食堂車は何が付いていたのだろうか。

 スシ48は“雲仙”の他に東京~鹿児島間“きりしま”に組込まれていたのを編成表で見つけることができた。

 優等寝台車にこだわった物語では食堂車も重厚感のある二重屋根のマシ29の方が似合っているように思う。

  『関門隧道を抜け、博多を過ぎて、筑紫平野を驀進する』
  『博多の次の停車駅鳥栖から鹿児島本線を離れて長崎本線に這入り』
  『肥前山口で又長崎本線から岐れて佐世保線に這入り』

 九州に入ると次々と線路が分岐して行くのでその様子を語り、冒頭の武雄駅でのくだりを読み進んでいくと、

 『後部に補助機関車をつけた。勾配があって後押しをする為だけではなく、早岐で列車が二つに割れて、長崎行と佐世保行とに分かれる時、後部から千切れる佐世保行を引っ張る為ではないか』

 詳細な描写に度肝を抜かれる。私の感覚では武雄から永尾までの後押しであるが、真偽の程は別としてこれもありかなと、思ってしまう。そして

 『だれにも尋ねて見たわけでなく、これは私一人の邪推』

と結んでいる。早岐から大村線に差しかかったところで、

 『西日が車窓一杯に射し込むので、みんな窓の日除けのカアテンを下ろしている。私はまぶしくても、暑くても構わないが、しかし日が低くなっているから、開けておけば奥まで射し込み、他人が迷惑する。止むを得ずカアテンを引いたので、ろくろく景色が見られなかった』

 この表現はあきらかに座席車での様子と思われる。ということは寝台車マロネ38は博多で切り離されたのではないか。汽車好きは車窓を見たいので日除けを下ろしたくない気持ちはとてもよく伝わってくる。

 『大村駅から、今度は前部に補助機関車をつけた。前につけたのはどう云うわけか、引っ張る為か回送か、私にはわからない。そうして諫早で又もとの長崎本線に戻り』

 機関車の連結を詳細に語っている。この先、大村線岩松と諫早の山越えと、西彼杵半島のつけ根を行く長崎本線の山越えを意識してのことか、もしそうであるならただの旅好きとは思えない相当な鉄道の知識を持ちあわせているものと思われる。

 『まだ明かるい四時四十五分、定時に長崎に着いた』

 急行“雲仙”は一昼夜かけて運転されていた。

 『ちんちんごうの市電に乗り、長崎駅で靴を磨かせてから宿屋に帰った』

 翌日の市内散策の帰り。忘れていたこの時代の駅頭の景色が浮かぶ。そういえば「ガード下の靴みがき」という歌があった。

 『長崎を立った朝の汽車が、大村湾の浜辺にかかる頃は、すっかり晴れ渡り、ちりめん波が磯に寄せて、背黒鶺鴒の脚を濡らしていた』

 長崎を出て鳥栖に向かう列車からの描写はとても素晴らしく、あちこちにちりばめられた文学的な表現に酔いしれた長崎阿房列車であった。

 帰京の日は列車名の記述はなく、八代から乗っている。熊本、大牟田、久留米で車窓の景色を語った後、

 『そうしてとっぷり暮れた博多から、増結した一等寝台車のコムパアトに乗り移って一路東京へ』

 と結んでいる。優等寝台車の博多回転車の事を触れているので下り“雲仙”では博多で寝台車から座席車へ乗り移ったものと納得する。

 鉄道ファン194(昭和52年4月号)「食堂車の付いた客車列車編成記録」から、小説に近いであろう年代の記録をひろってみた。郵便車・荷物車を隔てて機関車の汽笛がよく聞こえる半室区分寝台のマロネ38が組込まれている。早岐で別れる佐世保行も付いている。編成は長崎持ちで、オハ35系とスハ43系で組まれ10系客車登場以前と思われる。この時代の客車所属標記の略号で、早岐客貨車区は「門ハイ」ではなくて「門ハヤ」であったようだ。いろいろな過去の事実が旅情とともに炙り出されてくるのはとても有意義であった。興味そそる牽引機はEF58→名古屋からC62、山陽筋はどこで機関車交代するのだろうか。関門はEF10、門司からはC59→C57→C51と継走するのであろうか。補機は武雄でC11、大村はC51であろう。私のノスタルジックトレインの想像と夢は膨らむ。