転轍器

古き良き時代の鉄道情景

琺瑯行先板から浮かぶ鉄道模様

 実家の片付けをしていたら思わぬ琺瑯引きのサボ板が出てきた。たぶん国鉄時代末期に百貨店や量販店で開催されていた“鉄道用品即売会”で買ったものと思われる。片面「延岡行」、片面「富高行」であった。はて、日豊本線に延岡行や富高行の列車があったのか少し不安になってきた。

 富高駅は宮崎本線が北上延伸した大正10年に開業、同時に細島(軽便)線も開通している。その後豊州本線と宮崎本線が統合して日豊本線となり、細島線接続の富高駅は昭和38年5月に日向市駅へと改称された。

 富高駅と細島(軽便)線が開通した翌年の大正11年に南延岡へ、さらに延岡へと延伸開業する。小倉から鹿児島までが日豊本線となったのが昭和7年、日ノ影線は昭和10年に開業する。機関区が置かれた南延岡は日豊本線蒸気機関車、細島線の蒸気動車、日ノ影線の機械式気動車が配置される。

 これらの基礎知識を元に古き良き時代の延岡地区の鉄道模様に触れてみたい。サボの書体は国鉄書体の丸ゴシックで、配置区の略号は一部かすれているが「ノヘ」と読める。後の南延岡は分ノカで、同じく大分の分ヲウなどの旧略号は昭和32年以前に使われていたものと思われる。また筆字書体から丸ゴシック体へと移り変わっていったのは昭和29年頃からと聞いている。

 手持ちの時刻表復刻版(昭和25年・31年・34年)で探すと、富高行は発駅は延岡、日ノ影・川水流、細島があり、逆に延岡行に富高発は無く、日ノ影・川水流・細島・重岡発延岡行の列車を確認することができた。何れも気動車列車であった。

 南延岡機関区は昭和17年に日ノ影線と細島線用にキハ41000が配置された。細島線の蒸気動車はこの年まで配置があったようだ。キハ41000は数を増やして昭和24年では7輛になっていた。キハ42500と交代の時期は定かではないが、昭和31年4月の配置表はキハ42500が6輛配置となっていた。昭和32年の車輛称号規程でキハ42500はキハ07と改称された。

 昭和32年に撮られた南延岡のキハ42500の写真を見ると、車体に新番号キハ07〇〇、旧番号キハ425□□アンダーライン入りでナンバリングが併記されていた。客車に取り付けられていたとばかり思っていたサボは実は旧気動車色をまとったキハ07に下げられ、それも昭和29年頃から昭和37年頃までではないかと想像する。昭和37年4月の配置表を見るとキハ07は姿を消し、キハ10とキハ20が記載されていたからだ。

 キハ10系以降のサボ受けは客車タイプとは形状が異なると思ったからであるが、気動車用の運転経路を示すサボが登場するまでは使われたのかもしれない。 南延岡機関区 S47(1972)/12