転轍器

古き良き時代の鉄道情景

昭和47年懐古

 昭和47年は春の新幹線岡山開業、秋の鉄道100年と話題の多い年であった。動力近代化の波は一気に押し寄せて、身近な路線の蒸気機関車が姿を消した一年でもあった。私の昭和47年を振り返ってみた。

 昭和47年の幕開けは前年に青森から宮崎に転属となったC612と会うことができた。副灯の付いた奥羽本線装備そのままの勇姿に感動した。この後動態保存機として宮崎を離れているのでC612との対面は千載一遇の機会であった。 南延岡 S47(1972)/1/5

 日ノ影線の貨物運用に就くC1255〔延〕のナンバープレートは形式入の大形が付いていた。C12は九州では日ノ影線と高森線、指宿枕崎線で使われていて、C12とはこの時が初対面であった。 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

 新幹線岡山開業に伴う47年3月15日の白紙ダイヤ改正豊肥本線豊後荻~大分間の旅客列車の無煙化が行われた。久大本線に投入されたDE10は増備を重ね、ついに豊肥本線のC58を追いやることとなった。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S47(1972)/4

 熊本~大分間の貨物を担っていた9600はこの改正で熊本~宮地間に短縮され、宮地~豊後竹田間の貨物輸送は廃止された。 熊本機関区 S47(1972)/3/29

 立野スイッチバック雄大な景色の中の9600を撮ろうと坂を上っていた。上り貨物の後部にC12が付いていて慌ててカメラを向ける。 豊肥本線瀬田~立野 S47(1972)/3/29

 憧れの冷水峠へと向かう。時既に遅くC55の姿はなく、上り貨物の本務機はDD51が進出していた。後部補機は原田に転車台があるのにわざわざ逆向きで押している。飯塚からの急行“天草”の後部補機を務めるための送り込みであった。 筑豊本線筑前内野~筑前山家 S47(1972)/3/30

 後藤寺や船尾は熱望の地であった。重連が多く、その並びは逆向き、背中合せ、向い合せと多彩で石灰石列車の魅力を充分に堪能できた。 後藤寺線船尾~起行(貨) S47(1972)3/30

 我が街の皆に愛された路面電車大分交通別大線が廃止された。この時に“モータリゼーション”という言葉を初めて聞いた。蒸気機関車よりも先にいなくなるのに納得がいかなかった。 大分交通別大線 S47(1972)/4/3

 5月5日こどもの日、別府~豊後森間に“おとぎ号”が運転された。D60がいなくなった久大本線をひさしぶりに蒸機列車が疾走した。 大分運転所 S47(1972)/5/5

 3月改正は豊肥本線客車列車の無煙化であったが、6月改正は豊肥本線豊後竹田~大分間の貨物列車のDL化が完了し、豊肥本線からC58の煙が消えた。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S47(1972)/3

 日豊本線大分~佐伯間をC57牽引の客車列車が残っていたが、こちらも豊肥本線同様DE10と交替した。 日豊本線大分~高城 S47(1972)/4

 大分運転所に最後まで残ったC58と8620は皆冷たくなっていた。可哀そうな光景で残念であった。 S47(1972)/6/11

 筑豊から姿を消したC5552とC5557は吉松に転じていた。まさか日豊本線で再会できるとは思ってもみなかった。 日豊本線田野~門石(信) S47(1972)/8/10

 吉都線肥薩線経由博多行“えびの3号”が宮崎を発車した。大淀川橋梁は2年後の電化に備えて早くもポールが建っていた。 日豊本線宮崎~南宮崎 S47(1972)/8/10

 宮崎駅0番線からはみ出して待機しているキハ20400番台は日南線志布志線経由の都城行のようだ。 宮崎 S47(1972)/8/10

 若松の庫で見て以来2年ぶりに本線を疾走するD50140〔直〕と会うことができた。この後梅小路蒸気機関車館へ旅立っているので幸運な出会いであった。 筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/8/11

 バス窓のキハ20は前照灯は原形のまま未だ健在であった。 大分 S47(1972)/8

 高城で上り貨物列車が退避する横を下り急行“日南2号”の寝台車編成が駆け抜ける。この日はA寝台車オロネ10が2両つながる豪華な編成であった。 日豊本線高城 S47(1972)/10/9

 鉄道100年のこの年の鉄道記念日に大分運転所では各局より機関車を借りて展示会を催した。来場者が多く盛況であったが、私的には廃車後の罐が集められて少々不満であった。 大分運転所 S47(1972)/10/14

 日ノ影線は昭和47年7月22日、高千穂まで延伸されて線名は高千穂線と改められた。南延岡の2輛のC12はいずれも形式入大形プレートが自慢であった。 南延岡機関区 S47(1972)/12/29

 昭和47年10月は白新線羽越本線の電化と奥羽本線無煙化で秋田と横手のD51がたて続けに南延岡機関区へやって来ることとなった。大分運転所に立寄るとこれらの罐たちが扇形庫に入っていて不思議な光景を味わっていた。まさか2つ目のD51が日豊本線を走るようになるとは夢にも思わなかった。 大分運転所 S47(1972)/12/30

 昭和47年の年末年始の臨時輸送はC57115〔大〕が臨時急行牽引に抜擢され、大分~宮崎間を往年の運用さながらに下り“日南51号”、上り“高千穂51号”に充当されたようだ。本線走行の撮影は翌年の楽しみとして昭和47年大晦日を迎える。 大分運転所 S47(1972)/12/30

 昭和47年で印象に残っている事は、北の白糠線延伸、南の日ノ影線延伸で高千穂線、古江線が大隅半島を循環する大隅線として新たな鉄道が出現したことだ。高校生だった私は更なる鉄道の発展を夢みていた。開通のニュースは明るい未来と受け止めた私の昭和47年である。あれから半世紀が経ってしまった。